第14話 奇跡の力
文字数 3,048文字
信じがたい光景だった。
神の手足たるヤミ属やヒカリ属でもない、罪科獣でもないただの人間が傷を癒やしてみせるなど。
だが実際に兵士の腹の傷は治癒していく。血が止まり、削がれた肉が再生し、最後にはツルリとした皮が覆っていく。
「もう大丈夫。痛かったね」
治癒するごとに痛みもなくなったのだろう、脂汗の浮かんだ顔を引き歪ませていた兵士はすぐに起き上がった。
そうして膝をつき「ああ……神の子エレンフォール」と床に額を擦りつけて何度も感謝の言葉を繰り返す。
イスマはそれを途中で止めさせ、この場を去るように命令した。
途端に兵士は硬直し、慌てたように立ち上がったかと思えば踵を返し階段を下っていく。後に残ったのはエレンフォール、イスマ、霊体のヴァイスとディルだ。
「やはり何度見ても奇跡のお力だ。神の子エレンフォール」
イスマが感心したように言うと、エレンフォールはどこか複雑な顔で立ち上がり口を開いた。
「しかしイスマ、今日もブドウ酒の匂いを漂わせていますね」
「聖なるあなた様へお会いするため体内から清めて参りました」
イスマはエレンフォールに大きく深く頭を下げ、手を合わせた。対するエレンフォールは笑みに苦いものを含ませる。
「前にも言いましたが俺に祈る必要も清める必要もありませんよ。それより、△△族との話しあいの場はそろそろ設けられそうですか?」
エレンフォールの言葉にイスマは大仰なほど嘆いてみせた。
「おお、誠に申し訳ありません神の子エレンフォール。
このイスマ、本日も△△族のもとへ交渉しに向かったのですが、奴らは一切聞く耳を持たず、そればかりか攻撃を仕掛けて参りました。
幸いにもあのナージーめ以外の怪我人は出ませんでしたが……話しあいの場を設けるにはもう少し時間がかかりそうです」
「ではやはり俺が行きます。皆が傷ついているときにこのような場所で祈りを捧げるしかないのは気が引けます。
それに、早くこの戦争を終結させなければ被害がもっと拡大してしまいますから」
「いいえ、いいえ。それはなりません神の子エレンフォール」
イスマはギョロリと目を剥いてエレンフォールの意志を拒否する。
「あなた様は神の偉大なる力を賜りし身。万が一あなた様が敵の矢に射られ命を落とされたなら、誰が我が部族の治癒をなさるのです」
「……」
「ですから、このイスマめが敵方と話しあいの場を整えられるまではどうかこの場でお待ちください。そこからがあなた様の出番なのです。
その偉大なる御力を敵方に見せつけたなら、奴らはあなた様を通じて神への底知れぬ畏怖を心に刻み、我らは平和を取り戻せるでしょう。
すべては戦争終結のため、神の子たるあなたのため。どうかご理解を……」
「……分かりました。あなたを信じます」
イスマが滔々と述べて再び深々頭を下げれば、エレンフォールは一瞬だけ唇を噛みしめた。それでも懸命に笑顔を作り、首肯する。
すると今度はイスマの視線が部屋の片隅に動いた。
そこには皿に乗った果実がある。あんず、ブドウ、イチジク――そのどれもが手をつけられていない。
「今日もお食事を摂られておりませんので?」
「ええ、俺は食べなくても平気ですから。なのでこの果実は飢えている他の方に」
「……ああ、神の子エレンフォール」
イスマは感銘を受けたかのように天井を仰ぎ――芝居がかかっているとディルは感じた――エレンフォールが渡した果実の皿をうやうやしく受け取った。
そうして踵を返せばベールを抜け、ディルの傍らを通り過ぎては階段も下りていき、最後にはドアの重々しく閉まる音と施錠音が響く。
「……今日もまた、俺の命を奪わずに去っていかれたのですね。ヴァイス様」
その声によって、ディルは階段からエレンフォールへと視線を移した。囚われの少年の意識は部屋から消えたヴァイスに戻っていた。
「どうかまた来てください。いつでも待っていますから。……」
言って。エレンフォールはまた固められた窓に向かって祈りを捧げ始める。
そう、ヴァイスはいつの間にかこの部屋を立ち去っていたのだ。ディルがどれだけ意識を集中させても気配が見つからないため、遠く離れたことが察せられた。
何故ヴァイスは執行もせず行ってしまったのか。彼は確かに〝魂魄執行〟を遂げようと降り立ったはずなのに、ただ自分の名を教えるだけで去ってしまった。
稀有なことだが、彼はごく近くにいたディルの存在に気づいた様子はなかった。それゆえディルの存在を感知したからではなさそうだ。そもそも相棒が近くにいたからといって執行を中断する理由などあるはずもない。
途中で部屋に入ってきたイスマやナージーが原因でもないだろう。例え会話の途中だろうとエレンフォールを執行用階層へ移動させれば済んだ話なのだ――本当に執行する気があったのなら。
「……」
ディルは階下へと降り、イスマの後を追った。
