第32話 今際を見る毒
文字数 2,334文字
「何だこれは、どうなってやがる!?」
エレンフォールの幽閉部屋に侵入するや否やディルは戦慄した。
血の赤にまみれた凄惨な室内――前回来訪時とは似ても似つかぬ様子に眉根を深く寄せ、硬直するしかなかった。
「ッヴァイス!?」
しかしその灰瞳が実体化したヴァイスの姿を捉えたとき、ディルの身体は反射的に動いた。肩に留まっていたカナリアが驚いたようにバサバサと羽を動かす。
「ヴァイス!! おいヴァイス、何があったんだ!?」
実体化しながら駆け寄っては問いかける。
しかし血に汚れた床に膝をつくヴァイスは何か黒いモノを抱きしめ、うつむいたまま物のように動かない。
そこでディルの背筋が凍った。
ヴァイスの肩を揺り動かす、現実を否定しようとする。しかし願望は裏切られた。ヴァイスの上半身が抵抗もなく倒れれば血の気が一気に引いた。
ヤミ属界のヴァイスの自宅前で分かれてからまだ十分も経っていない。このわずかな間に一体何があったのか。
ディルは素早く眼球を動かし部屋を見渡した。
よく見ればすぐ近くにサイコロ状に積み重なった遺骸がある。一瞬人間かと思ったが、残り香のごとき神気や紋翼の欠片、粉々になった神核片、そしてかなりの速度で消失しかかっているために違うのだと気づいた。
次に仰向けに倒れたヴァイスが未だに抱きしめているモノに目を向けた。それなりに大きく長い。人型をしているように見えるが、黒い泥のようなモノにまみれているため細部が判別できない。
しかし見ているだけで悪寒がするこの泥が呪禍だと考え及ぶと、ディルは弾かれるようにヴァイスへ視線を戻した。
「ッな……!!」
改めて見下ろしたヴァイス。彼の顔の右半分が既に黒く染まっている。急いで取り外した仮面の下もだ。
黒い人型を傍らへよけ、ヴァイスの衣服を引きちぎった。やはり顔だけではない、身体の大半――右半身が既に染まり、さらに現在進行系でじわじわと侵食されていた。
ヤミ属やヒカリ属は呪禍を生み出さない。ならばヴァイスを侵しているこれは、ヴァイスが抱きしめていたモノが生み出した呪禍だろう。
しかしどうして? 何故この人型は呪禍に侵されている? そして何故ヴァイスはこの呪禍を抱きしめている? これでは呪禍をわざわざ自分に伝染させているようなものだ。
そもそも真っ黒になるまで侵食されたこの人型は誰だ。まさかエレンフォールか?
だがヴァイスはエレンフォールを守るためにヤミ属に背を向けたはずだ。そのエレンフォールが呪禍に変じる理由などあるわけもない。
すぐ近くでバラバラになっている生物外の肉片も意味不明だ。生物でないことだけは分かるが、やはり一見しただけでは何がどうなってこの現状になったのか不明だ。もしやこれが呪禍と関係しているのか?
いや――何より、何よりだ。どうしてヴァイスが今にも死にそうなんだ!?
