第37話 まだ、名ばかり
文字数 2,871文字
それからまた数日後。ディルは防衛地帯の一角に新設された小規模建造物のなかにいた。
「あー、そんじゃ今度は後ろ向いて背中出してみてくれ」
問診というのもはばかられる手探りな問答をいくつか終えると、ディルは難しい顔をしながら促す。
するとその対面にちょこんと座るシエルは、素直に上衣を脱いで小さな背中を見せてきた。
しかしそこには滑らかな陶器のごとき肌があるばかりで、ディルは表情に苦みを加えるしかない。
「なんッにも異常なさそうだな……健康そのものに見える」
「だよね。アスカも同じこと言ってた」
首だけで振り返るシエルもディルのつぶやきに苦笑だ。その傍らでアスカは心配そうにシエルを見守っている。
「もう一度確認するぜ。背中が激しく痛んだんだよな?」
「うん。夜にアスカと一緒に眠っててさ。ほら、ヴァイスとディルが外でケンカしてて、ようやく静かになったなーってホッとしてたとき。沸騰したみたいに突然熱く痛くなって」
「……あんときは本当に悪かったな。もっと具体的に、背中のどの部分とかあるか?」
「うーん分かんない。今は全然痛くないし、痛かったのあのときの一回だけだし……ホントは背中かどうかも微妙っていうか。
オレが痛がる様子を見てたアスカが背中って言ってたからそうなんだろうなって思ってるだけでさ」
シエルも居心地が悪かったのだろう、直前の問診では口にしなかった事実を白状してきた。
だからさらに難解になる。激しく痛んだ部位を断定できないことなど、あるだろうか? 今は痛くないから記憶もアヤフヤになってしまったのか?
経験が圧倒的に不足していて何も分からない。だがそれは仕方のないことだ。何故ならこれは医師になったディルにとって初めての診察だったのだ。
そう、これこそが数日前ディルがエンラに願望を話した結果だ。あのとき、ディルは自分が医師の道を志すことを願い出たのだ。
エンラはさして驚くこともなくその場で了承した。翌日には防衛地帯の一角にこの衛生部隊棟を建て、呼びつけたディルへ新たな称号を渡しにかかった。
すなわち防衛群・衛生部隊隊長。つまり〝ヤミ属を守る〟ことを責務とする防衛群に衛生部隊が新しく設けられ、その長に任命されたということだ。言わずもがな出世どころの話ではない。無茶ぶりの域だ。
だから立派な称号とは裏腹に中身はオソマツである。隊員はまだディルだけ、新しい知識を授けられたわけでもない。しかもエンラは唖然とするディルを置き去りにして『じゃ、後は頼んだ』と裁定神殿へ戻ってしまう始末だ。
ゆえに側近長のリンリンから諸々の追加説明を受けた当時のディルは『いきなり話が大きくなりすぎじゃないですかね……』と困り果てた声を出すしかなかった。
リンリンはそれに『我が主はディル殿の新たな道を心から応援しておいでです』と微笑んだあとで同じように踵を返した。本当に外側を整えられただけと知ったディルは、そこでまた呆気に取られた。
しかし『道の始点には案内したのだからここからは自分で切り開いていけってことか』と理解が追いつけば悪い気もしなかった。信頼とは実にいいものだ。
「背中じゃなくて中に異常があんのか? いやでも切り開くわけにいかねぇし……神陰力をこう、何かすごい技術でアレしたら中の異常を察知できたりすんのかね……だがそんなの、この場でどうこうできるモンじゃないしな」
とはいえ、ひとり手探りで進むしかないのは変わらない。
今も目を細めたり見開いたりと無意味な動作をして、どうにかシエルの異常を察知しようとしている。
無論、知識もなければ経験もないので何も出てこず、ディルは唸るしかない。
「あ、あのさ? もう診なくて大丈夫だよ、あれから一度も痛くないし。ごめんね、忙しいのに」
ディルが困り果てていることを察したらしいシエルは、急いで上衣を下ろすとイスを回転させてディルに向き直ってきた。金髪碧眼、眉目秀麗の幼な顔は申し訳なさそうに笑んでいる。
「でもシエル、いたくないけどおかしいって、いってたよ?」
それに抗議するのはシエルの傍らに立っているアスカ。シエルよりさらに幼い彼は黒髪と黒瞳を不安げに揺らめかせている。
