第9話 オワリ

文字数 2,848文字

 バキッ、グジャ――皮と肉と筋肉が突き破られ、異物が強引に入ってくる衝撃に響の身体が跳ねる。

 しかし不思議なことにその刹那の痛みはなかった。ただ己の内側を侵された違和感と圧迫感があっただけだ。

 だが己の左胸からシエルの空の手が引き抜かれたとき――〝それ〟が自分のなかへ置き去りにされた瞬間に奔流はやってきた。

 それは圧倒的な苦痛。身体の外や中を一斉に鋭利な刃物で切りつけられ、刺され、引き裂かれ、焼かれ、溶かされる気持ち悪さと痛み、脳はぐちゃぐちゃ、心臓はズタズタ、どろどろのぐるぐる、始まったかと思えば終わり終わったかと思えば始まり途中で始まり途中が終わり終わらずずっとずっとずっとずっとずっと続く奔流にブクブクブクブクブク、――、ぁ、あああ、あぁ

 げんじつ、が分からない。ゆめか分からない。何も認識できない。そうでいて全ぶ認識していてのえり、笑いごぇが聞こえる、悪魔のような、ソれは内から? それとも外から? 死んダ? まだ生きてる? まだ死んでる? 楽シのか苦しいのカ、つ、つつらいのかキモチイイぃのか分からな、い、のえり、わからないテなんだわかっていたことがありまわからなあ、あ、あ、あ、あ、!

 ――――

「っ……!、?」

 ――――――――

 刹那。

 音らしきものが聞こえた、気がする。

 どこからかは分からない。そもそも音なのかも判然としない。何故ならすべてがグチャグチャで右も左もあったものじゃなかった。

 何もかもが自分のなかで失われていくなかで、しかし、清らかに響くそれは確かに響を構築し直した。

「!!」

 途端、視覚や聴覚を急激に取り戻す。

 とっさに左胸へと視線を注げば着ていたカーディガンやシャツ、ブレザーパンツが生々しく血みどろになっているのに気づいた。その下の皮膚や肉も抉れていた。

 明らかにシエルによる致命傷だ。だが痛みはない。出血もない。自分を苛んだはずの狂おしい苦悶だって不思議なほど消失している。

「な、ぇ……!?」

 しかも胸の大傷は響が見下ろす目の前でゆっくりと、しかし確実に再生されていくのだから意味が分からない。

 なんだ、どういうことだ。全部がどうなっている!?

 周囲へ視線を移す。

 時刻は依然として夜だ。辺りには壊れた壁や電柱で雑然とした道路、そして自分の身体は磔の姿勢のままマトモに動かない状態――意識を手放してから取り戻すまでの時間の経過はそれほどないように思えた。

 しかし、先ほどかろうじて意識のあったアスカは今、血溜まりのなかでピクリとも動かなくなっている。その程度には時間は進んでいる。

「クソッ、このタイミングでオマエが来るとか……反則だろ!」

 不意に悪態が聞こえてきて、響はそちらへ首を動かした。

 するとそこにはシエル。彼は先ほどまで浮かべていた余裕な態度から一転、焦った表情を浮かべながら首を押さえている。

 その首には先刻はなかった二本の横線と一本の縦線が走り、マグマのように赤黒く発光していた。

 そこでようやくシエルと対峙する第三者に気がつく。
 男性だろうか。やたらと高い背丈と佇まいからそう判断したが、なにぶん後ろ姿しか見えないので確信はできない。ただ、左手に鋭利な剣状の武器を持っているのは分かる。

 第三者はシエルの言葉にも静謐な雰囲気を漂わせ続けるのみだった。しかしそうかと思えば次の瞬間、シエルに攻撃を仕掛けた。

 響の動体視力では到底追いつけない動きだ。ゆえに響はあれよあれよという間に追い詰められていくシエルしか捉えることができなかった。

 ギリギリ回避するだけで精一杯なのだろう、シエルは後退するばかりで反撃に出ることも叶わず、そればかりか回避すら遅れを取っていく。

 やがてもう躱しきれないと判断したらしいシエルが間一髪で身を翻し斬撃をやり過ごすと、代わりに瞬速の斬撃を受けた道路の地面は深く切り裂かれ、地中に水道管が走っていたのかそこから盛大に水が噴出し始めた。

「まあいいや、ッ、たっぷり、遊んだしな」

 距離を離したシエルが切れ切れの声を絞り出す。そうして再び動こうとする第三者を手で制しながら笑みを浮かべる。

「じゃーね。早くそいつらを助けてやった方がいいぜ?」

 言いつつシエルは傍らで吹き出し続ける水のなかへ飛び込んでいく。そして一度水に全身を飲み込まれれば、その姿は融けあったかのように消えてしまった。

「……水に乗じたか」

 第三者がそう呟くのと磔の姿勢のまま宙で固定されていた響の身体が重力にならい落ちたのは同時だった。恐らくシエルが離れたことで解かれたのだろう。

 それよりも、だ。そんなことよりも大事なことがある。少し先でこちらに背を向け、噴出する水を眺める第三者――も気になるが、それ以上に地に伏したまま動かないアスカだ。彼にアスカのことを伝えなければならないと思った。

 第三者がどういう存在でどういう立ち位置なのかはまったく分からない。

 長身、肩口まである髪は銀、あるいは真っ白。赤褐色のロングコート、右半身の大半を覆う装飾具に身を包んでいることくらいの外見的特徴しか今の響に正しく判別できるものはない。

 だが、シエルと敵対したことやシエルの最後の言葉、今もアスカを庇うよう背にしていることから察するに、少なくともアスカの敵ではないような気がした。

 ならば早く血溜まりのなかで動かなくなってしまったアスカを救助してもらわなければ。もしかしたらもう手遅れかも知れないが、とにかく早く――

 自分に何度も発砲した相手を助けようとするのもおかしな話だが、アスカは危害を加えてきたシエルから助けてくれたフシがある。

 だがそれ以上に、響にとって理屈ではなかったのだ。死にかけの人間を助けようとするのは。

「あ、あの……!」

 だから思いきって背に声をかける。すると彼は振り返りざま響へ斬撃を繰り出してきた。

 何の躊躇もなく。鋭利な武器で的確に首を。

「へ」

 響にとってはまさかの行動、そして振り返った彼の顔全体が恐ろしいペストマスクで覆われているのを知れば響は間抜けな声しか出せなかった。

 最後の最後までこれだ。まったくツイてなさすぎる。

 ゆえにブラックアウトの直前、響の脳裏によぎったものも幸せな走馬灯ではなかった。後悔だった。底なしの無念だった。

 じいちゃんばあちゃん、先に死んじゃってごめんね。
 ……乃絵莉。お前を守れなくてごめ――ブツッ。

 ――この一部始終を知る者は物陰で見つめる一匹の蛇のみだ。





「残念だが夢じゃないよ」
「うわぁあああああああああ!?」

 そこから冒頭1話目に繋がる。

 見知らぬ部屋のベッド上で目を覚ました響は、今の今まで見ていたものが夢であることに心底安堵していた。

 しかし自分以外誰もいないと思っていた矢先にすぐ近くから声をかけられ、響は絶叫するしかなかった。

 夢なんかではなかった。現実だった。

 何故なら反射的に声の方へ投げた視線の先にはペストマスク。自分を殺そうとしていた第三者が響をじっくりと見下ろしていたのだから。
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