ディルには分からない。何も分からない。
ヴァイスと分かれたあと懸命に思い直し『刺し違えてでもヴァイスを連れ戻してやる』とここへ降り立っただけのディルには。
「っ考えごとしてる場合じゃねぇだろ、ヴァイス、おいヴァイス!!」
ディルは乱暴に頭を振って目の前のことに集中しようとした。
どんなに呼びかけても応答はない。ぐったりと力のない様はまるで死体のようだ。
神核片の状態から見るとヴァイスはまだ死んでいないが、もちろん安心できる状況ではない。呪禍が神核片まで届けば確実に死ぬ。そしてそれは遠くない未来にまで差し迫っている。
「とにかくエンラ様のとこだ、早く連れていかねぇと……!!」
呪禍が発生した場合はエンラへ報告するのが最優先、というのはディルも知っている。エンラは封印という方法で呪禍そのものを抑えられるのだ。
とりあえずエンラのもとへ行けば助けてもらえるはず――ディルはヴァイスをヤミ属界へ連れていこうと仰向けの体躯を持ち上げようとした。
「……ディ、ル……?」
その瞬間、なじみの声が聴覚に触れてディルは目を見開いた。ヴァイスの顔に目を向ける。するとそこには紅の双眸。黒に侵された白のなか、そこだけに色があった。
「ヴァイス!!」
ディルは相棒の名を呼ぶ。ただ覚醒してくれただけで安堵し、胸がいっぱいになる。
ヴァイスはひどく弱々しく、緩慢な動きでディルにおぼろげな視線を合わせた。
「ぁ……こ……れ、は、……まぼ、し……か?」
「ッなに言ってんだ現実だ、本物だよ! 世話の焼けるお前を追いかけてきたんだ!!」
その言葉に、ヴァイスは少しの間のあとで口もとを緩ませた。
「そ、か……くろ……け、た……」
「うるせぇ、もうしゃべんな! 待ってろ、今からお前をエンラ様のとこに運んでやるから!!」
「……りが、……、も……ぃ……ん、だ」
「あ!?」
「しは……こ……死、……き……だ」
「……な、何言って!」
「フォ、ル……まも……な……っ、た……」
たどたどしく言いながら、ヴァイスは傍らに横たえられた黒き人型へ目をやった。
ディルは息を呑む。やはり呪禍に染まり尽くして絶命した人型はエレンフォールだったのだ。
「っバカ言うな! もう黙ってろ!」
だが、やはり。だからと言ってヴァイスの言葉にうなずく気はない。
ディルは再びヴァイス体躯を持ち上げようとする。しかしその前にヴァイスがまた薄い唇を開いた。
「っ、た……ご、え……て……」
「最後じゃねぇよ! クソ、いいからさっさと……!」
「ま……ぇ、……やま……っ…………すま、……」
「~~聞きたくねぇ、そんなのはどうでもいいんだよ!!」
「……で、……が、と――」
その言葉にまた反論しようとしたところで、紅の双眸がまぶたに隠された。途方のない苦痛に溺れるように。
「おい、おい!? ヴァイス!!」
エレンフォールの幽閉部屋に侵入するや否やディルは戦慄した。
血の赤にまみれた凄惨な室内――前回来訪時とは似ても似つかぬ様子に眉根を深く寄せ、硬直するしかなかった。
「ッヴァイス!?」
しかしその灰瞳が実体化したヴァイスの姿を捉えたとき、ディルの身体は反射的に動いた。肩に留まっていたカナリアが驚いたようにバサバサと羽を動かす。
「ヴァイス!! おいヴァイス、何があったんだ!?」
実体化しながら駆け寄っては問いかける。
しかし血に汚れた床に膝をつくヴァイスは何か黒いモノを抱きしめ、うつむいたまま物のように動かない。
そこでディルの背筋が凍った。
ヴァイスの肩を揺り動かす、現実を否定しようとする。しかし願望は裏切られた。ヴァイスの上半身が抵抗もなく倒れれば血の気が一気に引いた。
ヤミ属界のヴァイスの自宅前で分かれてからまだ十分も経っていない。このわずかな間に一体何があったのか。
ディルは素早く眼球を動かし部屋を見渡した。
よく見ればすぐ近くにサイコロ状に積み重なった遺骸がある。一瞬人間かと思ったが、残り香のごとき神気や紋翼の欠片、粉々になった神核片、そしてかなりの速度で消失しかかっているために違うのだと気づいた。
次に仰向けに倒れたヴァイスが未だに抱きしめているモノに目を向けた。それなりに大きく長い。人型をしているように見えるが、黒い泥のようなモノにまみれているため細部が判別できない。
しかし見ているだけで悪寒がするこの泥が呪禍だと考え及ぶと、ディルは弾かれるようにヴァイスへ視線を戻した。
「ッな……!!」
改めて見下ろしたヴァイス。彼の顔の右半分が既に黒く染まっている。急いで取り外した仮面の下もだ。
黒い人型を傍らへよけ、ヴァイスの衣服を引きちぎった。やはり顔だけではない、身体の大半――右半身が既に染まり、さらに現在進行系でじわじわと侵食されていた。
ヤミ属やヒカリ属は呪禍を生み出さない。ならばヴァイスを侵しているこれは、ヴァイスが抱きしめていたモノが生み出した呪禍だろう。
しかしどうして? 何故この人型は呪禍に侵されている? そして何故ヴァイスはこの呪禍を抱きしめている? これでは呪禍をわざわざ自分に伝染させているようなものだ。
そもそも真っ黒になるまで侵食されたこの人型は誰だ。まさかエレンフォールか?
