第9話 まるで遠足
文字数 2,544文字
リェナが響の防具を作成するために響とアスカに頼んだお使いとは、生物界の指定ポイントに一定時間留まるというものだった。
響は当初その意味が分からなかったのだが、ヴァイスによると獲得してきてほしいものは物ではなく要素らしい。
もっとも、〝要素を持って帰る〟というのも、人として長年物質のなかで暮らしていた響には首を傾げることではあったのだが。
指定されたポイント数ヶ所を回っていく。
移動は響の紋翼を使用する。既に何度も任務で生物界へ下りているので以前よりは精度が上がっているものの、やはりピンポイントで移動するのは難しい。
しかし、今回は指定ポイントがいずれも広大だったので狙いを大きく外すことはなかった。無事に到着できれば数時間留まるだけの簡単なお仕事だ。
「えーと、最初はめちゃくちゃ高い山の上で二番目が砂漠、三番目が湖、四番目がすっごく広い丘。ここまでは終了したけど、次はどこ?」
「無人島の海辺だな。これで最後だ」
リェナから渡された世界地図のメモを指し示しながらアスカは言う。響は思わずホッと胸を撫で下ろしてしまう。
「ほんと? 良かった~そろそろバテそうだったんだ」
「紋翼での移動は神陰力を食われるからな」
最後のポイントへ無事到着――と言いたいところだったが、やはり疲弊が災いしたらしい。
降り立ったのは無人島の中心部、森のなか。指定ポイントは最端の海辺なのでそちらまで移動する必要ができてしまった。
「うわ、ごめん!」
「大丈夫だ。このまま歩くぞ」
そんなわけで鬱蒼とした森のなかを外側に向かって黙々歩く作業が追加だ。
移動は霊体のままなので、折れた木やヤブで進路が塞がれていても転んだり傷ついたりすることはなかった。
無人島のため人の気配はないが、代わりに獣や虫の気配をたくさん感じる。夜の雰囲気も相まって不気味だ。思わず身震いする響。
「そういえば色んなところを回ってきたけどさ、どこも夜だったね」
恐怖を忘れたくて先導してくれているアスカの背に声をかける。アスカは振り返ることなく小さく頷いた。
「ああ。夜を追いかけるように移動しているからな」
「そうだったんだ。次は太陽の光を浴びられるかなーってずっと期待してた……」
〝半陰〟になってから生活の場にしているのは常夜の世界であるヤミ属界だ。
月と星が明るいので常に夜でも暗鬱に感じたことはないが、それでもただの人間だった響からすれば太陽の光は大事なものだ。
「……今度の休みは、存在養分と陽光を摂取しに来るか」
「いいね。久しぶりに太陽の光を浴びたいし、また東京散策でもしてハンバーガー食べたいなぁ」
「ディル先輩に同伴してもらえるよう頼んでおく」
「え、でもディルさん忙しくない? またついてきてもらうの悪いよ」
「存在養分摂取のために生物界へ下りるときはディル先輩の同伴が必須だ。お前の担当医だからな」
「そういえばそうだった……」
他愛のない話をしながら道なき森のなかを歩いていく。
相変わらず界隈は鬱蒼としてはいるものの、月光が木々の隙間からところどころ木漏れしているのに気づいた。
幻想的な光景だ。加えて時折発生するアスカとの会話にしばし恐怖を手放すことができた。
そうしてようやく森を抜け、急激に視界が開ければ響の心もまた一気に晴れることとなる。
「うわーすごー!!」
響の目の前に広がっていたのは広い浜辺、海、そして雄大な紺碧とささやかな橙の帳に浮かぶ月と星だった。
月光は海面に柔い濡れ線を描き、緩やかに繰り返されるさざ波は聴覚をゆるゆると撫で上げる。
映像でしか出会えないような特別な情景に、興奮で浮ついてしまった響は思わず実体化しながらアスカを追い越し砂浜を蹴った。
海へ走りつつ振り返る。
アスカは突飛な行動に苦言を呈しようと口を開きかけていたが、結局は何も言わず響の行くに任せた。喜びに水を差すのは野暮だと思ったのかも知れない。
要素を得るには実体化した上で一定時間留まる必要があった。