この初診察は、ディルが医師になったことを知ったアスカが頼みこんで実現したものだ。彼は兄に起こった異常が心配でたまらないのだ。
「痛くないけどおかしい?」
ディルが反芻して問うと、アスカはコクコクと何度もうなずき、シエルは少し逡巡したあとで口を開いた。
「そのままの意味だよ。なんかね、痛みが収まってからずっとおかしいんだ。
痛くないし苦しくもない。別に何も困ってないんだけど……でもなんか、明らかに変でさ」
「どこが、どう変なんだ」
「分かんない。分かんないけど、変なんだ」
ぼそりと言ってシエルは長いまつげを伏せる。その顔には見慣れぬ影。
「ディルにぃに、シエルのこと、なおせない?」
それに意識を持っていかれたところで、アスカが身を乗り出してディルの双眸をのぞきこんできた。その大きく丸い瞳はうっすらと涙に濡れている。
助けてやりたい思いが募る。しかしまだまだ中身のないディルは苦渋の返事をするしかない。
「悪い。場所も原因も特定できない今の俺じゃ、すぐにどうにかしてやることはできない。とりあえず効きそうな毒を生成したり色んな文献を読み漁ったりしてみるが……」
「あ、でもホントに大丈夫だよオレ! ただそんな気がするってだけだからさ。だから忘れてくれていいんだ」
「いや、そういうわけには――」
「そんなことよりヴァイスの容態はどう? どう考えたってヴァイスの方が大変なんだから、オレはそっちに時間使ってあげてほしいな」
「……ヴァイスにぃにも、かえってくる?」
シエルの言葉にアスカもまたディルを見た。
ヴァイスの育て子たち。優しい性格をした仲良し兄弟だ。
幼いながら気をつかう心優しいシエル。兄のシエルと育て親のヴァイスが同時に異常を示し、心を痛めるアスカ。
そんなふたりに申し訳ない心地を重ねつつも、ディルは大きく頷いてみせた。
「大丈夫だ。お前らの育て親は俺が絶対助けてみせる」
「ほんとう?」
「本当だよ。それだけは何があっても絶対だ」
「……ん。オレ、ディルのこと信じてるよ」
「ッ、ぼくも!」
シエルはディルへ勇気づけるように言い、アスカは気丈な様子で頷いた。
そう、何があっても助ける。彼らの育て親を、自分の相棒を――それこそが新たな道を進み始めた一番の理由なのだから。
未熟な診察はこれにて終了だ。
シエルはアスカを元気づけるためか、やたらテンションの高い声で「せっかくだしアスカ、遊んで帰ろうぜ。公園までかけっこな!」と疾走を開始、アスカは「まってよ~」と言いながらそれを追いかけていった。
そんな彼らを衛生部隊棟の出入り口前で見送り終えたディルは、再び棟内へ踵を返す。
コツコツと足音を立てながら向かうのは先ほどの診察室ではない。とりあえず集めた資料を乱雑に積んである部屋でもない。
――向かう先は、ヴァイスの伏せる病室だ。
「あー、そんじゃ今度は後ろ向いて背中出してみてくれ」
問診というのもはばかられる手探りな問答をいくつか終えると、ディルは難しい顔をしながら促す。
するとその対面にちょこんと座るシエルは、素直に上衣を脱いで小さな背中を見せてきた。
しかしそこには滑らかな陶器のごとき肌があるばかりで、ディルは表情に苦みを加えるしかない。
「なんッにも異常なさそうだな……健康そのものに見える」
「だよね。アスカも同じこと言ってた」
首だけで振り返るシエルもディルのつぶやきに苦笑だ。その傍らでアスカは心配そうにシエルを見守っている。
「もう一度確認するぜ。背中が激しく痛んだんだよな?」
「うん。夜にアスカと一緒に眠っててさ。ほら、ヴァイスとディルが外でケンカしてて、ようやく静かになったなーってホッとしてたとき。沸騰したみたいに突然熱く痛くなって」
「……あんときは本当に悪かったな。もっと具体的に、背中のどの部分とかあるか?」
「うーん分かんない。今は全然痛くないし、痛かったのあのときの一回だけだし……ホントは背中かどうかも微妙っていうか。
オレが痛がる様子を見てたアスカが背中って言ってたからそうなんだろうなって思ってるだけでさ」
シエルも居心地が悪かったのだろう、直前の問診では口にしなかった事実を白状してきた。
だからさらに難解になる。激しく痛んだ部位を断定できないことなど、あるだろうか? 今は痛くないから記憶もアヤフヤになってしまったのか?