今、飢えた者へ渡すべき果物は彼の口内で噛み砕かれている。その足も兵士が眠る広場や飢えた人々がいる街へ向かうことはない。
肥えた身体が向かう先は、妻であろう女が待つ豪奢な寝室だった。
* * *
エレンフォール。
貧困のために身売りされた幼少時から戦争が始まるまで、奴隷として生きた少年。
戦争が始まって以降は戦争を終わらせるために立ち上がった少年。
そして数ヶ月前。信仰する神に絶え間ない祈りを捧げるなか、突如として奇跡の力に目覚めたとされる少年――すなわち神の子エレンフォール。
奇跡の力。それはどんな傷も瞬く間に治癒する能力である。言わずもがな人間には 不相応な力であり、誰の目にも神の御業に見えた。
ゆえに人々はエレンフォールに希望を見出し、すがった。愛する者を癒やしてくれと。諸悪の根源たる戦争を終結させてくれと。
またある者はエレンフォールに欲望を覚えた。この力があれば我が身、我が家族は安泰だと。戦争を限りなく有利に進められると。
だからその者は言葉巧みに近づいた。
『我が部族は戦争の終結を望んでおります』
『ですからどうかこのイスマのもとへ』
と。
エレンフォールは真っ白なまでに善良だった。
家族に売られ、奴隷となる未来を知ったときも『これであなたたちの暮らしが少しでも楽になるのなら良かった。今まで育ててくれてありがとう』と笑顔を浮かべたくらいには。
治癒の力を授かった代償に左目の眼球を失うことも厭わなかった。救いを求められれば、否、求められなくとも自ら近づき救いを与えた。善性に満ち満ちた存在だった。
そしてその結果が現状であった。
エレンフォールは戦争を繰り広げる一方の部族長・イスマによってだまされ、彼のナワバリに閉じこめられ、戦争終結のための話しあいの場が設けられる日を今か今かと待っている。
いくら奇跡の力があったとて、広がった戦を一人で止めることは至難の業だ。
ゆえにエレンフォールが助力を申し出た者を受け入れたことは間違いではなかった。だが、仲間は選ぶべきであった。人の良い笑みを浮かべ耳ざわりのよい言葉を口にするイスマの裏を疑うべきであった。
しかし、神の子エレンフォールはあまりに善良であるがゆえに、人を疑うことをしなかった。
「……今回ヴァイスに与えられた指名勅令は、このエレンフォールの〝魂魄執行〟だ」
ディルはひとりごちる。
ヴァイスの執行地に初めて降り立ってから二日後の夜。
またこの地に降り立ったディルは、任務の合間に集めた情報を反芻しながらイスマの邸宅へ再び向かっていた。
神の手足たるヤミ属やヒカリ属でもない、罪科獣でもないただの人間が傷を癒やしてみせるなど。
だが実際に兵士の腹の傷は治癒していく。血が止まり、削がれた肉が再生し、最後にはツルリとした皮が覆っていく。
「もう大丈夫。痛かったね」
治癒するごとに痛みもなくなったのだろう、脂汗の浮かんだ顔を引き歪ませていた兵士はすぐに起き上がった。
そうして膝をつき「ああ……神の子エレンフォール」と床に額を擦りつけて何度も感謝の言葉を繰り返す。
イスマはそれを途中で止めさせ、この場を去るように命令した。
途端に兵士は硬直し、慌てたように立ち上がったかと思えば踵を返し階段を下っていく。後に残ったのはエレンフォール、イスマ、霊体のヴァイスとディルだ。
「やはり何度見ても奇跡のお力だ。神の子エレンフォール」
イスマが感心したように言うと、エレンフォールはどこか複雑な顔で立ち上がり口を開いた。
「しかしイスマ、今日もブドウ酒の匂いを漂わせていますね」
「聖なるあなた様へお会いするため体内から清めて参りました」
イスマはエレンフォールに大きく深く頭を下げ、手を合わせた。対するエレンフォールは笑みに苦いものを含ませる。
「前にも言いましたが俺に祈る必要も清める必要もありませんよ。それより、△△族との話しあいの場はそろそろ設けられそうですか?」
エレンフォールの言葉にイスマは大仰なほど嘆いてみせた。
「おお、誠に申し訳ありません神の子エレンフォール。
このイスマ、本日も△△族のもとへ交渉しに向かったのですが、奴らは一切聞く耳を持たず、そればかりか攻撃を仕掛けて参りました。
幸いにもあのナージーめ以外の怪我人は出ませんでしたが……話しあいの場を設けるにはもう少し時間がかかりそうです」
「ではやはり俺が行きます。皆が傷ついているときにこのような場所で祈りを捧げるしかないのは気が引けます。
それに、早くこの戦争を終結させなければ被害がもっと拡大してしまいますから」
「いいえ、いいえ。それはなりません神の子エレンフォール」
イスマはギョロリと目を剥いてエレンフォールの意志を拒否する。
「あなた様は神の偉大なる力を賜りし身。万が一あなた様が敵の矢に射られ命を落とされたなら、誰が我が部族の治癒をなさるのです」
「……」
「ですから、このイスマめが敵方と話しあいの場を整えられるまではどうかこの場でお待ちください。そこからがあなた様の出番なのです。
