第10話 邂逅、夜の海にて
文字数 3,152文字
――しかし。
予想に反して振り下ろされた鉄パイプが響の身体を砕くことはなかった。
アスカは響の傍らを通り抜けたかと思えば、響のすぐ背後へ向けて鉄パイプを振り下ろしていた。
振り返る直前までその空間には何もなかったはずだ。しかしアスカの鉄パイプと何かがぶつかる音がした。
「お、良い反応だ。危ねぇ危ねぇ!」
「――ッ!!」
第三者の声。とっさに背後へ視線を動かせばそこには誰かが、アスカの殴打を受け止めている誰かが立っているのを認める。
「あうっ!?」
しかし脳が第三者を認識する前に身体へ強い衝撃を感じた。
気づいたときには空中で風を切っていた響の身体は砂浜へ投げ出され、それでも勢いを殺しきれず湿った砂の上をゴロゴロと数メートル転がってようやく止まる。
突然のことで驚いているが混乱している場合ではない。どう考えても非常事態だ。
響はすぐに起き上がり、今の今まで自分が立っていた場所に目を向けた。
「ははは、とっさに蹴り飛ばしてオレと引き離したか。機転をきかせたなぁ」
「!!……」
アスカと数メートルの距離を空けて対峙する第三者は、金糸の髪を潮風になびかせながら笑っていた。
宝石のごとく輝く碧眼は心から愉快そうに細められ、形のよい唇が生み出す声色は神の福音のよう。月を背負い逆光となっていても分かる。
この世のものとは思えないほど美しき彼は――
「シエル……!」
響がその名を口にする前にアスカがその名を呼ぶ。苦く絞り出したような声に突如現れた第三者、シエルは笑みを深くしてみせる。
「よう! 奇遇だな。アスカ」
響の方まで伝わってくるアスカの緊迫とは裏腹に、シエルはまるで親しい間柄へ声をかけるような調子で手を上げてきた。
「孤独にバカンスでもと来てみれば、まさかオマエが来るんだもんな。そんなに兄ちゃんが恋しかったか? それとも今度こそ殺されたかった?」
慈愛に満ちた碧眼が生み出す視線は、何をどう間違ったか意地の悪い揶揄となってアスカを刺し貫く。
アスカは鉄パイプを握る手にさらなる力を込めながら舌打ちをした。
「……奇遇なものか。待ち伏せていたな」
「はは、バレてら。オマエらが楽しそうに生物界を移動してるのを感知してな、オレも混ぜてほしくてさぁ。いいだろ? なぁ?」
「ひっ……!」
シエルの視線に貫かれて響はドクリと心臓を揺らした。
それだけではない。頭のなかが真っ白になってしまっている。身体だってひとつも動かない。砂にすべての血がさらわれてしまったようだ。
だってそうだろう、響は彼の行いですべてを失った。
〝織部 響〟であることも。家族も。生物界で生き続ける権利も。
アスカの紋翼を無惨に引き抜き、それを響の心臓――ひいては魂魄に埋め込むという〝混血の禁忌〟によって。
「つーか、オマエらめちゃくちゃ元気なのな。紋翼を根本から引きちぎったら普通は素直に死ぬだろアスカ。
そっちの元人間もさ、響だっけ。〝混血の禁忌〟に遭って生きてるとかどうなってんの? ってことはオレ禁忌の烙印押され損かよ。ツイてねぇ~!」
「……」
シエルは軽薄に話してはひとり笑っている。
鉄パイプを持ったアスカが目の前にいるというのに、無防備な様子で額に手を当て肩を揺らしているのだ。
しかしアスカが無言で鉄パイプの先端に炎を灯し、三日月の刃を形作ると、それはピタリと止まる。
