第29話 すべては食事から始まる
文字数 3,103文字
とはいえ、行きつけであるアビー食堂への道中も大した会話はなかった。
他愛のない言葉を二言三言交わすのが関の山だ。道行くヤミが声をかけてくれるのに応じる方が多かったくらいだ。
アビー食堂に到着し、やつれた響に何かを察したらしいアビーに抱きしめられたりしつつ席につく。
食欲はまだないので控えめにクリームスープとパンをオーダー。
アスカもいつもどおり響と同じものを注文し、温かな湯気を立てるスープと香ばしい匂いを放つパンが運ばれてくれば黙々と食べ始める。
ズズー、ごくり。カリ、ほくほく。
生物の精神、もしくは身体の作りというものは現金だ。美味しいスープを口に含みパンを頬張るごとに、響は少しずつ元気を取り戻していくのを自覚した。
そういえば、と〝半陰〟に変じてしまった当初のことを思い出す。
家族が家族でなくなったことがショックで長く引きこもっていたときも、ヴァイスが強引に食事をさせてくれたことで持ち直したのだったか。
自分が今も人間であることをこんなところで突きつけられて、嬉しいやら、情けないやら。
だが、今回も心を温められたのは確かなのだ。
「――前も言った気がするんだけどさ、苦手なら無理して食べなくてもいいんじゃない?」
スープとパンを平らげてアビー食堂を後にした。
帰り道、相変わらず食べ物全般が苦手らしいアスカ――それでも毎回無理やり完食はする――のテンションの低さに気がついた響は隣で苦笑する。
腹が満たされ心が温まったせいか、アスカに自ら話題を振るくらいの精神的余裕が今の響にはあった。
「……悪い。まだ態度に出ていたか」
「って言っても嫌々っていう態度じゃないよ。食べるのを頑張ってる感じ。
ヤミはヤミ属界にいる限り物を食べなくても元気でいられるんだろ?
毎回食事に付き合わせてる僕が言うのもなんだけど、必要がないなら食べなくてもいいんじゃないのかな」
「いや。食べる」
「……なんで?」
アスカが首を横に振る。響は首を傾げる。
「お前を……生物を少しでも理解したい」
「……、」
「無理やり命を終わらせるんだ。この手で亡くす者たちがどのように生きてきたか、具体的に何を失うのか。それを知ることは大事だと思っている」
「……」
「食事に付き合わせているのは俺の方だ。その割に態度に出てしまうのは俺の鍛錬不足だが、そこはもっと努力する」
「……ふふ」
その言葉に響は思わず吹き出してしまう。
笑われるとは思っていなかったらしいアスカはもちろん胡乱げな顔で響を見た。
「ごめん。鍛錬とか努力とか、食事に使う言葉じゃないなと思ってさ」
「……そうか」
「アスカ君てさ、ほんと真面目だよね。知らなくていいこと、知らない方がいいことを知ろうとしてさ。自分から苦しみにいってるんだもんな」
ヤミ属は非生物であり、本来は明確な姿を持たないらしい。人間の姿カタチをしているのは現代で最も複雑な文化を営む人間を学習するためなのだという。
それはもっと言うと任務を滞りなく完遂するための学習なのだろうと響は思っている。
少なくとも、自分が殺さねばならない存在を深く知って苦しむためではないはずだ。
「……アスカ君は、今までつらくなかったのかな」
「何がだ」
「生物を殺すこと」
響の問い。アスカは数秒口をつぐんだ。響に向けていた視線は前方へと戻され、少しの間ふたりは無言で歩を進める。
「……慣れた」
「そうなの?」
「お前と出会う前――まだ真っ当な執行者だったころは、それこそ毎日何件も任務をこなしていた。生物を殺すたびに立ち止まっていては身が持たない」
「確かに、そうだよね」
響は苦笑しながら頷くしかなかった。
それは実感による肯定だったが、自分の命を奪いにやってきた〝あのとき〟のアスカも同時に思い出していたからだ。
