第28話 憂色
文字数 2,793文字
傷つけてしまったのだと、それだけは分かった。
『相棒〝だった〟俺は殺せるんだな』
だから反射的に何かを口にしようとした。
しかしすべてに背を向ける決断をした自分に何を言う権利もないと気づくと、声はそのヤミの名を口にするだけで立ち消えた。去っていく背中を追いかけることだってできやしない。
そしてその瞬間気づいたのだ。頭で想像する何倍も、何十倍も何百倍も喪失感が大きかったことに。
ヤミ属界にてディルの背中が見えなくなったあと。ヴァイスは紋翼を展開して生物界へ移動、上空から執行地を見下ろしていた。
時刻は深夜、昼行性生物が寝静まるころだ。執行期限で言えばあと数分といった頃合いである。
今夜は月も厚い雲に阻まれている。そのため一帯が真っ暗闇に染まっていた。
昼に活動することが主の人間では歩くことにも苦労するほどだが、ヤミ属たるヴァイスの視界は明瞭だ。彼はイスマの邸宅めがけてゆっくり、静かに下降していく。
ヴァイスの脳裏にはヤミとして過ごした日々が代わる代わるよぎっている。
今まではただの情報として処理してきたそれらが、思い返す今は様々な色を持っていたことに気づく。
特にディルとバディを組んで以降の記憶は鮮烈だ。どうして今まで何も感じてこなかったのだろうと不思議に思えるほどだ。
それは今の自分が真っ白でなくなったからか、はたまた近くにあったがゆえに見えなかったのか――ヴァイスには分からない。ならばこれ以上考えるべきでないと思っていても、しかし頭は思い出を再生し続ける。
ディル、アスカ、シエル、エンラやリンリン。育て親だったヤミ、他にもたくさんのヤミたち――自分で手放したモノ。
二度と手に戻らぬ、大事だったモノが次々と飛来しては過ぎ去っていく。
だが、だからといって選択を変えられるわけでもない。ヴァイスにとってエレンフォールも〝これまで〟と同じくらい大事な存在だった。
最初は本当に驚きの連続だった。
善性の強さ、己を死神と認識しながら懐いてくる豪胆さ。ヤミ属執行者たるヴァイスは生物や罪科獣に忌避されるのが当たり前だったのに、エレンフォールは裏のない笑顔を何度も向け、ヴァイスの来訪を喜んだ。
だから逃げた。しかしそのたびに思い直し、今度こそ執行せんとエレンフォールのもとへ向かった。だがやはりまた逃げてしまった。
自分でもワケが分からず、その理由を探すためにエレンフォールとの会話に応じた。するとどうだろう、胸に色がほとばしっていった。自覚していった。エレンフォールの笑顔を見るたび、憂慮に出会うたび、共に過ごすたび。
『君は俺の友だちだ』
友と呼ばれたとき、目の覚めるような思いがした。大事な宝物の半分を差し出されたとき、幸せに生きてほしいと願った。
ヴァイスは知っている。例えエレンフォールがエレンフォールとしての生を終えたとしても、彼の魂魄は生と死の循環を無限に繰り返していけること。
〝正しさ〟で言えばエンラやディルの方に明らかな分があること。
しかしヴァイスはこうも理解している。
失いたくないモノはこのエレンフォールであること。
あまりに独りよがりだ。まるでコドモのようだ。だが、抑えられない。どうしても失いたくない。いや、理不尽に奪われたくない。
「君を守る……何があろうと」
ヴァイスは自分に言い聞かせるように言葉を口にした。
同時にディルや育て子たちの顔が脳裏によみがえったが、無理やり目をそらした。もはや思い出す資格だってありはしないのだから。
「……行こう。私がこの道を選んだんだ」
ヴァイスはそれだけ言って、時の紋翼を羽ばたかせた。
イスマの邸宅の真上までたどり着いた。執行期限で言えばあと数秒だ。無論、任務を果たす気はない。
ヴァイスは霊体のまま天井をすり抜け、エレンフォールの部屋へと入っていく。
万が一にもエレンフォールに暗い気持ちを悟られてはいけない。だからヴァイスは気持ちを切り替えるため項垂れていた顔を懸命に持ち上げた。
「エレンフォ――」
刹那。気づく。ロウソクに照らされただけの屋内が様変わりしていること。
「ああやっと来た。安心した」
向けられた音色がエレンフォールのものでないこと、冷たい慈愛に満ちていること。
「でも遅かったね。待ちくたびれたから先にやっちゃったよ?」
――ヴァイスの数歩先に広がるモノが、白き三対の大翼が生えた背中であること。
合間を流れるは白にすら見える金の長髪、振り返れば紅玉の双眸。男性とも女性ともつかない、しかしこの世のものとは思えぬほどの美貌と全身から放たれる輝き。
