第12話 大事な妹
文字数 2,478文字
今日も今日とて響は〝窓〟を起動する。家族だった人々が生物界で生きる姿を眺めている。
最近は起床後すぐに彼らの動向を確認するようになっていた。
ヤミ属界と生物界の時間の流れは違う。それゆえ寝起き直後の目で見る生物界の映像は昼だったり深夜だったりするのだが、どうやら今回は午後九時くらいのようだった。
以前ならば家族だった人々が家でまったりと過ごしている時間帯だ。今では祖父母が乃絵莉の帰りをヤキモキして待つだけの時間帯となってしまったが。
予想違わず今夜も乃絵莉は家にいなかった。響は〝窓〟に別の場所を映すように声をかけて乃絵莉の姿を探す。
最近はずっとこうだ。
響が〝窓〟を使用するのは、彼らが幸せに平和に暮らしているのを確認するためであり、覗きが主目的ではない。
そのため家のリビングルームにいない時間帯であれば――既に定年を迎えている祖父母の、少なくともどちらかは大抵そこにいたし――それ以上の深追いはしてこなかった。
しかし数日前。存在養分摂取のために生物界へ下り、繁華街のかたすみで乃絵莉を見つけてからというもの、響は〝窓〟を開眼させるたびに乃絵莉の行方を追うようになっていた。
それは純粋に心配だったからだ。明らかに合わない性質の人々のなかで居心地悪そうに、それでも縋るように笑っていた妹が不安でたまらなかったからだ。
〝窓〟の視覚を繁華街、某古ビルの外付け階段に移動する。
ここは乃絵莉の所属するグループのたまり場であるらしく、乃絵莉はこの時間帯ここにいることが多かった。
確かにそこには今日も数人の十代から二十代前半と思しき男女がタムロし、話したりタバコを吸ったり酒を飲んだりしているのが見て取れる。
しかし乃絵莉の姿はない。乃絵莉だけではない、傍らでよく乃絵莉の肩を抱いていた男――恐らく彼氏の姿も、彼とよく話す友人格の男も見つからない。
「……」
何故か妙に嫌な予感を覚え〝窓〟を再び移動させる。彼らが以前訪れていたダーツ場、カラオケ屋、酒場。しかしどこにも乃絵莉の姿はない。
『今日はもう家に帰ったのか』と都合よく考えて繁華街から家への帰り道を見て回ろうが、再度家のなかを見て回ろうが乃絵莉はどこにもいない。
ならばと繁華街全体を探し回っても見つからず、今度は繁華街からやや離れた場所にある風俗街に目を向けた。
無論ここにいるとは思っていない。しかしいつもいる場所にいないとあれば手当たり次第探すしかなく、繁華街の近辺に目を向けた結果、白羽の矢が立ったのが風俗街だったというだけだ。
兄だった者の第六感か、はたまた虫の知らせか。期待薄の――いや。そう願っていた場所に乃絵莉はいた。
ビビットなネオンに照らされた明るい茶髪、露出の多い衣服を揺らし、彼氏の隣を歩いていた。
乃絵莉はこの場所が初めてらしく、おろおろしながら傍らの彼氏の服のすそを掴んでいる。彼氏はそれに気を払う様子もなく、乃絵莉とは反対側の傍らにいる友人の男と話し、ガムをクチャクチャ噛みながらヘラヘラ笑っていた。
響はもちろん盛大に眉根を寄せざるを得ない。
「の、乃絵莉はまだ高校一年生だぞ。こんな時間にこんな場所を歩かせるなんて……」
口が勝手に動いた。しかしその声音が怒気に満ちていることに気づくと我に返る。必死に平静を取り戻そうとする。
「……で、も……恋人同士なら普通のことなのかも知れないよな……。ただ近道をしたくて通ってるだけかも知れないし……」
周囲には様々な店が所狭しと並んでいるが、恋人のための宿泊施設――いわゆるラブホテルも乱立している。
響には恋人がいたことがないので入った経験はないが、ただの人間だったころ、友達や少し年上のバイト仲間が隠れて利用したという話は何度か耳にしたことがあった。
あってはならないことでも身近に実例がないわけではなく、響も当時それを普通に聞き流してきたのだ。
