第10話 因縁の地
文字数 2,512文字
時間軸は現代に戻る。
つまり外見年齢が二十七歳、〝ヤミ属執行者の頂点〟となって久しいヴァイス。外見年齢が三十二歳、普段はヤミ属界で医師業に勤しむディル――ふたりが特別任務のため中東のとある国へ降り立った現在だ。
ディルは実体を維持したまま、執行地である都市を数時間練り歩いて〝天国の地獄〟の情報収集をしていた。
隣を歩くヴァイスは霊体のままだ。それゆえ界隈の人々の目には一人の異国人が周囲を散策し、気まぐれに現地人へ声をかけているようにしか見えない。
ディルは人当たりが良いため、彼らは多少怪訝な顔をしつつも色々と教えてくれた。
「とりあえず集めた情報をまとめてみようぜ」
情報収集が一段落つき、人どおりの少ない場所へ移動したディルは、道端のスロープに腰かけながら目の前に立つヴァイスへ話しかけた。ちなみに今回も念話を用いている。
「とは言っても目新しい情報は得られなかったな。〝天国の地獄〟は人間をこつ然と失踪させる怪奇現象――現地人にはそれなりにポピュラーな話だが、どちらかというと空想話に近く、親が子をたしなめるために使うのが多いということだった」
ヴァイスの言葉にディルはうなずく。
〝天国の地獄〟――それはあるふとした拍子にやってくる天国だ。当人にとって非常に魅力的なモノが目の前に突然現れるらしい。
ある人間の前では大好物の食物や酒が甘美な匂いを放ち、またある人間の前では脳天をつらぬくような美男美女が艶めかしく誘い。
そのまたある人間の前では死に別れた最愛の肉親が手招きする。果ては狂おしい憎悪を抱く相手が挑発してきたり、何者でも殺せるような兵器が現れたり。
とにかくその者にとって最も渇望するモノが出現し、近づいたが最後、まるで初めから存在しなかったかのように消えるのだと。地獄へ落ちるのだと。
まさに〝天国の地獄〟――
「結構な人間が突然失踪するにもかかわらず、どこか他人事のように語り継がれてるのは、失踪する人間の大多数が旅行客や異邦人だからだな。
宿代とか飲食代を踏み倒して消えてしまうため、割りを食った慰めとして〝天国の地獄〟の話を持ち出す現地人も多いとか」
閉鎖的で排他的な国民性も無関心さに拍車をかけているんだろう、とディルが考えていると今度はヴァイスが口を開く。
「失踪時期や時刻はまばら、場所もこの一帯というだけで限定されていない。
今年に入って失踪したのは一人……アジア方面からの旅行客であり、チェックアウト前に界隈を散歩してくると言い一人で宿を出たらしい。
それを最後にこつ然と失踪。共に旅行していたもう一人は警察にも連絡し、必死に捜索したが目撃情報すら一切なし。防犯カメラにも失踪した人間の姿は一切映っていなかったと」
「まぁ、明らかにおかしいよな。その旅行客の足取りは俺たちヤミ属が調査しても追えず、例によって魂魄もヤミ属界に還ってないんだからさ。お前はどう考える?」
「仮に誘いこんでいる者が罪科獣ならば人間の罪科獣だろう」
ヴァイスの即答にディルも首肯する。
「同感だ。欲望を刺激するなんざ、いかにも人間らしいもんな」
「私たちが〝天国の地獄〟に遭う必要があるとも考える。そうすれば真相もすぐ把握できるし、何より話が早い」
「はは、やーっぱ脳筋はそうなるか。
つっても〝天国の地獄〟の法則性がな……。失踪した人間の共通点を見つけ出して化けるのが一番の近道かね」
ディルが難しい顔で見上げた先のヴァイスは、ペストマスクの顎部分に手を当てて思案している。
「まずはお前の仮定に沿ってみないか。ディル」
「うん?」
「先刻話したように、今回の任務の執行対象は合成キメラの可能性も高い。
そして以前、お前は私に自分の見解を話したな。合成キメラは特定の性質を持つ者を好む傾向があるのではないかと」
「ああその話か。一尾のキツネにまとわりついてた毛玉型の合成キメラを皮切りに〝悪魔神ウル〟のときの諸々、その他にも常駐組から報告が上がってき始めた合成キメラと思しきヤツらの動き――それらを自分なりに考えた見解だ。だがまだ俺の想像に留まってる話だぜ」