すなわち、まだ寿命が残っていた響を殺しにきながら殺せなかったアスカ――だからこそ思う。
本当は今も慣れていないのだと。殺される側の感情を知り、目を背けず、苦しみながら、それでも執行してきたのだと。きっと数日前の任務のときも。
「ジョン・スミスのときは、悪かった」
「……え?」
考えを読み取られたかのごとく告げられて、響は思わず目を瞬かせる。
反射的にアスカの方へ視線を向けるが、彼は前を見つめたままだ。
「嫌なものを見せた。いくら執行行為は俺がするといっても、見ているだけでキツいのは予測できたことだ。執行中はお前に別の場所へ移動してもらうなり、すべきだったと思う」
「う、ううん。アスカ君が謝ることじゃないよ。そもそも執行者になりたいって志願したのは僕だし……こっちこそごめん。
頭では分かってるつもりだったけど全然覚悟が決まってなくて、何日も落ち込んじゃって」
「……いや」
「僕……アスカ君の紋翼を持ってることにやっぱり悪いなって思っててさ。
前にアスカ君はそんなこと思う必要ないって言ってくれたけど、こればっかりは勝手に湧き上がってくるものでね」
「……」
「だから執行者になることで紋翼を役立てられるならなりたいって思ったし、それでアスカ君も執行者に戻れるなら一石二鳥だな、僕も生物の皆と繋がっていられるんだから一石三鳥だな! ってちょっと浮かれてすらいたんだよね。
……だからかな、ヴァイスさんに言われた言葉をちゃんと理解してなかった。僕には外側の理由ばっかりで、大事な中身がなかったよ」
『――喜びはない。称賛もない。ヤミ属執行者は生物の〝まだ生きたい〟という本能をただひたすら挫き続けなければならない』
それは裁定神殿、エンラが響に『ヤミ属執行者にならないか』と提案をもちかけたあと。ヴァイスが響へ放った言葉だ。
『悲痛な慟哭を無視し、赫怒の声を跳ね除け、怨嗟を真っ向から受けながらとどめを刺す。
君はそれを常に目の当たりにすることになるが、耐えられる自信はあるかな』
そして響は実際に耐えられなかった。
任務自体は達成することができても、アスカの足を引っ張った。今だって引っ張っている。
「分かってるんだ、必要なことだって。寿命の契約を無視してる生物を生かし続ける方が悪いことなんだって。
ヤミ属執行者の仕事を侮辱する気も、もちろんなかったんだ。あれは確かにジョンさんの魂魄のためだった。絶対にそうなんだ。頭では分かってるんだ」
「……」
「なのに心ではそんなふうに思えなくてさ。今にも死にそうなジョンさんがかわいそうで、少しでも楽にできたらって思ったときにはもう近づいてた。
嘘までついた。二度と娘さんやお孫さんに会えない、一ヶ月後奥さんとの結婚記念だって祝えない。
なのに信じさせて、死ぬのをただ見守って、執行者の仕事に泥を塗って……挙句の果てに落ち込んで、立ち直れなくて……ははは。本当に情けないよ」
気がつけば胸のうちがポロポロとこぼれ出していた。いつの間にか足も止まっていた。周囲に他のヤミがいなかったことだけは幸いだ。
アスカもまた立ち止まった響と同じように隣で歩みを止めていた。
そうしてまた数秒、ふたりの間に沈黙が風と共に流れ――やがてアスカが目を伏せた響の傍らで口を開く。
「……俺たちヤミ属執行者の行為は、執行対象にとって紛れもなく無慈悲な殺戮だ。実際は守るためにしていることでも、生物から見た俺たちは死神でしかない」
「……」
「生物にとって生きることは本能だ。命を脅かされることには無条件で苦痛を伴う。執行対象も、執行を見ていたお前だって。
だから落ち込むのは当然だ。自分を責める必要はひとつもない。……執行者を無理に続ける必要だってないんだ」