これまでの地点で――標高の高い山頂、夜の砂漠、見渡すほどの湖、広大な丘の上――実体化したときは寒かったり、砂っぽかったりムシムシしたり風が強かったりして苦行のような気持ちになったが、今回は実体化できて本当に良かったと思った。
潮水に足が浸るギリギリのところまで近づきながら、響は己の面に笑みが浮かぶのを止められない。
「ねぇアスカ君、靴脱いで足だけ海に入っていいー?」
波の音に負けないよう大声で十メートルほど後方に立っているアスカへ確認する。
同じく実体化したアスカが少しだけ考えたあとで小さく頷くと、響は待ってましたとばかりに靴と靴下を脱いで濡れた海砂に足をつけた。
「つめたー!」
「……だろうな」
「でも気持ちいいよ! アスカ君も一緒にどう?」
「いや。俺はいい」
すげなく返されても響の興奮は冷めやらない。
両足で冷たい水をパシャパシャと蹴り遊び、肺腑いっぱいに潮の香りを吸い込み、やや湿り気のある風を頬に受けて、生物界の夜と海を味わっていく。
同じ夜でもヤミ属界の夜と生物界の夜は違う。常に夜であることからも分かるように、ヤミ属界の空は不変だ。
それも決して悪くないが、響にはやはり生物界で過ごす夜の方が馴染んだ。
ただの人間だったころから海などほぼ来たことがないのに、今の響の心は懐旧による喜びと興奮で満たされていた。
――だが、その感情はアスカを再び振り返ったことで突如終わりを迎える。
それまでは着ているツナギのポケットにそれぞれ両手を突っ込みながら砂浜に立ち、辺りを見回しているだけだったアスカ。
そんな彼は今、鈍く発光する神核片に右手を埋め込ませながら一直線に響の方へ向かってきていた。足早に、剣呑な表情で。
ゾクリ――響の生物としての本能が命の危機を叫ぶ。しかし突然のことに身体は硬直してしまう。
だからアスカが左胸の神核片から取り出した鉄パイプを振り上げながら目前まで迫ってきても、遅ればせながら目を見開くくらいが関の山だった。
振りかぶった鉄パイプが迷いなく豪速で振り下ろされる。
意味が分からない。だが思考する時間などない。
受け身も取れない、目を閉じる時間だってありはしない。
だが間違いない、殺される――!!
響は当初その意味が分からなかったのだが、ヴァイスによると獲得してきてほしいものは物ではなく要素らしい。
もっとも、〝要素を持って帰る〟というのも、人として長年物質のなかで暮らしていた響には首を傾げることではあったのだが。
指定されたポイント数ヶ所を回っていく。
移動は響の紋翼を使用する。既に何度も任務で生物界へ下りているので以前よりは精度が上がっているものの、やはりピンポイントで移動するのは難しい。
しかし、今回は指定ポイントがいずれも広大だったので狙いを大きく外すことはなかった。無事に到着できれば数時間留まるだけの簡単なお仕事だ。
「えーと、最初はめちゃくちゃ高い山の上で二番目が砂漠、三番目が湖、四番目がすっごく広い丘。ここまでは終了したけど、次はどこ?」
「無人島の海辺だな。これで最後だ」
リェナから渡された世界地図のメモを指し示しながらアスカは言う。響は思わずホッと胸を撫で下ろしてしまう。
「ほんと? 良かった~そろそろバテそうだったんだ」
「紋翼での移動は神陰力を食われるからな」
最後のポイントへ無事到着――と言いたいところだったが、やはり疲弊が災いしたらしい。
降り立ったのは無人島の中心部、森のなか。指定ポイントは最端の海辺なのでそちらまで移動する必要ができてしまった。
「うわ、ごめん!」
「大丈夫だ。このまま歩くぞ」
そんなわけで鬱蒼とした森のなかを外側に向かって黙々歩く作業が追加だ。
移動は霊体のままなので、折れた木やヤブで進路が塞がれていても転んだり傷ついたりすることはなかった。
無人島のため人の気配はないが、代わりに獣や虫の気配をたくさん感じる。夜の雰囲気も相まって不気味だ。思わず身震いする響。
「そういえば色んなところを回ってきたけどさ、どこも夜だったね」
恐怖を忘れたくて先導してくれているアスカの背に声をかける。アスカは振り返ることなく小さく頷いた。
