第27話 反響は消えない
文字数 2,707文字
老人は響の言葉と行動に驚きながらも、しかしゆっくりとシワに彩られた目元を緩ませていく。
「……あ、ああ、そうなんだ、あと少しで、結婚、記念日で、……だからその日だけは、無理を言って、外出許可、を……いつも妻には、苦労をかけて、いるから、うんとワガママを……聞いて、やりたくて、……」
ひゅう、ひゅう。
「明日もね、娘と孫たちが、来てくれるんだ……遠方から、私に会いに……上が女の子、十三……十二だったかな、下が男の子で……ええと、……はは、は、最近物忘れが、ひどくてね……ごほっ」
ぼたぼた。ぼたぼた。
「……どっちも、かわいいん、だ……とても娘に、いや……メアリーに、にて……ああ、めもとだけは……わたしに、にて……」
「ジョンさんに似てるんですか。ならすごくきれいな緑色の目をしているんでしょうね」
「はは、は……そう……なんだ……とても……とても、じまん、の………………」
そこから老人の言葉は二度と復活しなかった。
病室の床の上、ベッドのヘリに肩を寄りかからせ、唇の端に小さな笑みを灯し。明日へ進むために緑色を閉じて、老人は死んだ。
しかしその事実を認識しても響は動けない。老人の傍らでやせ細った手を握ったまま、自分が灯してしまった笑みを見つめている。
「執行対象の死を確認――階層を戻してくれ。響」
「……うん」
それでもアスカに声をかけられれば立ち上がる。紋翼を展開し、生物界の階層へと老人や自分たちを戻す。
老人の身体は階層を戻す前と同じ地点、つまりベッド脇にあったが、確かに撃たれたはずの左胸にはその形跡がなかった。流血もない。しかしまぶたは固く閉じられ、身体はもはやピクリとも動かない。
アスカはそんな老人のもとへ近づき、彼の左胸の前に手を差し出した。するとそこから魂魄が出現し、アスカの手の平へと向かっていく。
アスカは汚れ歪みながらも鈍く明滅をするそれに一度頷くと、己の左胸へと格納した。
そうしておもむろに全身を実体化させる。温度を失っていく老体を軽々持ち上げれば丁寧にベッドへ横たえ、老人がいくら押しても鳴らなかったナースコールを押した。
静かな病室にナースコールの無機質な音が響き、やがて看護師をジョン・スミスの遺体のもとへ運んでくる。
「どうしました、スミスさん? ……スミスさーん?」
――霊体に戻ったアスカと響はその様子を窓の外から見ていた。
月明かりに照らされた死に顔を、明日を信じて口の端に笑みを浮かべたまま死んだジョン・スミスを。
「任務は完了した。戻るぞ」
「……うん。分かった……」
響は心ここにあらずな声で返事をして、展開していた紋翼に意識を集中させる。階層を移動し、生物界を離れ、ヤミ属界に帰還していった。
初めての任務はこうして終わりを迎えた。
何の問題もなかった。ヤミ属執行者に返り咲いたアスカは粛々と生物の死を守り、響もまたその一端を担うことができた。
アスカの翼の代わりにだってなれた。また生まれ育った生物界に下りられた。他の脅威に出会うこともなかった。すべて願いどおりに遂げることができた。
だから任務は成功だ。大成功だ。
『……せめてあと少し、生きたい、生きたい……』
あの老人の悲痛な声が頭のなかに反響し続ける以外は、だったが。
「――あークソ、行っちまったじゃんか」
一方、響とアスカが生物界から離脱した直後。少し遠くで悪態をつく者がひとり。
「せっかく見つけたあいつら。思いっきり妨害してやろうと思ってたのにさぁ」
病院に程近い場所に建つ高層ビルだ。その屋上にて、ひとりのヒカリが病院へ入っていく響とアスカを見下ろしていたのが少し前である。
発した言葉のとおり彼らの初任務に姿を現してやろうと目論んでいたのだ。何も邪魔が入らなければそれは確実に実行されるはずだった。
そう、何も邪魔が入らなければ。
「なのにまさかアンタが来るとは思わないじゃないっすか。ねえ、バディの仇討ちにやってきてブザマに負けたカルカト先輩?」
言いながらヒカリは足蹴にしていたヤミ属執行者・カルカトの顔にもう一度蹴りを食らわせた。
「がァッ……!」
撒き散った赤が濡れ床をさらに染める。戦闘は既に終わり、勝負はついていた。
「ていうかさぁ。オレの邪魔をするならするで、もう少し楽しませろよ。