「そう殺気立つなよ。さっきは悪かった、あんまりにも楽しそうだったもんでイタズラしたくなっただけだ。今のオレに敵意はない」
「……。なんだと」
聞き間違いかのようにそれだけ言うアスカにシエルは視線を誘導しようとする。無論アスカはシエルから目を離さなかったが。
「実はそっちに用があってな。なぁ響クン、聞こえてるだろ?」
「っ」
問われても響の唇は動かない。意識を向けられてさらに血の気が引くだけの響に構わず、シエルは気軽な調子で手を振ってくる。
「オマエさ、何か音みたいなのが聞こえてくることってない? こう、頭に直接響いてくる音だ」
「……、」
「教えてくれたらオマエには何もしてやらねぇよ」
言いながら己の白首に走った三本の黒線へ、意味ありげに触れる。
二本の横線と一本の縦線で構成させる黒――それは確か〝混血の禁忌〟に遭い、苦痛と混濁の奔流に一瞬さらわれたあとで意識を取り戻したときに初めて目にしたものだ。
あのときの苦しみは今でもはっきりと脳に焼きついている。気持ち悪くて苦しくて、自我なんかゴミのようにどこかへいってしまって、全部が意味不明になって。
「……、」
そこで響は唐突に思い出した。そういえばあのとき――
「答えるな。響」
記憶が呼び起こされる矢先、アスカは響に声をかけた。
「あいつの言うことは全部無視でいい。それより一瞬でも目を逸らさないでくれ」
「……アスカ君」
その言葉が言葉以上の意味を持っていることに響は気づく。
恐らくアスカは〝一瞬でも隙を見つけられたならヤミ属界に帰還しろ〟と伝えたいのだろう。
実際、初任務の直前に言われているのだから当たらずも遠からずに違いない。
シエル――自分とアスカを殺そうとした流浪のヒカリ属は、アスカと兄弟同然に育った仲であったらしい。
ヒカリがヤミ属界でヤミとして生活するに至った経緯は分からない。
分からないが、アスカとシエルは執行者となったあともバディとして共にあったという――シエルが突如ヤミ属を三名殺害し生物界へ逃走するまでは。
「お、先輩風吹かせてんなぁ。響クンは新しいバディなんだろ? さっさと他に行っちまったか~妬けるぜ。ま、どっちかっつーとお守りに見えるがな」
以降のアスカは執行者の任務と並行してシエルを捜索していたらしい。連れ戻すためではない、殺すためにだ。
そして数ヶ月前、アスカは〝魂魄執行〟の執行対象だった響の命を狙うなかでシエルと再会、交戦した。
しかし結局アスカは響を殺せず、シエルの執行を果たせず、逆に大事な紋翼を奪われる結果となった。
そのうえシエルによって己の紋翼を引きちぎられ、それを響へ埋め込まれてしまったために、響は生物とヤミ属の中間存在〝半陰〟となって転生の輪から外れてしまったのだ。
シエルはアスカにとって脅威であり因縁だ。
だからこそアスカは響に逃げろと暗に示したのだろう。自分を犠牲にしてでも響だけは守ろうとしているのだ。
アスカはシエルの揶揄にも無言のままだった。
響の位置からではアスカの背中しか見えないが、恐らく少し先のシエルを睨んでいるのだろうと察しはついた。
「どっちも黙秘ね。まぁいいや、まずはオマエをブッ殺して――そのあとで響クンから無理やり聞き出すことにするからさ」
声のトーンが明らかに低くなり、響の背筋が一瞬にして凍る。
まるで水が鋭利な氷に様変わりしたかのようだ。アスカの言葉によって我に返った頭がまた真っ白に染まっていく。
怖い。怖い怖い怖い。もうあんな地獄は味わいたくない!