だがヴァイスはエレンフォールを守るためにヤミ属に背を向けたはずだ。そのエレンフォールが呪禍に変じる理由などあるわけもない。
すぐ近くでバラバラになっている生物外の肉片も意味不明だ。生物でないことだけは分かるが、やはり一見しただけでは何がどうなってこの現状になったのか不明だ。もしやこれが呪禍と関係しているのか?
いや――何より、何よりだ。どうしてヴァイスが今にも死にそうなんだ!?
ディルには分からない。何も分からない。
ヴァイスと分かれたあと懸命に思い直し『刺し違えてでもヴァイスを連れ戻してやる』とここへ降り立っただけのディルには。
「っ考えごとしてる場合じゃねぇだろ、ヴァイス、おいヴァイス!!」
ディルは乱暴に頭を振って目の前のことに集中しようとした。
どんなに呼びかけても応答はない。ぐったりと力のない様はまるで死体のようだ。
神核片の状態から見るとヴァイスはまだ死んでいないが、もちろん安心できる状況ではない。呪禍が神核片まで届けば確実に死ぬ。そしてそれは遠くない未来にまで差し迫っている。
「とにかくエンラ様のとこだ、早く連れていかねぇと……!!」
呪禍が発生した場合はエンラへ報告するのが最優先、というのはディルも知っている。エンラは封印という方法で呪禍そのものを抑えられるのだ。
とりあえずエンラのもとへ行けば助けてもらえるはず――ディルはヴァイスをヤミ属界へ連れていこうと仰向けの体躯を持ち上げようとした。
「……ディ、ル……?」
その瞬間、なじみの声が聴覚に触れてディルは目を見開いた。ヴァイスの顔に目を向ける。するとそこには紅の双眸。黒に侵された白のなか、そこだけに色があった。
「ヴァイス!!」
ディルは相棒の名を呼ぶ。ただ覚醒してくれただけで安堵し、胸がいっぱいになる。
ヴァイスはひどく弱々しく、緩慢な動きでディルにおぼろげな視線を合わせた。
「ぁ……こ……れ、は、……まぼ、し……か?」
「ッなに言ってんだ現実だ、本物だよ! 世話の焼けるお前を追いかけてきたんだ!!」
その言葉に、ヴァイスは少しの間のあとで口もとを緩ませた。
「そ、か……くろ……け、た……」
「うるせぇ、もうしゃべんな! 待ってろ、今からお前をエンラ様のとこに運んでやるから!!」
「……りが、……、も……ぃ……ん、だ」
「あ!?」
「しは……こ……死、……き……だ」
「……な、何言って!」
「フォ、ル……まも……な……っ、た……」
たどたどしく言いながら、ヴァイスは傍らに横たえられた黒き人型へ目をやった。
ディルは息を呑む。やはり呪禍に染まり尽くして絶命した人型はエレンフォールだったのだ。
「っバカ言うな! もう黙ってろ!」
だが、やはり。だからと言ってヴァイスの言葉にうなずく気はない。
ディルは再びヴァイス体躯を持ち上げようとする。しかしその前にヴァイスがまた薄い唇を開いた。
「っ、た……ご、え……て……」
「最後じゃねぇよ! クソ、いいからさっさと……!」
「ま……ぇ、……やま……っ…………すま、……」
「~~聞きたくねぇ、そんなのはどうでもいいんだよ!!」
「……で、……が、と――」
その言葉にまた反論しようとしたところで、紅の双眸がまぶたに隠された。途方のない苦痛に溺れるように。
「おい、おい!? ヴァイス!!」