第19話 空に吠える~特訓3日目~
文字数 2,802文字
「響殿のもとへ早く駆けつけねばならないと急く気持ちは分かる。
だが、だからこそ目の前のことに集中しなければならない。まずは自分を降参させることに尽力せよ!」
「ッ、はい!」
アスカはロイドの言葉に顔を引き締めさせた。それを少し先で眺め続けるヴァイスは小さく頷いている。
「そう――ロイド団長との戦闘に時間をかけていては響くんの体力が保たない。だが、二の次にできるほど彼は簡単に御せる相手ではない。
つまり絶えず移動する響くんのことも把握しながらロイド団長から降参の一声を得なくてはならないんだが、気がそぞろではいつまで経っても状況は変わってくれない。
だから結局は目の前のことに集中して冷静にひとつずつ対処していかなければならない。難しいね」
他人事のようなヴァイスの物言いに、傍らで戦闘を見守っていたレジーナは文句を言いたげな表情を浮かべる。
しかし言葉にすることはなく、代わりに響へと目を移した。
「響さん……限界が近づいてきているようですが」
「そうだね。アスカの手助けがあってようやく切り抜けられていたんだ、ひとりでは相当に厳しいだろう」
「私、やはり彼のそばで待機しています」
「いやいや、それでは特訓の意味がなくなってしまう。私がこの特訓において響くんに最も培ってほしいものは、筋肉や体力ではなく精神的な強さだからね」
「……、」
「だがほら、見てごらんレジーナ。響くんもやられっぱなしじゃないみたいだよ」
ヴァイスに言われてレジーナは目を凝らし、そうしてすぐ眉を持ち上げることになる。
* * *
時間は少々さかのぼり、アスカがロイドと戦闘を開始したころ。
「うああぁああああ!!」
響は走っていた。絶叫を響かせながらとにかく走っていた。止まったらニャンニャンブーの重そうな身体に踏み潰されて死ぬからだ。
少し前にアスカだけが呼び戻されてしまい、今はひとりで追いかけられている。少しも油断できない状況だ。
「ひぃっひぃっ、ぎゃあー!!」
響が背後を確認しようとするのと一匹のニャンニャンブーが急突進してきたのはほぼ同時だった。
そのため驚くのが精いっぱいで避ける余裕はなかったのだが、幸いにしてニャンニャンブーは狙いを外し響のすぐ傍らを過ぎていく。
そうして急突進の代償か、すぐに限界を迎えて脱落してくれた。
「今のはラッキー、だけど! この調子だと、次は、絶っ対避けられないな……!!」
無我夢中で逃げるしかない響の背後を確認する役をアスカは担ってくれていた。
アスカが不在となってしまった今は響が背後の様子を確認するしかないのだが、全速力で走りながら頻繁に振り返ることはなかなか難しい。
突撃タイミングに一貫性などあるはずもなく、時には二匹三匹が同時に襲ってくる。
後ろ向きで走って常に彼らの動きを把握するくらいでないと対応は難しそうだが、そんな走法ではすぐに追いつかれてしまうだろう。
――魔多多比を渡されて今から〝追いかけられっこ〟が始まることを告げられたとき、ヴァイスはいくつか禁止事項を挙げた。
アスカが響を背負ったりすること、勝手に立ち止まること。霊獣を害することはもとより、魔多多比を投げ出すことも禁止。響以外が魔多多比を身につけるのも禁止。
つまりヴァイスが良しとするまで霊獣から逃げ続けることを強いられてしまったわけだが、紋翼を使うこと自体は禁止されなかった。
響はこれまでの特訓でヴァイスやディルから紋翼の使い方を教えられているため、階層の変更や紋翼を使った防御方法、空中の飛び方など基本的なことはできるようになっていた。
しかし実用にはまだまだ厳しいと響は感じている。
確かに精神的に落ち着けている平常時ならば、ほぼ間違いなく行えるようにはなった。
しかし別のことと平行して紋翼を扱うのが至難の業であることは前日のディルとの特訓で証明されているのだ。
響にとって己の紋翼は爆弾のようなものだった。そんなものを疲弊と混乱に見舞われた状態で展開すれば、アスカや罪のない霊獣たちを傷つける恐れがある。自分もどこに飛んでいくか分からなかったため響は紋翼を使ってこなかった。
もちろんひとりとなった今だって使うべきではない。だから響は今後もずっと愚直に走り続けなければならないのだ。
何故アスカだけが呼び戻されてしまったのか。もしやアスカの存在がズルとみなされてしまったのか――そんなことを思いつつアスカが呼び戻された方角へ目を向けると、彼がヴァイス以外の誰かと向かい合っているのが見えた。