「あ、そうそう。逃げようとしたらオマエから殺すぜ響クン」
「ッ、」
「アスカ。だから今度こそ全力で来いよ」
その言葉に重なって、シエルの周囲の海水が一斉に持ち上がった。
同時に神核片が青く鈍く発光、背に現れたのは非対称で根本から引きちぎられた残骸のごときカタチの紋翼だ。
「紋翼のないヒカリ属だと油断してみろ。オマエはもちろん、響クンもオレのオモチャになっちまう」
さらにそこへ足もとの海水が集まっていく。
そうしてやがて残骸のごとき紋翼を覆うように形作られたのは一対の巨大な水流の大翼だ。
シエルはニヤリと唇を引き裂くようにして笑う。
「オレの権能は〝水〟――つまり地の利があるんだからな?」
「――ッ!」
その言葉は開戦の狼煙。
シエルの紋翼からアスカへ、激流が放たれた。
予想に反して振り下ろされた鉄パイプが響の身体を砕くことはなかった。
アスカは響の傍らを通り抜けたかと思えば、響のすぐ背後へ向けて鉄パイプを振り下ろしていた。
振り返る直前までその空間には何もなかったはずだ。しかしアスカの鉄パイプと何かがぶつかる音がした。
「お、良い反応だ。危ねぇ危ねぇ!」
「――ッ!!」
第三者の声。とっさに背後へ視線を動かせばそこには誰かが、アスカの殴打を受け止めている誰かが立っているのを認める。
「あうっ!?」
しかし脳が第三者を認識する前に身体へ強い衝撃を感じた。
気づいたときには空中で風を切っていた響の身体は砂浜へ投げ出され、それでも勢いを殺しきれず湿った砂の上をゴロゴロと数メートル転がってようやく止まる。
突然のことで驚いているが混乱している場合ではない。どう考えても非常事態だ。
響はすぐに起き上がり、今の今まで自分が立っていた場所に目を向けた。
「ははは、とっさに蹴り飛ばしてオレと引き離したか。機転をきかせたなぁ」
「!!……」
アスカと数メートルの距離を空けて対峙する第三者は、金糸の髪を潮風になびかせながら笑っていた。
宝石のごとく輝く碧眼は心から愉快そうに細められ、形のよい唇が生み出す声色は神の福音のよう。月を背負い逆光となっていても分かる。
この世のものとは思えないほど美しき彼は――
「シエル……!」
響がその名を口にする前にアスカがその名を呼ぶ。苦く絞り出したような声に突如現れた第三者、シエルは笑みを深くしてみせる。
「よう! 奇遇だな。アスカ」
響の方まで伝わってくるアスカの緊迫とは裏腹に、シエルはまるで親しい間柄へ声をかけるような調子で手を上げてきた。
「孤独にバカンスでもと来てみれば、まさかオマエが来るんだもんな。そんなに兄ちゃんが恋しかったか? それとも今度こそ殺されたかった?」
慈愛に満ちた碧眼が生み出す視線は、何をどう間違ったか意地の悪い揶揄となってアスカを刺し貫く。
アスカは鉄パイプを握る手にさらなる力を込めながら舌打ちをした。
「……奇遇なものか。待ち伏せていたな」
「はは、バレてら。オマエらが楽しそうに生物界を移動してるのを感知してな、オレも混ぜてほしくてさぁ。いいだろ? なぁ?」
「ひっ……!」
シエルの視線に貫かれて響はドクリと心臓を揺らした。
それだけではない。頭のなかが真っ白になってしまっている。身体だってひとつも動かない。砂にすべての血がさらわれてしまったようだ。
だってそうだろう、響は彼の行いですべてを失った。
〝織部 響〟であることも。家族も。生物界で生き続ける権利も。
アスカの紋翼を無惨に引き抜き、それを響の心臓――ひいては魂魄に埋め込むという〝混血の禁忌〟によって。
「つーか、オマエらめちゃくちゃ元気なのな。紋翼を根本から引きちぎったら普通は素直に死ぬだろアスカ。
そっちの元人間もさ、響だっけ。〝混血の禁忌〟に遭って生きてるとかどうなってんの? ってことはオレ禁忌の烙印押され損かよ。ツイてねぇ~!」
「……」
シエルは軽薄に話してはひとり笑っている。
鉄パイプを持ったアスカが目の前にいるというのに、無防備な様子で額に手を当て肩を揺らしているのだ。
しかしアスカが無言で鉄パイプの先端に炎を灯し、三日月の刃を形作ると、それはピタリと止まる。
「そう殺気立つなよ。さっきは悪かった、あんまりにも楽しそうだったもんでイタズラしたくなっただけだ。今のオレに敵意はない」
