第13話 理屈じゃない
文字数 2,294文字
ずっとずっと守ってきた。
ひとつひとつは大したことではないだろう。頼りない場面も多かった。だが、それでも守ってきたのだ。
あのとき確かに誓ったから。
守りたいと心から思ったから――大事な大事な妹を。
「……」
だがもう、無理なのだ。
何故なら乃絵莉のなかに響はいない。
響を知っていたすべての生物から響に関する記憶は抹消され、実際〝半陰〟になってからすぐ自宅だった場所を訪れたときも、家族の誰もが響のことをすっかり忘却していた。
「……もう、他人なんだ」
それに、そもそも記憶からして間違っているではないか。響は自嘲する。
乃絵莉の身体が弱かったことなど実際は一度もない。
響の記憶のなかでは何故か身体が弱いことになっているが、現実の彼女は生まれてこの方、病気はおろか風邪すら引いたことがないくらい身体が強いのだ。
あれほど近くにいたというのに記憶などアテにならないものだ。過去など煙のようにおぼろげなモノだ。
そして記憶も過去も自分すらも幻となった今、自分にできることはない。ひとつとして。
「……、」
そうやって必死に己へ言い聞かせていると、不意に〝窓〟のなかの乃絵莉たちが足を止めた。
彼女らの数歩先にはハンチング帽を目深にかぶり、サングラスとマスクで顔の大半を隠し、身体をトレンチコートで覆う一人の男が立っていた。蒸し暑い季節の夜であるにもかかわらず結構な厚着だ。
だが、響の眉根を寄せさせたのは彼の見かけではない。
形容しがたい違和感。黒の帳に阻まれているはずなのに感じるドロリとした視線が響の胸をざわめかせる。
そしてそれは乃絵莉も同じようだった。さっと青ざめ、傍らの彼氏を見上げて首を横に振る。一刻も早くここを去ろうと無言で訴える。だが、それを見下ろす彼氏の表情は冷たい。
「……」
彼氏は乃絵莉の腕をぞんざいにつかむと、離れるのではなく奇妙な男へと近づいていく。
先に奇妙な男の隣に移動していたらしい彼氏の友人は双方を紹介するような素振りを見せ、彼氏は腰を低くしてしきりに頭を下げる。
彼氏の顔がぐにゃりと懇願のカタチに曲がり、乃絵莉に向けられた。
途端、乃絵莉は目を見開きフリーズする。
絶望の表情。音声がなくとも、口が動いていなくとも分かる。信じられないと。どうしてと。
彼氏の唇は軽々しく動く。アイシテル。アイシテルカラ、タノム。何度も何度も、薄っぺらに動く。
「――」
今。
響と、織部 乃絵莉という少女は他人だ。
点と点をつなぐモノの一切は消え失せ、響が執行者でいる現在、任務外での接触も厳禁だ。
「……ああ、そうだよ」
もう家族ではない自分には何の権利もない。資格もない。だから何もしてはならない。
彼氏であるはずの男が乃絵莉の肩を後ろから押しやっても、その先で待つ奇妙な男に差し出したとしても。
例え涙をこぼしながら震える少女が未だ響にとって大事な存在でも――守っては――決して――絶対に――
「ッ知るかそんなもの!!!!」
叫ぶ。同時に響の左胸、その奥にある擬似神核片が鮮烈に発光する。
背後でバサリとひるがえる音が聞こえたかと思えば、響の身体は風のように消失した。
ああ、この視線だ! 私この視線を知ってる!
イヤだ、怖い! お願い、助けて、置いていかないで!
ごめんなさい、〝あなた〟の言うとおりにできなくて! でも怖いの、殺されるの、今度こそ終わるの! だからお願い、一人にしないで!!