アンタの権能がオレの権能と相性が悪いっつってもさ、紋翼すらねぇヒカリ属に負けるなんざフヌケとしか言いようがねぇ。
そんなんだからニネ先輩をオレに殺されちまったんじゃないですか~?」
「っ外道、が……!」
「ハッ、何を今さら。オレはガキのころ早々にヒカリ属界を追放された〝堕天の子〟だぜ?」
カルカトは己を真上から見下ろすヒカリを睨み上げる。
睨み上げられたヒカリは、月光を背後に受けながら秀麗な面に碧三日月をふたつ作った。
ヒカリの名はシエル。
金色のウルフヘアを風になびかせ、碧眼に慈愛と殺意を光らせる彼はゆっくりと座り込み、まるで糸に縫いつけられたかのごとく起き上がれないでいるカルカトを睥睨している。
「いいねェ、その憎悪にあふれ返った目。おかげで〝絞首〟が始まっちまったよ」
言いながら舐るような手つきで己の首に手を這わせる。その白首には三本の罪の印。
しかもただの黒線だったそれが今は赤黒く発光していた。
「憎悪ってのは最高の動力源だ。諸刃の剣だが確実に抱く者を強くする。
オレ、そういうのバネにできるヤツ大好きだよ。歯ごたえがなくちゃ面白くねぇって意味でな。
でも残念、アンタとの戦いはつまらなかった。分かるか? 憎悪がまだまだ足んねぇってことだ」
白い首が発光する三本線に締めつけられる。罪を自覚させるようにギリギリと。
だが、それでもシエルは酷薄に笑うばかりだ。
「カルカト。アンタはニネを心から愛してたな。だからオレを追ってここまで来た。負けた今もその目から殺意を失わない。違うか?」
「そうだっ! 俺は、俺はニネをッ……!!」
「ならばもっとオレを憎め。憎んで憎んで憎み尽くせ――強くなってみろよ。オレを軽々ブチ殺せるくらいにさ」
シエルは言って腰を上げ、カルカトから身を離す。双眸に宿す殺意とは裏腹にカルカトは目を見開いた。何故殺さぬと。
「なん――」
「今のアンタには殺す価値さえねぇ。それだけだ」
シエルは赤に沈むカルカトを氷のように冷たい音色で刺し貫き、踵を返した。
そうしてニューヨークの潤んだ街並みを見渡しながら空へダイブする。
落下していく彼の背には無残に引きちぎられた紋翼の残骸。そしてそれを補うように周囲から集めた水の奔流。
――夜の片隅で起きた出来事を眺めていたのは、物陰にひそむ白蛇のみ。
「……あ、ああ、そうなんだ、あと少しで、結婚、記念日で、……だからその日だけは、無理を言って、外出許可、を……いつも妻には、苦労をかけて、いるから、うんとワガママを……聞いて、やりたくて、……」
ひゅう、ひゅう。
「明日もね、娘と孫たちが、来てくれるんだ……遠方から、私に会いに……上が女の子、十三……十二だったかな、下が男の子で……ええと、……はは、は、最近物忘れが、ひどくてね……ごほっ」
ぼたぼた。ぼたぼた。
「……どっちも、かわいいん、だ……とても娘に、いや……メアリーに、にて……ああ、めもとだけは……わたしに、にて……」
「ジョンさんに似てるんですか。ならすごくきれいな緑色の目をしているんでしょうね」
「はは、は……そう……なんだ……とても……とても、じまん、の………………」
そこから老人の言葉は二度と復活しなかった。
病室の床の上、ベッドのヘリに肩を寄りかからせ、唇の端に小さな笑みを灯し。明日へ進むために緑色を閉じて、老人は死んだ。
しかしその事実を認識しても響は動けない。老人の傍らでやせ細った手を握ったまま、自分が灯してしまった笑みを見つめている。
「執行対象の死を確認――階層を戻してくれ。響」
「……うん」
それでもアスカに声をかけられれば立ち上がる。紋翼を展開し、生物界の階層へと老人や自分たちを戻す。
老人の身体は階層を戻す前と同じ地点、つまりベッド脇にあったが、確かに撃たれたはずの左胸にはその形跡がなかった。流血もない。しかしまぶたは固く閉じられ、身体はもはやピクリとも動かない。
アスカはそんな老人のもとへ近づき、彼の左胸の前に手を差し出した。するとそこから魂魄が出現し、アスカの手の平へと向かっていく。
アスカは汚れ歪みながらも鈍く明滅をするそれに一度頷くと、己の左胸へと格納した。
そうしておもむろに全身を実体化させる。温度を失っていく老体を軽々持ち上げれば丁寧にベッドへ横たえ、老人がいくら押しても鳴らなかったナースコールを押した。
静かな病室にナースコールの無機質な音が響き、やがて看護師をジョン・スミスの遺体のもとへ運んでくる。