どうやらアスカはアスカで別の特訓を命じられたらしい。ならばアスカが戻ってきてくれる可能性はほぼないだろう。
押し寄せてくる死の恐怖に心がすくむが、ニャンニャンブーたちがそれを察してくれるはずもない。
「っッッ、はッ……はぁ、はぁ……っ」
正直なところ響は限界も限界だった。
全身から汗が吹き出し尽くし、呼吸は悲痛なほどの音を立て、喉はガラガラだ。
足は棒というか感覚がない。何故動かせているのか自分でも分からないくらいだ。
目だって光を失くし始めている。いくら己にヤミ属の血が入っていて、一時間以上全速力で走り続けられても心は人間のままでしかない。
いつ終わるかも分からぬ逃亡は精神的な摩耗が激しく、ひとりという現状には泣きそうにすらなる。
いっそギブアップを唱えてしまおうか。
だってこんなに頑張ったのだ、怖いヴァイスだって許してくれるんじゃないだろうか。諦めてしまえばこの苦境から助けてくれるんじゃないだろうか――そんな考えが一瞬のうちに頭をよぎる。
『っじゃあ、頑張って鍛えます……!』
「!……」
そのときだ。不意に三日前の記憶が蘇ってきたのは。
裁定神殿。エンラやアスカ、リンリンに見守られながら、自分たちが執行者になることを断固として反対するヴァイスに真っ向から響は言ったのだ。
『これから僕とアスカ君は一生懸命鍛えることにします。ヴァイスさんが言っていた問題点を全部つぶします』
「……ッあぁ、」
『だから強くなれたそのときは、僕とアスカ君が執行者になることを許してほしいです。お願いします!』
「じゃあ、諦めちゃ、ダメだ……自分で、言ったんだから……!!」
響は空に吠える。必死で自分に言い聞かせる。自分が選んだ道だからと。
ならばどんなに苦しくても自分の足で、自分の頭で乗り越えるしかないんだと――そう心に決めた瞬間、響の覚悟は決まった。
力の抜けていた拳をぎゅっと握りしめて己を奮い立たせた。同時に光を失いかけていた双眸に生気が戻ってくる。
クタクタで何も残っていないはずの身体にも力が湧いてきた。混乱のままに絶叫を生み出していた心は急速に凪いでいく。
「っ、来たッ!!」
そのとき、ニャンニャンブーの一体がまた突進してくるのが見えた。今度は振り返りのタイミングが合ってくれて無事に確認することができた。
だが、だからこそ目の前のことに集中しなければならない。まずは自分を降参させることに尽力せよ!」
「ッ、はい!」
アスカはロイドの言葉に顔を引き締めさせた。それを少し先で眺め続けるヴァイスは小さく頷いている。
「そう――ロイド団長との戦闘に時間をかけていては響くんの体力が保たない。だが、二の次にできるほど彼は簡単に御せる相手ではない。
つまり絶えず移動する響くんのことも把握しながらロイド団長から降参の一声を得なくてはならないんだが、気がそぞろではいつまで経っても状況は変わってくれない。
だから結局は目の前のことに集中して冷静にひとつずつ対処していかなければならない。難しいね」
他人事のようなヴァイスの物言いに、傍らで戦闘を見守っていたレジーナは文句を言いたげな表情を浮かべる。
しかし言葉にすることはなく、代わりに響へと目を移した。
「響さん……限界が近づいてきているようですが」
「そうだね。アスカの手助けがあってようやく切り抜けられていたんだ、ひとりでは相当に厳しいだろう」
「私、やはり彼のそばで待機しています」
「いやいや、それでは特訓の意味がなくなってしまう。私がこの特訓において響くんに最も培ってほしいものは、筋肉や体力ではなく精神的な強さだからね」
「……、」
「だがほら、見てごらんレジーナ。響くんもやられっぱなしじゃないみたいだよ」
ヴァイスに言われてレジーナは目を凝らし、そうしてすぐ眉を持ち上げることになる。
* * *
時間は少々さかのぼり、アスカがロイドと戦闘を開始したころ。
「うああぁああああ!!」
響は走っていた。絶叫を響かせながらとにかく走っていた。止まったらニャンニャンブーの重そうな身体に踏み潰されて死ぬからだ。
少し前にアスカだけが呼び戻されてしまい、今はひとりで追いかけられている。少しも油断できない状況だ。
「ひぃっひぃっ、ぎゃあー!!」
響が背後を確認しようとするのと一匹のニャンニャンブーが急突進してきたのはほぼ同時だった。
そのため驚くのが精いっぱいで避ける余裕はなかったのだが、幸いにしてニャンニャンブーは狙いを外し響のすぐ傍らを過ぎていく。
