第26話 叫ぶ本能
文字数 2,471文字
〝魂魄執行〟――今回の任務について、響は詳しく説明される前から大体の想像がついていた。
自分がただの人間でなくなってしまったあの日のアスカの行動、そしてヤミ属界に来た当初ヴァイスに聞かされた話。
それらを合わせて思い出せば、当時のアスカに課せられた任務が同じ〝魂魄執行〟であったことに気づかないわけがなかったからだ。
それでも響は問題がない、遂げられると考えていた。
何故なら今、これは〝生物の死を守る〟仕事だと理解している。
加えて響自身は執行に係る雑務しか行わない。だから乗り切れるだろうと思っていた、高をくくっていた。
しかし目の当たりにして思い知った。頭で理解することと心で理解することはイコールで結ばれない。
ヤミ属の仕事が生物の死を守ることであり、今行われようとしていることもその一環だと分かっていても、心は理屈どおりに納得してくれない。
「響。もういいだろう」
響の制止で律儀に数秒間待ったアスカ――彼は静かに問うてくる。
その整った面には行動を阻まれた焦燥もなければ苛立ちもなかった。
「この時間を長引かせるのは誰のためにもならない」
「そ、そうだけど……」
だが、どうしても頷くことができない。だって頷いてしまったら数歩先の老人は撃たれて死ぬ。死んでしまう。
「響。手をどけてくれ」
「……だって、そんな……むり、だよ」
心の声が勝手に漏れた。唇がわなないたヨレヨレの声だった。
一体僕は何をしているんだ? 頭のなかで自問が沸き起こる。必死に理性が諭してくる。
自ら志願してヤミ属執行者になったはずの自分。
多忙なヴァイスやディルに特訓まで付き合ってもらって〝神核繋ぎ〟も自分のせいで上手くいかず――そのうえアスカの執行行為まで妨害するなんて、自分は一体何のために存在しているんだ。
分かっている。分かっているのだ、必要なことだと。なのに銃口を阻む手は動かない。本能が悲鳴を上げている。
だって理屈じゃない。人が今まさに撃たれようとしている。目の前で命を終わらせられようとしている。それは生物として何よりも受け入れがたい事実なのだ。
「響。あの人間は生きすぎている。このまま生き続けても悪いことにしかならない。
契約寿命を超えた魂魄はヒカリ属が捕捉できなくなって加護の対象外となる。加護を受けられなくなった魂魄は著しく変質してしまう。あの人間も例外じゃない」
「……」
「放っておけばおくほどあの人間の魂魄の状態はさらに悪くなっていく。最悪、罪科獣に変じる。魂魄自体が完全に壊れる。そうなれば転生だってできなくなってしまう」
淡々と響に事実を伝えるアスカ。
首を動かし目を凝らして老人を見る。すると、確かに彼の魂魄がかなり汚れ歪んでいるのが不明瞭ながら分かった。
アスカは嘘を言っていない。だとすればやはり、間違っているのは自分だ。
「誰か、誰かァ助けてくれ! クソッ悪魔めェ! 私が何をしたっていうんだ、地獄に連れて行くべき奴なんか他にごまんと居るだろう!」
「……」
「出ていけ、消えろ、消えてくれ! ああ主よ、神よどうかお守りください、お救いください、私はまだ、まだ……!!」
「……」
「響」
半狂乱になって叫ぶ老人。それを見つめたまま立ち尽くすしかない響を、アスカは再び呼んだ。
執行期限が目前まで差し迫ったこの状況。
任務の邪魔をする響にかけるには、あまりに静謐な音色。
「響。俺たちはヤミ属執行者だ」
「……」
「どれほど心が拒否をしても、生かしてやりたいと思っても、俺たちはこうするしかない」
「……」
「苦しいだろうが、守ろう」
「…………」
だから響は重くて重くて仕方がない己の手を動かし、アスカが老人に向けて構える銃を解放した。
ズガァン!!
