第39話 オトナたち
文字数 2,619文字
「そうか。ウルが見つかったんだな」
同刻。ヤミ属界、防衛地帯。衛生部隊長室兼診察室にて。
「ああ。最低最悪な形でだが」
久々に帰還したヴァイスへ、今しがた事の詳細を説明し終えたディルは小さく頷く。
「まさか〝罪科獣執行〟の執行対象が長年探してた仲間だったとはな。立ち会っちまったベティ姐さんはさぞキツかったろうさ」
「……」
診察室のイスに座り、口をつぐんだヴァイスの面は相変わらずペストマスクに覆われている。しかしその身体からは珍しくロングコートや、普段なら右半身の大半を守っている装備が取り払われていた。
今、彼は上半身に黒のインナーと金属グローブ、下半身に細身のスラックスとブーツという身軽な出で立ちだ。その代わり鳥かごのような構造物が彼の周囲を覆っている。
「色々思うところはあるが……ひとまず任務が達成できた点においては良かったよ」
ヴァイスがぽつりと言う。
ディルはその斜め後方の壁に寄りかかりながら相棒の背中に目をやった。
その手には手のひらに収まるほどの透明筒を握っており、筒の先端にある針はディル自身によって己の首へ深々突き刺されている。
針に空いた穴から赤い液体が通過し、透明筒のなかへと少しずつ溜まっていく様は三百年の間に幾度も繰り返されてきたものだ。
「お。響は行かせるべきじゃなかったとか言うと思ったが言わないんだな」
「言っただろう。色々思うことはある。だが、合成キメラの存在を考えるとそうも言っていられなくなってしまった」
――合成キメラや神官は明確に響を狙っていた。
合成キメラに深く関与していると思われる神官の現状はもちろん大半が不明な今、合成キメラの分布域や総数などもまだ全然把握できていない。
現在ヤミ属執行者が総出で神官や合成キメラの調査を行っているが、それでも有効な情報は見つけ出せていなかった。
契約寿命の残る生物の惨殺と改造はヤミ属として断じて看過できるものでないため、迅速な解決が求められているものの、いざこちらから探すとなると見つからないのだ。
ヒカリ属執行者のミランダが指名勅令任務を遣わされたのだ。彼女が執行対象である神官を更生できたと仮定するならば、このまま収束に向かってくれる可能性もゼロではない。
しかし、神官の先導で悪魔信仰を行っていたあの村の人々がごっそりと姿を消し、神官の手の内であっただろう〝神の供物庫〟が幻のように消失した事実を鑑みると、問題は何も解決していないとみる方が自然だ。
ならば響をヤミ属界に閉じ込めておくのは得策ではない。彼らは何故か響を狙い、姿を現すのだから。
ディルは己の血液で充填された透明筒の針を首から離すと、今度は別の透明筒の針を刺しにかかる。
「はは、冷静な判断で安心したぜ。響には悪いが事が事だからな。
ま、アスカが守るし性能のいい防具もあるし? 響の身の安全はそれなりに保障されるだろうさ」
「今回の任務はずいぶん危なかったようだったが……ふたりを信じるしかないな」
「そうだ。何より執行者である以上、俺たちが最も気にしなきゃならないのは生物のことだ。
今の時点ではお前に声はかからないだろうが、相手次第ではお前の出番もあるかもな」
「私の出る幕がないのが、一番だが……ッ」
そこで不意にヴァイスの声がくぐもった。ディルが突然の異変にどこぞへやっていた視線を戻すと、灰色の双眸には背を丸め苦しげに震え始める姿が映る。
「っと、今回はやけに早いな……!」
ディルは言いながら壁に預けていた身体をすぐさまヴァイスのもとへ動かした。
そうして今しがた血液で満たした透明筒を己の首から引き抜き、鳥かごの構造物を越えて中へ侵入すれば逡巡なく針をヴァイスの首へ突き刺す。
ヴァイスはディルの行動に一度びくりと身体を揺らしたが、それだけだ。
針は衣服を貫通してはヴァイスの肌へと突き刺さり、充填された赤をヴァイスの体内へ少しずつ流しこんでいく。
診察室の外からは衛生部隊員たちが忙しなく働く音が聞こえてきた。変わらぬ日々は滔々と平然と流れている。そんな日常の隣で、ディルは非日常を見つめていた。
いや、日常のなかの非日常といった方が正しい。自分の血液で少しずつ状態が改善していく相棒の姿は今さら驚くものではない。