その偉大なる御力を敵方に見せつけたなら、奴らはあなた様を通じて神への底知れぬ畏怖を心に刻み、我らは平和を取り戻せるでしょう。
すべては戦争終結のため、神の子たるあなたのため。どうかご理解を……」
「……分かりました。あなたを信じます」
イスマが滔々と述べて再び深々頭を下げれば、エレンフォールは一瞬だけ唇を噛みしめた。それでも懸命に笑顔を作り、首肯する。
すると今度はイスマの視線が部屋の片隅に動いた。
そこには皿に乗った果実がある。あんず、ブドウ、イチジク――そのどれもが手をつけられていない。
「今日もお食事を摂られておりませんので?」
「ええ、俺は食べなくても平気ですから。なのでこの果実は飢えている他の方に」
「……ああ、神の子エレンフォール」
イスマは感銘を受けたかのように天井を仰ぎ――芝居がかかっているとディルは感じた――エレンフォールが渡した果実の皿をうやうやしく受け取った。
そうして踵を返せばベールを抜け、ディルの傍らを通り過ぎては階段も下りていき、最後にはドアの重々しく閉まる音と施錠音が響く。
「……今日もまた、俺の命を奪わずに去っていかれたのですね。ヴァイス様」
その声によって、ディルは階段からエレンフォールへと視線を移した。囚われの少年の意識は部屋から消えたヴァイスに戻っていた。
「どうかまた来てください。いつでも待っていますから。……」
言って。エレンフォールはまた固められた窓に向かって祈りを捧げ始める。
そう、ヴァイスはいつの間にかこの部屋を立ち去っていたのだ。ディルがどれだけ意識を集中させても気配が見つからないため、遠く離れたことが察せられた。
何故ヴァイスは執行もせず行ってしまったのか。彼は確かに〝魂魄執行〟を遂げようと降り立ったはずなのに、ただ自分の名を教えるだけで去ってしまった。
稀有なことだが、彼はごく近くにいたディルの存在に気づいた様子はなかった。それゆえディルの存在を感知したからではなさそうだ。そもそも相棒が近くにいたからといって執行を中断する理由などあるはずもない。
途中で部屋に入ってきたイスマやナージーが原因でもないだろう。例え会話の途中だろうとエレンフォールを執行用階層へ移動させれば済んだ話なのだ――本当に執行する気があったのなら。
「……」
ディルは階下へと降り、イスマの後を追った。
今、飢えた者へ渡すべき果物は彼の口内で噛み砕かれている。その足も兵士が眠る広場や飢えた人々がいる街へ向かうことはない。
肥えた身体が向かう先は、妻であろう女が待つ豪奢な寝室だった。
* * *
エレンフォール。
貧困のために身売りされた幼少時から戦争が始まるまで、奴隷として生きた少年。
戦争が始まって以降は戦争を終わらせるために立ち上がった少年。
そして数ヶ月前。信仰する神に絶え間ない祈りを捧げるなか、突如として奇跡の力に目覚めたとされる少年――すなわち神の子エレンフォール。
奇跡の力。それはどんな傷も瞬く間に治癒する能力である。言わずもがな人間には 不相応な力であり、誰の目にも神の御業に見えた。
ゆえに人々はエレンフォールに希望を見出し、すがった。愛する者を癒やしてくれと。諸悪の根源たる戦争を終結させてくれと。
またある者はエレンフォールに欲望を覚えた。この力があれば我が身、我が家族は安泰だと。戦争を限りなく有利に進められると。
だからその者は言葉巧みに近づいた。
『我が部族は戦争の終結を望んでおります』
『ですからどうかこのイスマのもとへ』
と。
エレンフォールは真っ白なまでに善良だった。
家族に売られ、奴隷となる未来を知ったときも『これであなたたちの暮らしが少しでも楽になるのなら良かった。今まで育ててくれてありがとう』と笑顔を浮かべたくらいには。
治癒の力を授かった代償に左目の眼球を失うことも厭わなかった。救いを求められれば、否、求められなくとも自ら近づき救いを与えた。善性に満ち満ちた存在だった。
そしてその結果が現状であった。
エレンフォールは戦争を繰り広げる一方の部族長・イスマによってだまされ、彼のナワバリに閉じこめられ、戦争終結のための話しあいの場が設けられる日を今か今かと待っている。
いくら奇跡の力があったとて、広がった戦を一人で止めることは至難の業だ。
ゆえにエレンフォールが助力を申し出た者を受け入れたことは間違いではなかった。だが、仲間は選ぶべきであった。人の良い笑みを浮かべ耳ざわりのよい言葉を口にするイスマの裏を疑うべきであった。
しかし、神の子エレンフォールはあまりに善良であるがゆえに、人を疑うことをしなかった。
「……今回ヴァイスに与えられた指名勅令は、このエレンフォールの〝魂魄執行〟だ」
ディルはひとりごちる。
ヴァイスの執行地に初めて降り立ってから二日後の夜。
またこの地に降り立ったディルは、任務の合間に集めた情報を反芻しながらイスマの邸宅へ再び向かっていた。