第4話 誓い

文字数 2,768文字

 目を凝らす。視線の先の誰かはフラフラとおぼつかない足取りで少しずつこちらへと向かってきていた。

 顔色はひどく悪く、前に傾いた裸の上半身には幾重にも巻かれた包帯。異様なほどの汗で全身がしとどに濡れているのが月の光に反射している。

 響は目を見開いた。満身創痍な姿にはもちろん、見覚えのある黒髪黒目の面にだ。

「アスカ。意識が戻ったのは喜ばしいがどうしてここに。ディルは何をやっている」

「……すみませ、ん……抜け出して、きました……」

 満身創痍の彼――アスカは絞り出すような声でようよう言葉を口にする。

「織部、響……彼が草原地帯へ出たのに、気づいて……どうしても、胸が騒いで」

「どういうことだ。響くんの居所が分かったのか?」

「恐らく、……彼のなかにある俺の紋翼を、感知したのだと……ぐッぅ、」

 アスカの言葉は途中で呻きに飲まれた。身体を折り、さらなる痛みに耐えるアスカの傍らまで歩み寄ったヴァイスは「そうか」と言いながら彼を支えようとする。

「すまないな。響くんは私と散歩をしていただけだ」

「……それなら、良かったです……霊獣に、遭遇していたらと、ッ」

「戻ろう。傷が開いている。これでは治るものも――」

 ヴァイスの提案もむなしく、アスカはヴァイスの傍らを行き過ぎた。そうして焦れったいほどの速度で、棒立ちをするしかない響の方へ近づいてくる。

 しかし。すぐ目の前までたどり着いても、彼は響を見下ろすばかりだった。眉を寄せ、唇を噛みしめ。アスカはただただ無言で響を見つめ続けた。響もまたそんな黒瞳を見上げている。

 ――数日前。平凡な日々を送っている響の命を奪いにやってきたヤミ属執行者・アスカ。

 彼はヤミ神とやらの勅令を受けていながらも響を手にかけられず、任務を失敗した。そのうえ直接的な原因ではなくとも響を転生の輪から外れさせた。

「……」

 そのアスカの揺れる瞳を見上げ続けつつ、響は考える。

 彼が今何を思ってこうしているのか、見つめ続けているのか――ヴァイスの言から拾い集めた彼の性質を思い出しながら。

 恐らく。あくまで恐らくだ。しかしそれでもきっと、アスカは謝罪を口にしたいのではないかと響は答えを導きだした。その証拠に彼の瞳には後悔と自噴が渦巻いていた。

 だが、ただの謝罪では到底足りないこともきっと知っていた。だからこそアスカは黙ったまま、自分を見下ろすしかないのではないかと。

 しかし互いに見つめあう時間もつと終わりを迎える。身体が限界を迎えたのだろう、不意にアスカの身体が響の立つ前方へと倒れてきたのだ。

 ヴァイスが素早く動こうとする。しかしその前に響が動いた。己より上背も筋肉もある身体は重く一緒に倒れそうではあったが、しっかりとアスカの身体を掴み、力を込めて支えた。するとアスカは驚いたように響を見上げてくる。

 響は至近距離でその瞳を再び見つめながら、今の今まで充満していた感情を押し込め、意を決して口を開いた。

「あの、僕は大丈夫です。僕がこんなことを言うのは変なのかも知れないけど、どうか自分を責めないでください」

「……、」

「いや、大丈夫っていうのは違うな……。色々思うこと、叫び出したいことはあって。ずっとグチャグチャなんですけど、自分を責めてるあなたを見るのも苦しいっていうか……うん」

「……」

「それに。死ななくて良かったとは確かに思っているんです。僕は今も人間なので……いっそ消えたいって思うことはあっても、こうして命があることにはホッとしてるんです」

「……」

「もちろん帰れないのはつらいけど、家族や皆に忘れられちゃったのも苦しいけど。でも僕がこうして生きている限り、僕のなかの記憶だけは決してなくならないから。

 ……それだけは確かだから……だからあのとき死ななくて良かったって、僕は……はは、何言ってるんだろ」

 自分の言葉に響は思わず苦笑してしまった。アスカは硬直してそんな響を見つめ続けている。

 もしかしたらアスカの方が「何を言っているんだ」と思っているかも知れない。そう思えば響は心のなかでまた苦笑する。

 無論、響は聖人ではない。どこにでもいた平凡な高校生だ。だから言葉のとおり未だ消化できない感情はたくさんあった。

 しかし物事は単純ではない。こんなにもボロボロになりながら自分を現在進行系で責める、そう一目で分かるアスカに追い打ちをかけることなど響にはできなかった。

 死ななくて良かったと安堵しているのも紛れもない事実だったのだ。

 なぜなら温かいスープ。香ばしいパン。抱きしめられる温かさ。話を聞いてくれる存在。そして何より家族と重ねてきた記憶――それらは自分がこうして存在しているからこそ、感じられるものなのだから。

「俺は……あんたを守る。そのためにこの命を使う」

 ふと、アスカが言う。その音色は決して弱々しいものではなく、響は改めてアスカに焦点を合わせた。

 アスカは自身の身体に無理やり力を込め、身を起こし。そうしてまた響を見下ろした。しかしもはや瞳は揺れていない。

「何の贖罪にもならないが、頼む……そうさせてくれ」

 まっすぐ曇りのない眼光で。

 彼はそのとき、確かに決意したのだ。



* * *



 その後、息を荒らげたディルがやってきて治療室から無断で抜け出したアスカを叱責、有無を言わさず連行していった。

 響もまたヴァイスとともに帰路につき、部屋の前でヴァイスと別れたあとはそのままベッドに潜り込む。カーテンは少し考えて開けたままにしておいた。

 ふうと吐息をひとつ。なんだか色々なことがあって疲れた。

 心のなかは依然として片づいていない。アスカに見栄を張ってしまったことに少しだけ後悔もしていた。本当は今でも現実を受け入れられない、受け入れたくないのだから。

「……」

 だが、助けてくれる神様はいない。少なくとも響が思い描く都合のいい神様はどこにもいない。

 血みどろで今にも死にそうだった乃絵莉を神様が助けてくれた夢もただの夢だった。予知夢でも何でもなかった。どんなに願おうと何ひとつ救いはやってきてくれないのだ。

 その夢でさえ、今ではほとんど思い出せなくなっている。

 平々凡々と過ごした幸せな日々は今や儚く遠い。あまりにも残酷な事実――

「でも……そうだ」

 あれだけは確かに救いだったと響は思い出す。

 〝混血の禁忌〟、その苦しみのなか自分を救ってくれた何か。

 あれだけは奇跡だった。

 例え夢や幻だったとしても、何かの偶然だったとしても、あれだけは残酷ではなく優しかった。まぎれもない救いだった。

 ――ならばほんの少しでも、前を向かねば。

「ありがとう……」

 響は口のなかで言う。誰にともなく。

 まぶたが急激に重くなってきた。それに抗うことなく目を閉じる。せめて夢のなかでは家族に会えますようにと、そんなことを願っていた。
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