経験が圧倒的に不足していて何も分からない。だがそれは仕方のないことだ。何故ならこれは医師になったディルにとって初めての診察だったのだ。
そう、これこそが数日前ディルがエンラに願望を話した結果だ。あのとき、ディルは自分が医師の道を志すことを願い出たのだ。
エンラはさして驚くこともなくその場で了承した。翌日には防衛地帯の一角にこの衛生部隊棟を建て、呼びつけたディルへ新たな称号を渡しにかかった。
すなわち防衛群・衛生部隊隊長。つまり〝ヤミ属を守る〟ことを責務とする防衛群に衛生部隊が新しく設けられ、その長に任命されたということだ。言わずもがな出世どころの話ではない。無茶ぶりの域だ。
だから立派な称号とは裏腹に中身はオソマツである。隊員はまだディルだけ、新しい知識を授けられたわけでもない。しかもエンラは唖然とするディルを置き去りにして『じゃ、後は頼んだ』と裁定神殿へ戻ってしまう始末だ。
ゆえに側近長のリンリンから諸々の追加説明を受けた当時のディルは『いきなり話が大きくなりすぎじゃないですかね……』と困り果てた声を出すしかなかった。
リンリンはそれに『我が主はディル殿の新たな道を心から応援しておいでです』と微笑んだあとで同じように踵を返した。本当に外側を整えられただけと知ったディルは、そこでまた呆気に取られた。
しかし『道の始点には案内したのだからここからは自分で切り開いていけってことか』と理解が追いつけば悪い気もしなかった。信頼とは実にいいものだ。
「背中じゃなくて中に異常があんのか? いやでも切り開くわけにいかねぇし……神陰力をこう、何かすごい技術でアレしたら中の異常を察知できたりすんのかね……だがそんなの、この場でどうこうできるモンじゃないしな」
とはいえ、ひとり手探りで進むしかないのは変わらない。
今も目を細めたり見開いたりと無意味な動作をして、どうにかシエルの異常を察知しようとしている。
無論、知識もなければ経験もないので何も出てこず、ディルは唸るしかない。
「あ、あのさ? もう診なくて大丈夫だよ、あれから一度も痛くないし。ごめんね、忙しいのに」
ディルが困り果てていることを察したらしいシエルは、急いで上衣を下ろすとイスを回転させてディルに向き直ってきた。金髪碧眼、眉目秀麗の幼な顔は申し訳なさそうに笑んでいる。
「でもシエル、いたくないけどおかしいって、いってたよ?」
それに抗議するのはシエルの傍らに立っているアスカ。シエルよりさらに幼い彼は黒髪と黒瞳を不安げに揺らめかせている。
この初診察は、ディルが医師になったことを知ったアスカが頼みこんで実現したものだ。彼は兄に起こった異常が心配でたまらないのだ。
「痛くないけどおかしい?」
ディルが反芻して問うと、アスカはコクコクと何度もうなずき、シエルは少し逡巡したあとで口を開いた。
「そのままの意味だよ。なんかね、痛みが収まってからずっとおかしいんだ。
痛くないし苦しくもない。別に何も困ってないんだけど……でもなんか、明らかに変でさ」
「どこが、どう変なんだ」
「分かんない。分かんないけど、変なんだ」
ぼそりと言ってシエルは長いまつげを伏せる。その顔には見慣れぬ影。
「ディルにぃに、シエルのこと、なおせない?」
それに意識を持っていかれたところで、アスカが身を乗り出してディルの双眸をのぞきこんできた。その大きく丸い瞳はうっすらと涙に濡れている。
助けてやりたい思いが募る。しかしまだまだ中身のないディルは苦渋の返事をするしかない。
「悪い。場所も原因も特定できない今の俺じゃ、すぐにどうにかしてやることはできない。とりあえず効きそうな毒を生成したり色んな文献を読み漁ったりしてみるが……」
「あ、でもホントに大丈夫だよオレ! ただそんな気がするってだけだからさ。だから忘れてくれていいんだ」
「いや、そういうわけには――」
「そんなことよりヴァイスの容態はどう? どう考えたってヴァイスの方が大変なんだから、オレはそっちに時間使ってあげてほしいな」
「……ヴァイスにぃにも、かえってくる?」
シエルの言葉にアスカもまたディルを見た。
ヴァイスの育て子たち。優しい性格をした仲良し兄弟だ。
幼いながら気をつかう心優しいシエル。兄のシエルと育て親のヴァイスが同時に異常を示し、心を痛めるアスカ。
そんなふたりに申し訳ない心地を重ねつつも、ディルは大きく頷いてみせた。
「大丈夫だ。お前らの育て親は俺が絶対助けてみせる」
「ほんとう?」
「本当だよ。それだけは何があっても絶対だ」
「……ん。オレ、ディルのこと信じてるよ」
「ッ、ぼくも!」
シエルはディルへ勇気づけるように言い、アスカは気丈な様子で頷いた。
そう、何があっても助ける。彼らの育て親を、自分の相棒を――それこそが新たな道を進み始めた一番の理由なのだから。
未熟な診察はこれにて終了だ。
シエルはアスカを元気づけるためか、やたらテンションの高い声で「せっかくだしアスカ、遊んで帰ろうぜ。公園までかけっこな!」と疾走を開始、アスカは「まってよ~」と言いながらそれを追いかけていった。
そんな彼らを衛生部隊棟の出入り口前で見送り終えたディルは、再び棟内へ踵を返す。
コツコツと足音を立てながら向かうのは先ほどの診察室ではない。とりあえず集めた資料を乱雑に積んである部屋でもない。
――向かう先は、ヴァイスの伏せる病室だ。