「直近で失踪した人間もただの旅行客ではなかった。表向きはそう装っていたが、裏では大量のドラッグを取引していたという情報があっただろう」
「そうだったな……なら試してみる価値はあるか」
「よし、そうと決まれば早速だ」
ヴァイスは言ってカナリアを呼んだ。
彼の懐で休んでいたらしいゼンマイ仕掛けの鳥は意気揚々と飛び出してきて、ヴァイスの周囲を一度ぐるりと飛び回ったのち金属グローブに覆われた人差し指に着地した。
「カナリア。この界隈の人間から可能な限り悪性、特に悪意を集めてきてくれ。私やディルを覆えるくらいだと最高だ」
すっかりヴァイスの飼い鳥になったな、と苦笑するディルを尻目にカナリアは金古美色の翼を羽ばたかせ空へ飛び立っていく。
ディルはそれを見送るふりをしながら、カナリアの消えた方角、少し遠くの高台を見つめ続けるヴァイスの背中を灰瞳に映していた。
無言で静止する彼の背中にはどこか陰があるように見えた。その右耳に揺れるのはターコイズのピアス――
「……なぁヴァイス。カナリアが帰ってくるまで観光してないか」
だからディルはことさら明るい声でヴァイスの背に声をかける。
そうして「任務中だぞ」と振り返ってくるヴァイスに笑いかけながら立ち上がった。
「観光しながら情報収集続行ってことだ。ここでボンヤリしてても仕方ないだろ?」
「そう言いつつ買い物に勤しむんだろう」
「ははは、バレたか。今のうちに茶葉を買っておきたくてな」
苦言を呈しつつも、ヴァイスはディルが歩きだすと隣に並んでくる。
それに安堵するディルは物思いにふける時間など与えないとばかりに再びヴァイスへ話しかけるのだ。
――今回ディルがヴァイスに任務の同行を申し出た理由。
それはもちろん観光のためでも買い物のためでもない。先日、別用で裁定神殿を訪れた際、ヴァイスの次の任務がこの地であるとエンラから聞かされたからだ。
この場所はヴァイスにとって因縁の地。
三百年前、罪を胸に深く刻むこととなった始まりの地なのだ――
つまり外見年齢が二十七歳、〝ヤミ属執行者の頂点〟となって久しいヴァイス。外見年齢が三十二歳、普段はヤミ属界で医師業に勤しむディル――ふたりが特別任務のため中東のとある国へ降り立った現在だ。
ディルは実体を維持したまま、執行地である都市を数時間練り歩いて〝天国の地獄〟の情報収集をしていた。
隣を歩くヴァイスは霊体のままだ。それゆえ界隈の人々の目には一人の異国人が周囲を散策し、気まぐれに現地人へ声をかけているようにしか見えない。
ディルは人当たりが良いため、彼らは多少怪訝な顔をしつつも色々と教えてくれた。
「とりあえず集めた情報をまとめてみようぜ」
情報収集が一段落つき、人どおりの少ない場所へ移動したディルは、道端のスロープに腰かけながら目の前に立つヴァイスへ話しかけた。ちなみに今回も念話を用いている。
「とは言っても目新しい情報は得られなかったな。〝天国の地獄〟は人間をこつ然と失踪させる怪奇現象――現地人にはそれなりにポピュラーな話だが、どちらかというと空想話に近く、親が子をたしなめるために使うのが多いということだった」
ヴァイスの言葉にディルはうなずく。
〝天国の地獄〟――それはあるふとした拍子にやってくる天国だ。当人にとって非常に魅力的なモノが目の前に突然現れるらしい。
ある人間の前では大好物の食物や酒が甘美な匂いを放ち、またある人間の前では脳天をつらぬくような美男美女が艶めかしく誘い。
そのまたある人間の前では死に別れた最愛の肉親が手招きする。果ては狂おしい憎悪を抱く相手が挑発してきたり、何者でも殺せるような兵器が現れたり。
とにかくその者にとって最も渇望するモノが出現し、近づいたが最後、まるで初めから存在しなかったかのように消えるのだと。地獄へ落ちるのだと。
まさに〝天国の地獄〟――
「結構な人間が突然失踪するにもかかわらず、どこか他人事のように語り継がれてるのは、失踪する人間の大多数が旅行客や異邦人だからだな。