「……。なんだと」
聞き間違いかのようにそれだけ言うアスカにシエルは視線を誘導しようとする。無論アスカはシエルから目を離さなかったが。
「実はそっちに用があってな。なぁ響クン、聞こえてるだろ?」
「っ」
問われても響の唇は動かない。意識を向けられてさらに血の気が引くだけの響に構わず、シエルは気軽な調子で手を振ってくる。
「オマエさ、何か音みたいなのが聞こえてくることってない? こう、頭に直接響いてくる音だ」
「……、」
「教えてくれたらオマエには何もしてやらねぇよ」
言いながら己の白首に走った三本の黒線へ、意味ありげに触れる。
二本の横線と一本の縦線で構成させる黒――それは確か〝混血の禁忌〟に遭い、苦痛と混濁の奔流に一瞬さらわれたあとで意識を取り戻したときに初めて目にしたものだ。
あのときの苦しみは今でもはっきりと脳に焼きついている。気持ち悪くて苦しくて、自我なんかゴミのようにどこかへいってしまって、全部が意味不明になって。
「……、」
そこで響は唐突に思い出した。そういえばあのとき――
「答えるな。響」
記憶が呼び起こされる矢先、アスカは響に声をかけた。
「あいつの言うことは全部無視でいい。それより一瞬でも目を逸らさないでくれ」
「……アスカ君」
その言葉が言葉以上の意味を持っていることに響は気づく。
恐らくアスカは〝一瞬でも隙を見つけられたならヤミ属界に帰還しろ〟と伝えたいのだろう。
実際、初任務の直前に言われているのだから当たらずも遠からずに違いない。
シエル――自分とアスカを殺そうとした流浪のヒカリ属は、アスカと兄弟同然に育った仲であったらしい。
ヒカリがヤミ属界でヤミとして生活するに至った経緯は分からない。
分からないが、アスカとシエルは執行者となったあともバディとして共にあったという――シエルが突如ヤミ属を三名殺害し生物界へ逃走するまでは。
「お、先輩風吹かせてんなぁ。響クンは新しいバディなんだろ? さっさと他に行っちまったか~妬けるぜ。ま、どっちかっつーとお守りに見えるがな」
以降のアスカは執行者の任務と並行してシエルを捜索していたらしい。連れ戻すためではない、殺すためにだ。
そして数ヶ月前、アスカは〝魂魄執行〟の執行対象だった響の命を狙うなかでシエルと再会、交戦した。
しかし結局アスカは響を殺せず、シエルの執行を果たせず、逆に大事な紋翼を奪われる結果となった。
そのうえシエルによって己の紋翼を引きちぎられ、それを響へ埋め込まれてしまったために、響は生物とヤミ属の中間存在〝半陰〟となって転生の輪から外れてしまったのだ。
シエルはアスカにとって脅威であり因縁だ。
だからこそアスカは響に逃げろと暗に示したのだろう。自分を犠牲にしてでも響だけは守ろうとしているのだ。
アスカはシエルの揶揄にも無言のままだった。
響の位置からではアスカの背中しか見えないが、恐らく少し先のシエルを睨んでいるのだろうと察しはついた。
「どっちも黙秘ね。まぁいいや、まずはオマエをブッ殺して――そのあとで響クンから無理やり聞き出すことにするからさ」
声のトーンが明らかに低くなり、響の背筋が一瞬にして凍る。
まるで水が鋭利な氷に様変わりしたかのようだ。アスカの言葉によって我に返った頭がまた真っ白に染まっていく。
怖い。怖い怖い怖い。もうあんな地獄は味わいたくない!
「あ、そうそう。逃げようとしたらオマエから殺すぜ響クン」
「ッ、」
「アスカ。だから今度こそ全力で来いよ」
その言葉に重なって、シエルの周囲の海水が一斉に持ち上がった。
同時に神核片が青く鈍く発光、背に現れたのは非対称で根本から引きちぎられた残骸のごときカタチの紋翼だ。
「紋翼のないヒカリ属だと油断してみろ。オマエはもちろん、響クンもオレのオモチャになっちまう」
さらにそこへ足もとの海水が集まっていく。
そうしてやがて残骸のごとき紋翼を覆うように形作られたのは一対の巨大な水流の大翼だ。
シエルはニヤリと唇を引き裂くようにして笑う。
「オレの権能は〝水〟――つまり地の利があるんだからな?」
「――ッ!」
その言葉は開戦の狼煙。
シエルの紋翼からアスカへ、激流が放たれた。