頭上には正四角形の光輪が回り、決して広くない部屋はむせ返るほどの神気に満ちていた。明らかな高次存在。
「本当は君の前でやってあげたかったんだけどね。まぁ本番はこれからだからさ」
だが、ヴァイスを硬直させたのはそれらではない。振り返った者の顔が転々と赤に濡れていたことでもない。
生臭い鉄の匂い。床を広く汚す赤の液体。そこに力なく沈んだ誰かの手――
「っエレンフォール!!」
瞬間、叫んだ。同時に実体化し駆け寄ろうとする。しかしそれを間に立っている彼、あるいは彼女が向き直りながら制止した。
「ねぇ、僕を無視しないで?」
「ッ!!」
目に見えぬ拘束がヴァイスを雁字搦めにする。
動けない。権能〝茨〟で引きちぎろうとしても発現しない。権能〝クロノス〟も右に同じだ。神陰力を練ることはできても権能が行使できないのだ。
あまりに不覚だった。これほどの神気と存在感を放つ者を前にして我を忘れるなど愚行にも程がある。
しかし、彼が動いたことで足もとのエレンフォールが見えた。彼は血の海のなかで目を閉じたまま動かない。
「エレンフォールッ、エレンフォール!!」
「焦らないで大丈夫。まだ生きているよ」
無我夢中に叫びながら不可視の拘束を解こうとするヴァイスに、輝く彼は燦然とした慈愛の笑みを投げかけた。
あまりに純粋で美しい笑顔だ。
しかしその左腕だけは赤黒い血に濡れている。さらに彼は腕を持ち上げ、したたる赤を見せつけるように細指を舐めあげてみせる。
余裕と挑発、そして蔑みの行動。
「お前がッ、お前がエレンフォールをやったのか!!」
ヴァイスは拘束のなかで力任せにもがきながら声を発した。それに対し彼はゆっくりと頷く。
「そう、意気揚々とヒト違いされちゃったからお腹を一突き。生物ってもろいよね。この子が存在養分をあまり摂っていなかったせいもあるのかな?」
まるで世間話をするような調子。
「っ何故こんなことを! お前はヒカリ属――白亜だろう!?」
しかしヴァイスがその名を叫んだ途端、美しき面に浮かんでいた笑みがつと消えた。足もとに視線を投げ、ピクリとも動かないエレンフォールを睥睨する。
「はぁ、やっぱり話したか……あれほどヤミ属には僕の名を告げるなと言ったのに」
『相棒〝だった〟俺は殺せるんだな』
だから反射的に何かを口にしようとした。
しかしすべてに背を向ける決断をした自分に何を言う権利もないと気づくと、声はそのヤミの名を口にするだけで立ち消えた。去っていく背中を追いかけることだってできやしない。
そしてその瞬間気づいたのだ。頭で想像する何倍も、何十倍も何百倍も喪失感が大きかったことに。
ヤミ属界にてディルの背中が見えなくなったあと。ヴァイスは紋翼を展開して生物界へ移動、上空から執行地を見下ろしていた。
時刻は深夜、昼行性生物が寝静まるころだ。執行期限で言えばあと数分といった頃合いである。
今夜は月も厚い雲に阻まれている。そのため一帯が真っ暗闇に染まっていた。
昼に活動することが主の人間では歩くことにも苦労するほどだが、ヤミ属たるヴァイスの視界は明瞭だ。彼はイスマの邸宅めがけてゆっくり、静かに下降していく。
ヴァイスの脳裏にはヤミとして過ごした日々が代わる代わるよぎっている。
今まではただの情報として処理してきたそれらが、思い返す今は様々な色を持っていたことに気づく。
特にディルとバディを組んで以降の記憶は鮮烈だ。どうして今まで何も感じてこなかったのだろうと不思議に思えるほどだ。
それは今の自分が真っ白でなくなったからか、はたまた近くにあったがゆえに見えなかったのか――ヴァイスには分からない。ならばこれ以上考えるべきでないと思っていても、しかし頭は思い出を再生し続ける。
ディル、アスカ、シエル、エンラやリンリン。育て親だったヤミ、他にもたくさんのヤミたち――自分で手放したモノ。
二度と手に戻らぬ、大事だったモノが次々と飛来しては過ぎ去っていく。
だが、だからといって選択を変えられるわけでもない。ヴァイスにとってエレンフォールも〝これまで〟と同じくらい大事な存在だった。
最初は本当に驚きの連続だった。
善性の強さ、己を死神と認識しながら懐いてくる豪胆さ。ヤミ属執行者たるヴァイスは生物や罪科獣に忌避されるのが当たり前だったのに、エレンフォールは裏のない笑顔を何度も向け、ヴァイスの来訪を喜んだ。
だから逃げた。しかしそのたびに思い直し、今度こそ執行せんとエレンフォールのもとへ向かった。だがやはりまた逃げてしまった。