「……え?」
再びアスカを見上げる響。アスカもまた響を見下ろす。
他愛のない言葉を二言三言交わすのが関の山だ。道行くヤミが声をかけてくれるのに応じる方が多かったくらいだ。
アビー食堂に到着し、やつれた響に何かを察したらしいアビーに抱きしめられたりしつつ席につく。
食欲はまだないので控えめにクリームスープとパンをオーダー。
アスカもいつもどおり響と同じものを注文し、温かな湯気を立てるスープと香ばしい匂いを放つパンが運ばれてくれば黙々と食べ始める。
ズズー、ごくり。カリ、ほくほく。
生物の精神、もしくは身体の作りというものは現金だ。美味しいスープを口に含みパンを頬張るごとに、響は少しずつ元気を取り戻していくのを自覚した。
そういえば、と〝半陰〟に変じてしまった当初のことを思い出す。
家族が家族でなくなったことがショックで長く引きこもっていたときも、ヴァイスが強引に食事をさせてくれたことで持ち直したのだったか。
自分が今も人間であることをこんなところで突きつけられて、嬉しいやら、情けないやら。
だが、今回も心を温められたのは確かなのだ。
「――前も言った気がするんだけどさ、苦手なら無理して食べなくてもいいんじゃない?」
スープとパンを平らげてアビー食堂を後にした。
帰り道、相変わらず食べ物全般が苦手らしいアスカ――それでも毎回無理やり完食はする――のテンションの低さに気がついた響は隣で苦笑する。
腹が満たされ心が温まったせいか、アスカに自ら話題を振るくらいの精神的余裕が今の響にはあった。
「……悪い。まだ態度に出ていたか」
「って言っても嫌々っていう態度じゃないよ。食べるのを頑張ってる感じ。
ヤミはヤミ属界にいる限り物を食べなくても元気でいられるんだろ?
毎回食事に付き合わせてる僕が言うのもなんだけど、必要がないなら食べなくてもいいんじゃないのかな」
「いや。食べる」
「……なんで?」
アスカが首を横に振る。響は首を傾げる。
「お前を……生物を少しでも理解したい」
「……、」
「無理やり命を終わらせるんだ。この手で亡くす者たちがどのように生きてきたか、具体的に何を失うのか。それを知ることは大事だと思っている」
「……」
「食事に付き合わせているのは俺の方だ。その割に態度に出てしまうのは俺の鍛錬不足だが、そこはもっと努力する」
「……ふふ」
その言葉に響は思わず吹き出してしまう。
笑われるとは思っていなかったらしいアスカはもちろん胡乱げな顔で響を見た。
「ごめん。鍛錬とか努力とか、食事に使う言葉じゃないなと思ってさ」
「……そうか」
「アスカ君てさ、ほんと真面目だよね。知らなくていいこと、知らない方がいいことを知ろうとしてさ。自分から苦しみにいってるんだもんな」
ヤミ属は非生物であり、本来は明確な姿を持たないらしい。人間の姿カタチをしているのは現代で最も複雑な文化を営む人間を学習するためなのだという。
それはもっと言うと任務を滞りなく完遂するための学習なのだろうと響は思っている。
少なくとも、自分が殺さねばならない存在を深く知って苦しむためではないはずだ。
「……アスカ君は、今までつらくなかったのかな」
「何がだ」
「生物を殺すこと」
響の問い。アスカは数秒口をつぐんだ。響に向けていた視線は前方へと戻され、少しの間ふたりは無言で歩を進める。
「……慣れた」
「そうなの?」
「お前と出会う前――まだ真っ当な執行者だったころは、それこそ毎日何件も任務をこなしていた。生物を殺すたびに立ち止まっていては身が持たない」
「確かに、そうだよね」
響は苦笑しながら頷くしかなかった。
それは実感による肯定だったが、自分の命を奪いにやってきた〝あのとき〟のアスカも同時に思い出していたからだ。