「ああ。夜を追いかけるように移動しているからな」
「そうだったんだ。次は太陽の光を浴びられるかなーってずっと期待してた……」
〝半陰〟になってから生活の場にしているのは常夜の世界であるヤミ属界だ。
月と星が明るいので常に夜でも暗鬱に感じたことはないが、それでもただの人間だった響からすれば太陽の光は大事なものだ。
「……今度の休みは、存在養分と陽光を摂取しに来るか」
「いいね。久しぶりに太陽の光を浴びたいし、また東京散策でもしてハンバーガー食べたいなぁ」
「ディル先輩に同伴してもらえるよう頼んでおく」
「え、でもディルさん忙しくない? またついてきてもらうの悪いよ」
「存在養分摂取のために生物界へ下りるときはディル先輩の同伴が必須だ。お前の担当医だからな」
「そういえばそうだった……」
他愛のない話をしながら道なき森のなかを歩いていく。
相変わらず界隈は鬱蒼としてはいるものの、月光が木々の隙間からところどころ木漏れしているのに気づいた。
幻想的な光景だ。加えて時折発生するアスカとの会話にしばし恐怖を手放すことができた。
そうしてようやく森を抜け、急激に視界が開ければ響の心もまた一気に晴れることとなる。
「うわーすごー!!」
響の目の前に広がっていたのは広い浜辺、海、そして雄大な紺碧とささやかな橙の帳に浮かぶ月と星だった。
月光は海面に柔い濡れ線を描き、緩やかに繰り返されるさざ波は聴覚をゆるゆると撫で上げる。
映像でしか出会えないような特別な情景に、興奮で浮ついてしまった響は思わず実体化しながらアスカを追い越し砂浜を蹴った。
海へ走りつつ振り返る。
アスカは突飛な行動に苦言を呈しようと口を開きかけていたが、結局は何も言わず響の行くに任せた。喜びに水を差すのは野暮だと思ったのかも知れない。
要素を得るには実体化した上で一定時間留まる必要があった。
これまでの地点で――標高の高い山頂、夜の砂漠、見渡すほどの湖、広大な丘の上――実体化したときは寒かったり、砂っぽかったりムシムシしたり風が強かったりして苦行のような気持ちになったが、今回は実体化できて本当に良かったと思った。
潮水に足が浸るギリギリのところまで近づきながら、響は己の面に笑みが浮かぶのを止められない。
「ねぇアスカ君、靴脱いで足だけ海に入っていいー?」
波の音に負けないよう大声で十メートルほど後方に立っているアスカへ確認する。
同じく実体化したアスカが少しだけ考えたあとで小さく頷くと、響は待ってましたとばかりに靴と靴下を脱いで濡れた海砂に足をつけた。
「つめたー!」
「……だろうな」
「でも気持ちいいよ! アスカ君も一緒にどう?」
「いや。俺はいい」
すげなく返されても響の興奮は冷めやらない。
両足で冷たい水をパシャパシャと蹴り遊び、肺腑いっぱいに潮の香りを吸い込み、やや湿り気のある風を頬に受けて、生物界の夜と海を味わっていく。
同じ夜でもヤミ属界の夜と生物界の夜は違う。常に夜であることからも分かるように、ヤミ属界の空は不変だ。
それも決して悪くないが、響にはやはり生物界で過ごす夜の方が馴染んだ。
ただの人間だったころから海などほぼ来たことがないのに、今の響の心は懐旧による喜びと興奮で満たされていた。
――だが、その感情はアスカを再び振り返ったことで突如終わりを迎える。
それまでは着ているツナギのポケットにそれぞれ両手を突っ込みながら砂浜に立ち、辺りを見回しているだけだったアスカ。
そんな彼は今、鈍く発光する神核片に右手を埋め込ませながら一直線に響の方へ向かってきていた。足早に、剣呑な表情で。
ゾクリ――響の生物としての本能が命の危機を叫ぶ。しかし突然のことに身体は硬直してしまう。
だからアスカが左胸の神核片から取り出した鉄パイプを振り上げながら目前まで迫ってきても、遅ればせながら目を見開くくらいが関の山だった。
振りかぶった鉄パイプが迷いなく豪速で振り下ろされる。
意味が分からない。だが思考する時間などない。
受け身も取れない、目を閉じる時間だってありはしない。
だが間違いない、殺される――!!