途端。
逡巡なく引き金を引かれ飛び出した銃弾は、けたたましい音を立てながら老人の左胸を貫いた。
衝撃により後ろへのけぞる老体。
少しの間のあとにじわじわと入院着を汚し始める赤。
眼球がこぼれ落ちそうなほど限界まで見開かれた双眸。
響は反射的に振り返った姿勢のまま硬直することしかできない。血の気だけがみるみるうちに引いていく。
「……これは魂魄に死を自覚させる行為だ。こうすることで心は肉体から離れようと思い立てる」
説明もまるで遠く。
「痛みはない。痛みを感じるとすれば、それは心が作り出した幻だ」
「ひいぃ、痛い、痛いィ、誰か、だれ、か……」
――低く遠い声に重なるようにして、老人から苦鳴が上がった。
彼は心臓を貫かれてなお生きていた。正確に表現するならば、その魂魄はまだ肉体から離れようとしなかった。
左胸を枯れ枝のような腕で押さえ、はくはくと中身のない呼吸を繰り返し。
合間にどす黒い血を吐きながら、彼はそれでも死を拒否した。
「た、のむ、助け、くれぇ、何でも、する……せめてあと少し、生きたい、生きたい……」
「……」
「死にたく、な、……ごほっ、あと……あと一ヶ月で、結婚、記念日なの、に……メアリー、と、五十かぃ、とても大事な……」
「……」
「明日は、娘と、孫たち、見舞、い、……ずっと、たの、しみに……痛い、いた、いぃ……」
「……」
「メアリー、メア、リー……死にたくない、……会いたい……君とまだ、一緒に、」
「――大丈夫です。ジョンさん」
響は言って、老人に近寄った。
否、それはほぼ無意識で行われた行為だった。
気がついたときには老人のすぐ傍らへ跪いていたし、月明かりに照らされた真っ青な顔に笑いかけていた。
「驚かせてごめんなさい。突然撃たれるなんて怖いですよね。でも安心してください、これはただの夢ですから。今夜は少し夢見が悪かったんです」
「……、」
「不運でしたね。けど、これからはきっと良い夢が見られますよ。
だって大事な奥さんとの結婚記念日まであと一ヶ月ですし、明日だって娘さんとお孫さんが来てくれるんでしょう?」
言いながら、左胸をきつく押さえていた手をぎゅっと握った。
冷たい汗と熱い血潮に濡れて震える骨と皮ばかりの手。
――長い年月を懸命に生きてきたであろう、一人の人間の手。
自分がただの人間でなくなってしまったあの日のアスカの行動、そしてヤミ属界に来た当初ヴァイスに聞かされた話。
それらを合わせて思い出せば、当時のアスカに課せられた任務が同じ〝魂魄執行〟であったことに気づかないわけがなかったからだ。
それでも響は問題がない、遂げられると考えていた。
何故なら今、これは〝生物の死を守る〟仕事だと理解している。
加えて響自身は執行に係る雑務しか行わない。だから乗り切れるだろうと思っていた、高をくくっていた。
しかし目の当たりにして思い知った。頭で理解することと心で理解することはイコールで結ばれない。
ヤミ属の仕事が生物の死を守ることであり、今行われようとしていることもその一環だと分かっていても、心は理屈どおりに納得してくれない。
「響。もういいだろう」
響の制止で律儀に数秒間待ったアスカ――彼は静かに問うてくる。
その整った面には行動を阻まれた焦燥もなければ苛立ちもなかった。
「この時間を長引かせるのは誰のためにもならない」
「そ、そうだけど……」
だが、どうしても頷くことができない。だって頷いてしまったら数歩先の老人は撃たれて死ぬ。死んでしまう。
「響。手をどけてくれ」
「……だって、そんな……むり、だよ」
心の声が勝手に漏れた。唇がわなないたヨレヨレの声だった。
一体僕は何をしているんだ? 頭のなかで自問が沸き起こる。必死に理性が諭してくる。
自ら志願してヤミ属執行者になったはずの自分。
多忙なヴァイスやディルに特訓まで付き合ってもらって〝神核繋ぎ〟も自分のせいで上手くいかず――そのうえアスカの執行行為まで妨害するなんて、自分は一体何のために存在しているんだ。
分かっている。分かっているのだ、必要なことだと。なのに銃口を阻む手は動かない。本能が悲鳴を上げている。