「……すまない」
透明筒のなかの血がすべてヴァイスの体内へ流しこまれたころ、ヴァイスの様子は直前までの状態が嘘のように平素を取り戻した。
らしくなく丸められていた背はピンと戻り、フウと安息の吐息のあとで紡がれた声色は普段どおりの淡々だ。
だからディルはヴァイスの首から針を抜きつつ、軽い笑い声を部屋に響かせた。
「どうってこたない。だが今回は多めに持ってった方がいいな。念のためを考えて前回より用意しといて良かったぜ」
言いながら赤に満たされた透明筒を懐から五本取り出すディル。
ヴァイスは傍らに置いていたロングコートを羽織り、その上から右半身を守る防具をつけ、いつもの姿を取り戻す。
そうして周囲にあった鳥かごの構造物をゼンマイ仕掛けの鳥――カナリアのカタチに戻せば、五本を受け取った。
「勘がいいな。これだけあれば任務にさらに専念できる」
「勘じゃない、前回の診断結果からの〝念のため〟だ。
任務にこれ以上専念させるために渡すわけでもないぜ。むしろもっと頻繁に帰還して俺のとこ来いよ。こうも最低限じゃ経過も見づらい」
「ああ。さて、そろそろ行くよ」
「行くってどこに。アスカのとこか?」
「裁定神殿だ。新たな任務を拝受してくる」
「……さすがに休んだらどうだ。久々に時間空いたんだろ」
「いや。休暇は貴重だ」
「だからこそ自分のために使え」
「ああ。贖いは自分のためだよ」
ヴァイスは五本の赤をコートの懐へ格納すると、廊下へ続くドアの方へ歩き出す。診察室を一飛びしていたカナリアと共に。
ディルは離れゆく彼の背中をただ見つめている。ドアの前で立ち止まり、ノブに手をかけたまま数秒静止するその背中を。
「……ウルもベティ先輩も、本当に気の毒だった」
ボソリと放たれたヴァイスの言葉は彼らの心情に沿うようで、まったく別のものと重ねているようで。
少なくともディルは今のヴァイスの脳裏に何が充満しているかを知っていた。
だから無言でいると、ヴァイスは「じゃあまた」と振り返りもせず歩みを再開して、自らの日常へと戻っていく。
「……」
オトナはしばらくそこから動かず、唇を引き結び続けていた。
同刻。ヤミ属界、防衛地帯。衛生部隊長室兼診察室にて。
「ああ。最低最悪な形でだが」
久々に帰還したヴァイスへ、今しがた事の詳細を説明し終えたディルは小さく頷く。
「まさか〝罪科獣執行〟の執行対象が長年探してた仲間だったとはな。立ち会っちまったベティ姐さんはさぞキツかったろうさ」
「……」
診察室のイスに座り、口をつぐんだヴァイスの面は相変わらずペストマスクに覆われている。しかしその身体からは珍しくロングコートや、普段なら右半身の大半を守っている装備が取り払われていた。
今、彼は上半身に黒のインナーと金属グローブ、下半身に細身のスラックスとブーツという身軽な出で立ちだ。その代わり鳥かごのような構造物が彼の周囲を覆っている。
「色々思うところはあるが……ひとまず任務が達成できた点においては良かったよ」
ヴァイスがぽつりと言う。
ディルはその斜め後方の壁に寄りかかりながら相棒の背中に目をやった。
その手には手のひらに収まるほどの透明筒を握っており、筒の先端にある針はディル自身によって己の首へ深々突き刺されている。
針に空いた穴から赤い液体が通過し、透明筒のなかへと少しずつ溜まっていく様は三百年の間に幾度も繰り返されてきたものだ。
「お。響は行かせるべきじゃなかったとか言うと思ったが言わないんだな」
「言っただろう。色々思うことはある。だが、合成キメラの存在を考えるとそうも言っていられなくなってしまった」
――合成キメラや神官は明確に響を狙っていた。
合成キメラに深く関与していると思われる神官の現状はもちろん大半が不明な今、合成キメラの分布域や総数などもまだ全然把握できていない。
現在ヤミ属執行者が総出で神官や合成キメラの調査を行っているが、それでも有効な情報は見つけ出せていなかった。
契約寿命の残る生物の惨殺と改造はヤミ属として断じて看過できるものでないため、迅速な解決が求められているものの、いざこちらから探すとなると見つからないのだ。