「どうしました、スミスさん? ……スミスさーん?」
――霊体に戻ったアスカと響はその様子を窓の外から見ていた。
月明かりに照らされた死に顔を、明日を信じて口の端に笑みを浮かべたまま死んだジョン・スミスを。
「任務は完了した。戻るぞ」
「……うん。分かった……」
響は心ここにあらずな声で返事をして、展開していた紋翼に意識を集中させる。階層を移動し、生物界を離れ、ヤミ属界に帰還していった。
初めての任務はこうして終わりを迎えた。
何の問題もなかった。ヤミ属執行者に返り咲いたアスカは粛々と生物の死を守り、響もまたその一端を担うことができた。
アスカの翼の代わりにだってなれた。また生まれ育った生物界に下りられた。他の脅威に出会うこともなかった。すべて願いどおりに遂げることができた。
だから任務は成功だ。大成功だ。
『……せめてあと少し、生きたい、生きたい……』
あの老人の悲痛な声が頭のなかに反響し続ける以外は、だったが。
「――あークソ、行っちまったじゃんか」
一方、響とアスカが生物界から離脱した直後。少し遠くで悪態をつく者がひとり。
「せっかく見つけたあいつら。思いっきり妨害してやろうと思ってたのにさぁ」
病院に程近い場所に建つ高層ビルだ。その屋上にて、ひとりのヒカリが病院へ入っていく響とアスカを見下ろしていたのが少し前である。
発した言葉のとおり彼らの初任務に姿を現してやろうと目論んでいたのだ。何も邪魔が入らなければそれは確実に実行されるはずだった。
そう、何も邪魔が入らなければ。
「なのにまさかアンタが来るとは思わないじゃないっすか。ねえ、バディの仇討ちにやってきてブザマに負けたカルカト先輩?」
言いながらヒカリは足蹴にしていたヤミ属執行者・カルカトの顔にもう一度蹴りを食らわせた。
「がァッ……!」
撒き散った赤が濡れ床をさらに染める。戦闘は既に終わり、勝負はついていた。
「ていうかさぁ。オレの邪魔をするならするで、もう少し楽しませろよ。
アンタの権能がオレの権能と相性が悪いっつってもさ、紋翼すらねぇヒカリ属に負けるなんざフヌケとしか言いようがねぇ。
そんなんだからニネ先輩をオレに殺されちまったんじゃないですか~?」
「っ外道、が……!」
「ハッ、何を今さら。オレはガキのころ早々にヒカリ属界を追放された〝堕天の子〟だぜ?」
カルカトは己を真上から見下ろすヒカリを睨み上げる。
睨み上げられたヒカリは、月光を背後に受けながら秀麗な面に碧三日月をふたつ作った。
ヒカリの名はシエル。
金色のウルフヘアを風になびかせ、碧眼に慈愛と殺意を光らせる彼はゆっくりと座り込み、まるで糸に縫いつけられたかのごとく起き上がれないでいるカルカトを睥睨している。
「いいねェ、その憎悪にあふれ返った目。おかげで〝絞首〟が始まっちまったよ」
言いながら舐るような手つきで己の首に手を這わせる。その白首には三本の罪の印。
しかもただの黒線だったそれが今は赤黒く発光していた。
「憎悪ってのは最高の動力源だ。諸刃の剣だが確実に抱く者を強くする。
オレ、そういうのバネにできるヤツ大好きだよ。歯ごたえがなくちゃ面白くねぇって意味でな。
でも残念、アンタとの戦いはつまらなかった。分かるか? 憎悪がまだまだ足んねぇってことだ」
白い首が発光する三本線に締めつけられる。罪を自覚させるようにギリギリと。
だが、それでもシエルは酷薄に笑うばかりだ。
「カルカト。アンタはニネを心から愛してたな。だからオレを追ってここまで来た。負けた今もその目から殺意を失わない。違うか?」
「そうだっ! 俺は、俺はニネをッ……!!」
「ならばもっとオレを憎め。憎んで憎んで憎み尽くせ――強くなってみろよ。オレを軽々ブチ殺せるくらいにさ」
シエルは言って腰を上げ、カルカトから身を離す。双眸に宿す殺意とは裏腹にカルカトは目を見開いた。何故殺さぬと。
「なん――」
「今のアンタには殺す価値さえねぇ。それだけだ」
シエルは赤に沈むカルカトを氷のように冷たい音色で刺し貫き、踵を返した。
そうしてニューヨークの潤んだ街並みを見渡しながら空へダイブする。
落下していく彼の背には無残に引きちぎられた紋翼の残骸。そしてそれを補うように周囲から集めた水の奔流。
――夜の片隅で起きた出来事を眺めていたのは、物陰にひそむ白蛇のみ。