だって理屈じゃない。人が今まさに撃たれようとしている。目の前で命を終わらせられようとしている。それは生物として何よりも受け入れがたい事実なのだ。
「響。あの人間は生きすぎている。このまま生き続けても悪いことにしかならない。
契約寿命を超えた魂魄はヒカリ属が捕捉できなくなって加護の対象外となる。加護を受けられなくなった魂魄は著しく変質してしまう。あの人間も例外じゃない」
「……」
「放っておけばおくほどあの人間の魂魄の状態はさらに悪くなっていく。最悪、罪科獣に変じる。魂魄自体が完全に壊れる。そうなれば転生だってできなくなってしまう」
淡々と響に事実を伝えるアスカ。
首を動かし目を凝らして老人を見る。すると、確かに彼の魂魄がかなり汚れ歪んでいるのが不明瞭ながら分かった。
アスカは嘘を言っていない。だとすればやはり、間違っているのは自分だ。
「誰か、誰かァ助けてくれ! クソッ悪魔めェ! 私が何をしたっていうんだ、地獄に連れて行くべき奴なんか他にごまんと居るだろう!」
「……」
「出ていけ、消えろ、消えてくれ! ああ主よ、神よどうかお守りください、お救いください、私はまだ、まだ……!!」
「……」
「響」
半狂乱になって叫ぶ老人。それを見つめたまま立ち尽くすしかない響を、アスカは再び呼んだ。
執行期限が目前まで差し迫ったこの状況。
任務の邪魔をする響にかけるには、あまりに静謐な音色。
「響。俺たちはヤミ属執行者だ」
「……」
「どれほど心が拒否をしても、生かしてやりたいと思っても、俺たちはこうするしかない」
「……」
「苦しいだろうが、守ろう」
「…………」
だから響は重くて重くて仕方がない己の手を動かし、アスカが老人に向けて構える銃を解放した。
ズガァン!!
途端。
逡巡なく引き金を引かれ飛び出した銃弾は、けたたましい音を立てながら老人の左胸を貫いた。
衝撃により後ろへのけぞる老体。
少しの間のあとにじわじわと入院着を汚し始める赤。
眼球がこぼれ落ちそうなほど限界まで見開かれた双眸。
響は反射的に振り返った姿勢のまま硬直することしかできない。血の気だけがみるみるうちに引いていく。
「……これは魂魄に死を自覚させる行為だ。こうすることで心は肉体から離れようと思い立てる」
説明もまるで遠く。
「痛みはない。痛みを感じるとすれば、それは心が作り出した幻だ」
「ひいぃ、痛い、痛いィ、誰か、だれ、か……」
――低く遠い声に重なるようにして、老人から苦鳴が上がった。
彼は心臓を貫かれてなお生きていた。正確に表現するならば、その魂魄はまだ肉体から離れようとしなかった。
左胸を枯れ枝のような腕で押さえ、はくはくと中身のない呼吸を繰り返し。
合間にどす黒い血を吐きながら、彼はそれでも死を拒否した。
「た、のむ、助け、くれぇ、何でも、する……せめてあと少し、生きたい、生きたい……」
「……」
「死にたく、な、……ごほっ、あと……あと一ヶ月で、結婚、記念日なの、に……メアリー、と、五十かぃ、とても大事な……」
「……」
「明日は、娘と、孫たち、見舞、い、……ずっと、たの、しみに……痛い、いた、いぃ……」
「……」
「メアリー、メア、リー……死にたくない、……会いたい……君とまだ、一緒に、」
「――大丈夫です。ジョンさん」
響は言って、老人に近寄った。
否、それはほぼ無意識で行われた行為だった。
気がついたときには老人のすぐ傍らへ跪いていたし、月明かりに照らされた真っ青な顔に笑いかけていた。
「驚かせてごめんなさい。突然撃たれるなんて怖いですよね。でも安心してください、これはただの夢ですから。今夜は少し夢見が悪かったんです」
「……、」
「不運でしたね。けど、これからはきっと良い夢が見られますよ。
だって大事な奥さんとの結婚記念日まであと一ヶ月ですし、明日だって娘さんとお孫さんが来てくれるんでしょう?」
言いながら、左胸をきつく押さえていた手をぎゅっと握った。
冷たい汗と熱い血潮に濡れて震える骨と皮ばかりの手。
――長い年月を懸命に生きてきたであろう、一人の人間の手。