ならば、乃絵莉がこの場にいることもそれほど目くじらを立てるものではないのかも知れない。兄としてはどうしても見過ごせないが――
「いや、何言ってるんだ。僕はもう乃絵莉の兄貴じゃない……」
目を伏せる。自分の言葉がこれほどに重くて痛いとは思わず、唇を噛んで耐えるしかなかった。
数ヶ月前。響は〝混血の禁忌〟に遭い、魂魄ごと死ぬはずだった。
しかし何故か生き永らえてしまい、結果として世界はつじつま合わせを行うに至り、響の存在を生物界の根底から抹消させた。
それゆえ乃絵莉はおろか祖父母も、友達もクラスメイトもバイト仲間も知り合いも響という存在の一切を忘却の彼方に追いやることとなった。
さらに生物とヤミ属の中間存在〝半陰〟として成立してしまった今の響はヤミ属の区分だ。
加えて自らヤミ属執行者を志願した身とあれば、『生物の死を守る任務以外で生物と干渉しない』という規則を絶対に破るわけにはいかない。
ゆえに今の響は乃絵莉にとって兄でもなければ、生物の誰にも気軽に声をかけていい存在でもないのだ。
『――ぜったいに助けるよ。かならず守るよ』
そんな響の脳裏へ無慈悲に広がるのは古い古い記憶。
ある冬の日、風邪を引いて伏せっていた乃絵莉。顔をリンゴのように真っ赤にして、コホコホと苦しそうに咳を繰り返す幼い妹。
乃絵莉は悪夢を見ていた。オバケが追いかけてきて、怖くて、でも兄である響が助けてくれて。だからまたオバケが出てきたときは助けてほしい――悪夢から覚めた乃絵莉はそう言った。
だから約束した。代わってあげたいのにできない無力感に苛まれながら、幼い子どもは妹のために誓ったのだ。
『約束するね。乃絵莉のこと、ずっとずっと守るから。何があっても絶対に』
――それからずっと、響は約束どおり乃絵莉を守ってきた。
身体が弱いくせにすぐ薄着で出かけようとする乃絵莉に注意するのは日常茶飯事だった。二人で歩いているところを野良犬に襲いかかられたときは必死に立ちはだかって撃退した。
乃絵莉が足をくじけば長時間おぶって、祖父母がおらず淋しいと泣かれたときも何時間だって抱きしめ続けたのだ。
最近は起床後すぐに彼らの動向を確認するようになっていた。
ヤミ属界と生物界の時間の流れは違う。それゆえ寝起き直後の目で見る生物界の映像は昼だったり深夜だったりするのだが、どうやら今回は午後九時くらいのようだった。
以前ならば家族だった人々が家でまったりと過ごしている時間帯だ。今では祖父母が乃絵莉の帰りをヤキモキして待つだけの時間帯となってしまったが。
予想違わず今夜も乃絵莉は家にいなかった。響は〝窓〟に別の場所を映すように声をかけて乃絵莉の姿を探す。
最近はずっとこうだ。
響が〝窓〟を使用するのは、彼らが幸せに平和に暮らしているのを確認するためであり、覗きが主目的ではない。
そのため家のリビングルームにいない時間帯であれば――既に定年を迎えている祖父母の、少なくともどちらかは大抵そこにいたし――それ以上の深追いはしてこなかった。
しかし数日前。存在養分摂取のために生物界へ下り、繁華街のかたすみで乃絵莉を見つけてからというもの、響は〝窓〟を開眼させるたびに乃絵莉の行方を追うようになっていた。
それは純粋に心配だったからだ。明らかに合わない性質の人々のなかで居心地悪そうに、それでも縋るように笑っていた妹が不安でたまらなかったからだ。
〝窓〟の視覚を繁華街、某古ビルの外付け階段に移動する。
ここは乃絵莉の所属するグループのたまり場であるらしく、乃絵莉はこの時間帯ここにいることが多かった。
確かにそこには今日も数人の十代から二十代前半と思しき男女がタムロし、話したりタバコを吸ったり酒を飲んだりしているのが見て取れる。
しかし乃絵莉の姿はない。乃絵莉だけではない、傍らでよく乃絵莉の肩を抱いていた男――恐らく彼氏の姿も、彼とよく話す友人格の男も見つからない。
「……」
何故か妙に嫌な予感を覚え〝窓〟を再び移動させる。彼らが以前訪れていたダーツ場、カラオケ屋、酒場。しかしどこにも乃絵莉の姿はない。