すなわち、まだ寿命が残っていた響を殺しにきながら殺せなかったアスカ――だからこそ思う。
本当は今も慣れていないのだと。殺される側の感情を知り、目を背けず、苦しみながら、それでも執行してきたのだと。きっと数日前の任務のときも。
「ジョン・スミスのときは、悪かった」
「……え?」
考えを読み取られたかのごとく告げられて、響は思わず目を瞬かせる。
反射的にアスカの方へ視線を向けるが、彼は前を見つめたままだ。
「嫌なものを見せた。いくら執行行為は俺がするといっても、見ているだけでキツいのは予測できたことだ。執行中はお前に別の場所へ移動してもらうなり、すべきだったと思う」
「う、ううん。アスカ君が謝ることじゃないよ。そもそも執行者になりたいって志願したのは僕だし……こっちこそごめん。
頭では分かってるつもりだったけど全然覚悟が決まってなくて、何日も落ち込んじゃって」
「……いや」
「僕……アスカ君の紋翼を持ってることにやっぱり悪いなって思っててさ。
前にアスカ君はそんなこと思う必要ないって言ってくれたけど、こればっかりは勝手に湧き上がってくるものでね」
「……」
「だから執行者になることで紋翼を役立てられるならなりたいって思ったし、それでアスカ君も執行者に戻れるなら一石二鳥だな、僕も生物の皆と繋がっていられるんだから一石三鳥だな! ってちょっと浮かれてすらいたんだよね。
……だからかな、ヴァイスさんに言われた言葉をちゃんと理解してなかった。僕には外側の理由ばっかりで、大事な中身がなかったよ」
『――喜びはない。称賛もない。ヤミ属執行者は生物の〝まだ生きたい〟という本能をただひたすら挫き続けなければならない』
それは裁定神殿、エンラが響に『ヤミ属執行者にならないか』と提案をもちかけたあと。ヴァイスが響へ放った言葉だ。
『悲痛な慟哭を無視し、赫怒の声を跳ね除け、怨嗟を真っ向から受けながらとどめを刺す。
君はそれを常に目の当たりにすることになるが、耐えられる自信はあるかな』
そして響は実際に耐えられなかった。
任務自体は達成することができても、アスカの足を引っ張った。今だって引っ張っている。
「分かってるんだ、必要なことだって。寿命の契約を無視してる生物を生かし続ける方が悪いことなんだって。
ヤミ属執行者の仕事を侮辱する気も、もちろんなかったんだ。あれは確かにジョンさんの魂魄のためだった。絶対にそうなんだ。頭では分かってるんだ」
「……」
「なのに心ではそんなふうに思えなくてさ。今にも死にそうなジョンさんがかわいそうで、少しでも楽にできたらって思ったときにはもう近づいてた。
嘘までついた。二度と娘さんやお孫さんに会えない、一ヶ月後奥さんとの結婚記念だって祝えない。
なのに信じさせて、死ぬのをただ見守って、執行者の仕事に泥を塗って……挙句の果てに落ち込んで、立ち直れなくて……ははは。本当に情けないよ」
気がつけば胸のうちがポロポロとこぼれ出していた。いつの間にか足も止まっていた。周囲に他のヤミがいなかったことだけは幸いだ。
アスカもまた立ち止まった響と同じように隣で歩みを止めていた。
そうしてまた数秒、ふたりの間に沈黙が風と共に流れ――やがてアスカが目を伏せた響の傍らで口を開く。
「……俺たちヤミ属執行者の行為は、執行対象にとって紛れもなく無慈悲な殺戮だ。実際は守るためにしていることでも、生物から見た俺たちは死神でしかない」
「……」
「生物にとって生きることは本能だ。命を脅かされることには無条件で苦痛を伴う。執行対象も、執行を見ていたお前だって。
だから落ち込むのは当然だ。自分を責める必要はひとつもない。……執行者を無理に続ける必要だってないんだ」
「……え?」
再びアスカを見上げる響。アスカもまた響を見下ろす。