そうして急突進の代償か、すぐに限界を迎えて脱落してくれた。
「今のはラッキー、だけど! この調子だと、次は、絶っ対避けられないな……!!」
無我夢中で逃げるしかない響の背後を確認する役をアスカは担ってくれていた。
アスカが不在となってしまった今は響が背後の様子を確認するしかないのだが、全速力で走りながら頻繁に振り返ることはなかなか難しい。
突撃タイミングに一貫性などあるはずもなく、時には二匹三匹が同時に襲ってくる。
後ろ向きで走って常に彼らの動きを把握するくらいでないと対応は難しそうだが、そんな走法ではすぐに追いつかれてしまうだろう。
――魔多多比を渡されて今から〝追いかけられっこ〟が始まることを告げられたとき、ヴァイスはいくつか禁止事項を挙げた。
アスカが響を背負ったりすること、勝手に立ち止まること。霊獣を害することはもとより、魔多多比を投げ出すことも禁止。響以外が魔多多比を身につけるのも禁止。
つまりヴァイスが良しとするまで霊獣から逃げ続けることを強いられてしまったわけだが、紋翼を使うこと自体は禁止されなかった。
響はこれまでの特訓でヴァイスやディルから紋翼の使い方を教えられているため、階層の変更や紋翼を使った防御方法、空中の飛び方など基本的なことはできるようになっていた。
しかし実用にはまだまだ厳しいと響は感じている。
確かに精神的に落ち着けている平常時ならば、ほぼ間違いなく行えるようにはなった。
しかし別のことと平行して紋翼を扱うのが至難の業であることは前日のディルとの特訓で証明されているのだ。
響にとって己の紋翼は爆弾のようなものだった。そんなものを疲弊と混乱に見舞われた状態で展開すれば、アスカや罪のない霊獣たちを傷つける恐れがある。自分もどこに飛んでいくか分からなかったため響は紋翼を使ってこなかった。
もちろんひとりとなった今だって使うべきではない。だから響は今後もずっと愚直に走り続けなければならないのだ。
何故アスカだけが呼び戻されてしまったのか。もしやアスカの存在がズルとみなされてしまったのか――そんなことを思いつつアスカが呼び戻された方角へ目を向けると、彼がヴァイス以外の誰かと向かい合っているのが見えた。
どうやらアスカはアスカで別の特訓を命じられたらしい。ならばアスカが戻ってきてくれる可能性はほぼないだろう。
押し寄せてくる死の恐怖に心がすくむが、ニャンニャンブーたちがそれを察してくれるはずもない。
「っッッ、はッ……はぁ、はぁ……っ」
正直なところ響は限界も限界だった。
全身から汗が吹き出し尽くし、呼吸は悲痛なほどの音を立て、喉はガラガラだ。
足は棒というか感覚がない。何故動かせているのか自分でも分からないくらいだ。
目だって光を失くし始めている。いくら己にヤミ属の血が入っていて、一時間以上全速力で走り続けられても心は人間のままでしかない。
いつ終わるかも分からぬ逃亡は精神的な摩耗が激しく、ひとりという現状には泣きそうにすらなる。
いっそギブアップを唱えてしまおうか。
だってこんなに頑張ったのだ、怖いヴァイスだって許してくれるんじゃないだろうか。諦めてしまえばこの苦境から助けてくれるんじゃないだろうか――そんな考えが一瞬のうちに頭をよぎる。
『っじゃあ、頑張って鍛えます……!』
「!……」
そのときだ。不意に三日前の記憶が蘇ってきたのは。
裁定神殿。エンラやアスカ、リンリンに見守られながら、自分たちが執行者になることを断固として反対するヴァイスに真っ向から響は言ったのだ。
『これから僕とアスカ君は一生懸命鍛えることにします。ヴァイスさんが言っていた問題点を全部つぶします』
「……ッあぁ、」
『だから強くなれたそのときは、僕とアスカ君が執行者になることを許してほしいです。お願いします!』
「じゃあ、諦めちゃ、ダメだ……自分で、言ったんだから……!!」
響は空に吠える。必死で自分に言い聞かせる。自分が選んだ道だからと。
ならばどんなに苦しくても自分の足で、自分の頭で乗り越えるしかないんだと――そう心に決めた瞬間、響の覚悟は決まった。
力の抜けていた拳をぎゅっと握りしめて己を奮い立たせた。同時に光を失いかけていた双眸に生気が戻ってくる。
クタクタで何も残っていないはずの身体にも力が湧いてきた。混乱のままに絶叫を生み出していた心は急速に凪いでいく。
「っ、来たッ!!」
そのとき、ニャンニャンブーの一体がまた突進してくるのが見えた。今度は振り返りのタイミングが合ってくれて無事に確認することができた。