自分でもワケが分からず、その理由を探すためにエレンフォールとの会話に応じた。するとどうだろう、胸に色がほとばしっていった。自覚していった。エレンフォールの笑顔を見るたび、憂慮に出会うたび、共に過ごすたび。
『君は俺の友だちだ』
友と呼ばれたとき、目の覚めるような思いがした。大事な宝物の半分を差し出されたとき、幸せに生きてほしいと願った。
ヴァイスは知っている。例えエレンフォールがエレンフォールとしての生を終えたとしても、彼の魂魄は生と死の循環を無限に繰り返していけること。
〝正しさ〟で言えばエンラやディルの方に明らかな分があること。
しかしヴァイスはこうも理解している。
失いたくないモノはこのエレンフォールであること。
あまりに独りよがりだ。まるでコドモのようだ。だが、抑えられない。どうしても失いたくない。いや、理不尽に奪われたくない。
「君を守る……何があろうと」
ヴァイスは自分に言い聞かせるように言葉を口にした。
同時にディルや育て子たちの顔が脳裏によみがえったが、無理やり目をそらした。もはや思い出す資格だってありはしないのだから。
「……行こう。私がこの道を選んだんだ」
ヴァイスはそれだけ言って、時の紋翼を羽ばたかせた。
イスマの邸宅の真上までたどり着いた。執行期限で言えばあと数秒だ。無論、任務を果たす気はない。
ヴァイスは霊体のまま天井をすり抜け、エレンフォールの部屋へと入っていく。
万が一にもエレンフォールに暗い気持ちを悟られてはいけない。だからヴァイスは気持ちを切り替えるため項垂れていた顔を懸命に持ち上げた。
「エレンフォ――」
刹那。気づく。ロウソクに照らされただけの屋内が様変わりしていること。
「ああやっと来た。安心した」
向けられた音色がエレンフォールのものでないこと、冷たい慈愛に満ちていること。
「でも遅かったね。待ちくたびれたから先にやっちゃったよ?」
――ヴァイスの数歩先に広がるモノが、白き三対の大翼が生えた背中であること。
合間を流れるは白にすら見える金の長髪、振り返れば紅玉の双眸。男性とも女性ともつかない、しかしこの世のものとは思えぬほどの美貌と全身から放たれる輝き。
頭上には正四角形の光輪が回り、決して広くない部屋はむせ返るほどの神気に満ちていた。明らかな高次存在。
「本当は君の前でやってあげたかったんだけどね。まぁ本番はこれからだからさ」
だが、ヴァイスを硬直させたのはそれらではない。振り返った者の顔が転々と赤に濡れていたことでもない。
生臭い鉄の匂い。床を広く汚す赤の液体。そこに力なく沈んだ誰かの手――
「っエレンフォール!!」
瞬間、叫んだ。同時に実体化し駆け寄ろうとする。しかしそれを間に立っている彼、あるいは彼女が向き直りながら制止した。
「ねぇ、僕を無視しないで?」
「ッ!!」
目に見えぬ拘束がヴァイスを雁字搦めにする。
動けない。権能〝茨〟で引きちぎろうとしても発現しない。権能〝クロノス〟も右に同じだ。神陰力を練ることはできても権能が行使できないのだ。
あまりに不覚だった。これほどの神気と存在感を放つ者を前にして我を忘れるなど愚行にも程がある。
しかし、彼が動いたことで足もとのエレンフォールが見えた。彼は血の海のなかで目を閉じたまま動かない。
「エレンフォールッ、エレンフォール!!」
「焦らないで大丈夫。まだ生きているよ」
無我夢中に叫びながら不可視の拘束を解こうとするヴァイスに、輝く彼は燦然とした慈愛の笑みを投げかけた。
あまりに純粋で美しい笑顔だ。
しかしその左腕だけは赤黒い血に濡れている。さらに彼は腕を持ち上げ、したたる赤を見せつけるように細指を舐めあげてみせる。
余裕と挑発、そして蔑みの行動。
「お前がッ、お前がエレンフォールをやったのか!!」
ヴァイスは拘束のなかで力任せにもがきながら声を発した。それに対し彼はゆっくりと頷く。
「そう、意気揚々とヒト違いされちゃったからお腹を一突き。生物ってもろいよね。この子が存在養分をあまり摂っていなかったせいもあるのかな?」
まるで世間話をするような調子。
「っ何故こんなことを! お前はヒカリ属――白亜だろう!?」
しかしヴァイスがその名を叫んだ途端、美しき面に浮かんでいた笑みがつと消えた。足もとに視線を投げ、ピクリとも動かないエレンフォールを睥睨する。
「はぁ、やっぱり話したか……あれほどヤミ属には僕の名を告げるなと言ったのに」