『今日はもう家に帰ったのか』と都合よく考えて繁華街から家への帰り道を見て回ろうが、再度家のなかを見て回ろうが乃絵莉はどこにもいない。
ならばと繁華街全体を探し回っても見つからず、今度は繁華街からやや離れた場所にある風俗街に目を向けた。
無論ここにいるとは思っていない。しかしいつもいる場所にいないとあれば手当たり次第探すしかなく、繁華街の近辺に目を向けた結果、白羽の矢が立ったのが風俗街だったというだけだ。
兄だった者の第六感か、はたまた虫の知らせか。期待薄の――いや。そう願っていた場所に乃絵莉はいた。
ビビットなネオンに照らされた明るい茶髪、露出の多い衣服を揺らし、彼氏の隣を歩いていた。
乃絵莉はこの場所が初めてらしく、おろおろしながら傍らの彼氏の服のすそを掴んでいる。彼氏はそれに気を払う様子もなく、乃絵莉とは反対側の傍らにいる友人の男と話し、ガムをクチャクチャ噛みながらヘラヘラ笑っていた。
響はもちろん盛大に眉根を寄せざるを得ない。
「の、乃絵莉はまだ高校一年生だぞ。こんな時間にこんな場所を歩かせるなんて……」
口が勝手に動いた。しかしその声音が怒気に満ちていることに気づくと我に返る。必死に平静を取り戻そうとする。
「……で、も……恋人同士なら普通のことなのかも知れないよな……。ただ近道をしたくて通ってるだけかも知れないし……」
周囲には様々な店が所狭しと並んでいるが、恋人のための宿泊施設――いわゆるラブホテルも乱立している。
響には恋人がいたことがないので入った経験はないが、ただの人間だったころ、友達や少し年上のバイト仲間が隠れて利用したという話は何度か耳にしたことがあった。
あってはならないことでも身近に実例がないわけではなく、響も当時それを普通に聞き流してきたのだ。
ならば、乃絵莉がこの場にいることもそれほど目くじらを立てるものではないのかも知れない。兄としてはどうしても見過ごせないが――
「いや、何言ってるんだ。僕はもう乃絵莉の兄貴じゃない……」
目を伏せる。自分の言葉がこれほどに重くて痛いとは思わず、唇を噛んで耐えるしかなかった。
数ヶ月前。響は〝混血の禁忌〟に遭い、魂魄ごと死ぬはずだった。
しかし何故か生き永らえてしまい、結果として世界はつじつま合わせを行うに至り、響の存在を生物界の根底から抹消させた。
それゆえ乃絵莉はおろか祖父母も、友達もクラスメイトもバイト仲間も知り合いも響という存在の一切を忘却の彼方に追いやることとなった。
さらに生物とヤミ属の中間存在〝半陰〟として成立してしまった今の響はヤミ属の区分だ。
加えて自らヤミ属執行者を志願した身とあれば、『生物の死を守る任務以外で生物と干渉しない』という規則を絶対に破るわけにはいかない。
ゆえに今の響は乃絵莉にとって兄でもなければ、生物の誰にも気軽に声をかけていい存在でもないのだ。
『――ぜったいに助けるよ。かならず守るよ』
そんな響の脳裏へ無慈悲に広がるのは古い古い記憶。
ある冬の日、風邪を引いて伏せっていた乃絵莉。顔をリンゴのように真っ赤にして、コホコホと苦しそうに咳を繰り返す幼い妹。
乃絵莉は悪夢を見ていた。オバケが追いかけてきて、怖くて、でも兄である響が助けてくれて。だからまたオバケが出てきたときは助けてほしい――悪夢から覚めた乃絵莉はそう言った。
だから約束した。代わってあげたいのにできない無力感に苛まれながら、幼い子どもは妹のために誓ったのだ。
『約束するね。乃絵莉のこと、ずっとずっと守るから。何があっても絶対に』
――それからずっと、響は約束どおり乃絵莉を守ってきた。
身体が弱いくせにすぐ薄着で出かけようとする乃絵莉に注意するのは日常茶飯事だった。二人で歩いているところを野良犬に襲いかかられたときは必死に立ちはだかって撃退した。
乃絵莉が足をくじけば長時間おぶって、祖父母がおらず淋しいと泣かれたときも何時間だって抱きしめ続けたのだ。