ヒカリ属執行者のミランダが指名勅令任務を遣わされたのだ。彼女が執行対象である神官を更生できたと仮定するならば、このまま収束に向かってくれる可能性もゼロではない。
しかし、神官の先導で悪魔信仰を行っていたあの村の人々がごっそりと姿を消し、神官の手の内であっただろう〝神の供物庫〟が幻のように消失した事実を鑑みると、問題は何も解決していないとみる方が自然だ。
ならば響をヤミ属界に閉じ込めておくのは得策ではない。彼らは何故か響を狙い、姿を現すのだから。
ディルは己の血液で充填された透明筒の針を首から離すと、今度は別の透明筒の針を刺しにかかる。
「はは、冷静な判断で安心したぜ。響には悪いが事が事だからな。
ま、アスカが守るし性能のいい防具もあるし? 響の身の安全はそれなりに保障されるだろうさ」
「今回の任務はずいぶん危なかったようだったが……ふたりを信じるしかないな」
「そうだ。何より執行者である以上、俺たちが最も気にしなきゃならないのは生物のことだ。
今の時点ではお前に声はかからないだろうが、相手次第ではお前の出番もあるかもな」
「私の出る幕がないのが、一番だが……ッ」
そこで不意にヴァイスの声がくぐもった。ディルが突然の異変にどこぞへやっていた視線を戻すと、灰色の双眸には背を丸め苦しげに震え始める姿が映る。
「っと、今回はやけに早いな……!」
ディルは言いながら壁に預けていた身体をすぐさまヴァイスのもとへ動かした。
そうして今しがた血液で満たした透明筒を己の首から引き抜き、鳥かごの構造物を越えて中へ侵入すれば逡巡なく針をヴァイスの首へ突き刺す。
ヴァイスはディルの行動に一度びくりと身体を揺らしたが、それだけだ。
針は衣服を貫通してはヴァイスの肌へと突き刺さり、充填された赤をヴァイスの体内へ少しずつ流しこんでいく。
診察室の外からは衛生部隊員たちが忙しなく働く音が聞こえてきた。変わらぬ日々は滔々と平然と流れている。そんな日常の隣で、ディルは非日常を見つめていた。
いや、日常のなかの非日常といった方が正しい。自分の血液で少しずつ状態が改善していく相棒の姿は今さら驚くものではない。
「……すまない」
透明筒のなかの血がすべてヴァイスの体内へ流しこまれたころ、ヴァイスの様子は直前までの状態が嘘のように平素を取り戻した。
らしくなく丸められていた背はピンと戻り、フウと安息の吐息のあとで紡がれた声色は普段どおりの淡々だ。
だからディルはヴァイスの首から針を抜きつつ、軽い笑い声を部屋に響かせた。
「どうってこたない。だが今回は多めに持ってった方がいいな。念のためを考えて前回より用意しといて良かったぜ」
言いながら赤に満たされた透明筒を懐から五本取り出すディル。
ヴァイスは傍らに置いていたロングコートを羽織り、その上から右半身を守る防具をつけ、いつもの姿を取り戻す。
そうして周囲にあった鳥かごの構造物をゼンマイ仕掛けの鳥――カナリアのカタチに戻せば、五本を受け取った。
「勘がいいな。これだけあれば任務にさらに専念できる」
「勘じゃない、前回の診断結果からの〝念のため〟だ。
任務にこれ以上専念させるために渡すわけでもないぜ。むしろもっと頻繁に帰還して俺のとこ来いよ。こうも最低限じゃ経過も見づらい」
「ああ。さて、そろそろ行くよ」
「行くってどこに。アスカのとこか?」
「裁定神殿だ。新たな任務を拝受してくる」
「……さすがに休んだらどうだ。久々に時間空いたんだろ」
「いや。休暇は貴重だ」
「だからこそ自分のために使え」
「ああ。贖いは自分のためだよ」
ヴァイスは五本の赤をコートの懐へ格納すると、廊下へ続くドアの方へ歩き出す。診察室を一飛びしていたカナリアと共に。
ディルは離れゆく彼の背中をただ見つめている。ドアの前で立ち止まり、ノブに手をかけたまま数秒静止するその背中を。
「……ウルもベティ先輩も、本当に気の毒だった」
ボソリと放たれたヴァイスの言葉は彼らの心情に沿うようで、まったく別のものと重ねているようで。
少なくともディルは今のヴァイスの脳裏に何が充満しているかを知っていた。
だから無言でいると、ヴァイスは「じゃあまた」と振り返りもせず歩みを再開して、自らの日常へと戻っていく。
「……」
オトナはしばらくそこから動かず、唇を引き結び続けていた。