宿代とか飲食代を踏み倒して消えてしまうため、割りを食った慰めとして〝天国の地獄〟の話を持ち出す現地人も多いとか」
閉鎖的で排他的な国民性も無関心さに拍車をかけているんだろう、とディルが考えていると今度はヴァイスが口を開く。
「失踪時期や時刻はまばら、場所もこの一帯というだけで限定されていない。
今年に入って失踪したのは一人……アジア方面からの旅行客であり、チェックアウト前に界隈を散歩してくると言い一人で宿を出たらしい。
それを最後にこつ然と失踪。共に旅行していたもう一人は警察にも連絡し、必死に捜索したが目撃情報すら一切なし。防犯カメラにも失踪した人間の姿は一切映っていなかったと」
「まぁ、明らかにおかしいよな。その旅行客の足取りは俺たちヤミ属が調査しても追えず、例によって魂魄もヤミ属界に還ってないんだからさ。お前はどう考える?」
「仮に誘いこんでいる者が罪科獣ならば人間の罪科獣だろう」
ヴァイスの即答にディルも首肯する。
「同感だ。欲望を刺激するなんざ、いかにも人間らしいもんな」
「私たちが〝天国の地獄〟に遭う必要があるとも考える。そうすれば真相もすぐ把握できるし、何より話が早い」
「はは、やーっぱ脳筋はそうなるか。
つっても〝天国の地獄〟の法則性がな……。失踪した人間の共通点を見つけ出して化けるのが一番の近道かね」
ディルが難しい顔で見上げた先のヴァイスは、ペストマスクの顎部分に手を当てて思案している。
「まずはお前の仮定に沿ってみないか。ディル」
「うん?」
「先刻話したように、今回の任務の執行対象は合成キメラの可能性も高い。
そして以前、お前は私に自分の見解を話したな。合成キメラは特定の性質を持つ者を好む傾向があるのではないかと」
「ああその話か。一尾のキツネにまとわりついてた毛玉型の合成キメラを皮切りに〝悪魔神ウル〟のときの諸々、その他にも常駐組から報告が上がってき始めた合成キメラと思しきヤツらの動き――それらを自分なりに考えた見解だ。だがまだ俺の想像に留まってる話だぜ」
「直近で失踪した人間もただの旅行客ではなかった。表向きはそう装っていたが、裏では大量のドラッグを取引していたという情報があっただろう」
「そうだったな……なら試してみる価値はあるか」
「よし、そうと決まれば早速だ」
ヴァイスは言ってカナリアを呼んだ。
彼の懐で休んでいたらしいゼンマイ仕掛けの鳥は意気揚々と飛び出してきて、ヴァイスの周囲を一度ぐるりと飛び回ったのち金属グローブに覆われた人差し指に着地した。
「カナリア。この界隈の人間から可能な限り悪性、特に悪意を集めてきてくれ。私やディルを覆えるくらいだと最高だ」
すっかりヴァイスの飼い鳥になったな、と苦笑するディルを尻目にカナリアは金古美色の翼を羽ばたかせ空へ飛び立っていく。
ディルはそれを見送るふりをしながら、カナリアの消えた方角、少し遠くの高台を見つめ続けるヴァイスの背中を灰瞳に映していた。
無言で静止する彼の背中にはどこか陰があるように見えた。その右耳に揺れるのはターコイズのピアス――
「……なぁヴァイス。カナリアが帰ってくるまで観光してないか」
だからディルはことさら明るい声でヴァイスの背に声をかける。
そうして「任務中だぞ」と振り返ってくるヴァイスに笑いかけながら立ち上がった。
「観光しながら情報収集続行ってことだ。ここでボンヤリしてても仕方ないだろ?」
「そう言いつつ買い物に勤しむんだろう」
「ははは、バレたか。今のうちに茶葉を買っておきたくてな」
苦言を呈しつつも、ヴァイスはディルが歩きだすと隣に並んでくる。
それに安堵するディルは物思いにふける時間など与えないとばかりに再びヴァイスへ話しかけるのだ。
――今回ディルがヴァイスに任務の同行を申し出た理由。
それはもちろん観光のためでも買い物のためでもない。先日、別用で裁定神殿を訪れた際、ヴァイスの次の任務がこの地であるとエンラから聞かされたからだ。
この場所はヴァイスにとって因縁の地。
三百年前、罪を胸に深く刻むこととなった始まりの地なのだ――