――願い虚しく、追い縋る少女の売買は成立した。
直前まで何も知らなかった少女、一言二言で理解するよう強制された少女はそれでも必死で彼の名を呼び、見捨てないでと手を伸ばす。
だが、恋人であるはずの男は友人が運んできた金と引き換えに乃絵莉の背中を押して差し出すばかりだ。
その面には罪悪感はなく、握らされた分厚い封筒の感触に下卑た笑みを浮かべるのみ。どれだけ少女が声を上げようが無関心な街の人々も傍らを素通りだ。
金で買った女が一向にこちらへ来ないことに業を煮やしたか、棒立ちをしていた奇妙な男が自ら近づいてきた。それを機に恋人と友人は踵を返した。
彼らは既に背後の存在を忘れたようで談笑を始めており、そこでようやく乃絵莉は気づくのだ。
ひとつも愛されていなかったこと。愛されないまま命を終えること。
「………………」
ならば――ならばと。少女は恋人だった男の背へ伸ばしていた手を下ろす。
一瞬にして光を失った瞳で遠のいていく背中を眺め、背後の奇妙な男が近づいてくるのに任せた。
脳裏には灯るのは何か――決まっている、ひどくしてしまった祖父母のことだ。
恋人と一緒に居たいばかりに真似をして、汚い言葉で突き放した。心にもないことを言った。言いなりになって金を盗み取った。心が痛くなっても続けた。
すべてを失くし目を覚ました今、謝らなければと思う。例え二度と許されることがなくとも『自分が間違っていた』と伝えなければと。
だがもう二度と不可能だ。自分はもう死ぬのだから――
「っ、きゃあ!?」
乃絵莉がすべての思いを捨てて目も閉じようとした、そのとき。一陣の烈風が乃絵莉の傍らを通り抜けた。
唐突なそれに悲鳴を上げながら身を縮こませつつ乃絵莉は反射的に振り返る。
視線の先には奇妙な男が立っているだけのはずだった。だが違う。そこには、乃絵莉と奇妙な男の間には第三者の背中があった。
身長も体格も普通。年齢も自分とそう変わらなさそうな、しかしやけに大きく見えるその背中。
そうして彼は言う。毅然と、何故だか懐かしい声で。
「乃絵莉に手を出すな……!!」
――少女の瞳が、はっと見開かれた。
ひとつひとつは大したことではないだろう。頼りない場面も多かった。だが、それでも守ってきたのだ。
あのとき確かに誓ったから。
守りたいと心から思ったから――大事な大事な妹を。
「……」
だがもう、無理なのだ。
何故なら乃絵莉のなかに響はいない。
響を知っていたすべての生物から響に関する記憶は抹消され、実際〝半陰〟になってからすぐ自宅だった場所を訪れたときも、家族の誰もが響のことをすっかり忘却していた。
「……もう、他人なんだ」
それに、そもそも記憶からして間違っているではないか。響は自嘲する。
乃絵莉の身体が弱かったことなど実際は一度もない。
響の記憶のなかでは何故か身体が弱いことになっているが、現実の彼女は生まれてこの方、病気はおろか風邪すら引いたことがないくらい身体が強いのだ。
あれほど近くにいたというのに記憶などアテにならないものだ。過去など煙のようにおぼろげなモノだ。
そして記憶も過去も自分すらも幻となった今、自分にできることはない。ひとつとして。
「……、」
そうやって必死に己へ言い聞かせていると、不意に〝窓〟のなかの乃絵莉たちが足を止めた。
彼女らの数歩先にはハンチング帽を目深にかぶり、サングラスとマスクで顔の大半を隠し、身体をトレンチコートで覆う一人の男が立っていた。蒸し暑い季節の夜であるにもかかわらず結構な厚着だ。
だが、響の眉根を寄せさせたのは彼の見かけではない。
形容しがたい違和感。黒の帳に阻まれているはずなのに感じるドロリとした視線が響の胸をざわめかせる。
そしてそれは乃絵莉も同じようだった。さっと青ざめ、傍らの彼氏を見上げて首を横に振る。一刻も早くここを去ろうと無言で訴える。だが、それを見下ろす彼氏の表情は冷たい。
「……」
彼氏は乃絵莉の腕をぞんざいにつかむと、離れるのではなく奇妙な男へと近づいていく。
先に奇妙な男の隣に移動していたらしい彼氏の友人は双方を紹介するような素振りを見せ、彼氏は腰を低くしてしきりに頭を下げる。
彼氏の顔がぐにゃりと懇願のカタチに曲がり、乃絵莉に向けられた。
途端、乃絵莉は目を見開きフリーズする。
絶望の表情。音声がなくとも、口が動いていなくとも分かる。信じられないと。どうしてと。
彼氏の唇は軽々しく動く。アイシテル。アイシテルカラ、タノム。何度も何度も、薄っぺらに動く。
「――」
今。
響と、織部 乃絵莉という少女は他人だ。
点と点をつなぐモノの一切は消え失せ、響が執行者でいる現在、任務外での接触も厳禁だ。
「……ああ、そうだよ」
もう家族ではない自分には何の権利もない。資格もない。だから何もしてはならない。
彼氏であるはずの男が乃絵莉の肩を後ろから押しやっても、その先で待つ奇妙な男に差し出したとしても。
例え涙をこぼしながら震える少女が未だ響にとって大事な存在でも――守っては――決して――絶対に――
「ッ知るかそんなもの!!!!」
叫ぶ。同時に響の左胸、その奥にある擬似神核片が鮮烈に発光する。
背後でバサリとひるがえる音が聞こえたかと思えば、響の身体は風のように消失した。
ああ、この視線だ! 私この視線を知ってる!
イヤだ、怖い! お願い、助けて、置いていかないで!
ごめんなさい、〝あなた〟の言うとおりにできなくて! でも怖いの、殺されるの、今度こそ終わるの! だからお願い、一人にしないで!!
――願い虚しく、追い縋る少女の売買は成立した。
直前まで何も知らなかった少女、一言二言で理解するよう強制された少女はそれでも必死で彼の名を呼び、見捨てないでと手を伸ばす。
だが、恋人であるはずの男は友人が運んできた金と引き換えに乃絵莉の背中を押して差し出すばかりだ。
その面には罪悪感はなく、握らされた分厚い封筒の感触に下卑た笑みを浮かべるのみ。どれだけ少女が声を上げようが無関心な街の人々も傍らを素通りだ。
金で買った女が一向にこちらへ来ないことに業を煮やしたか、棒立ちをしていた奇妙な男が自ら近づいてきた。それを機に恋人と友人は踵を返した。
彼らは既に背後の存在を忘れたようで談笑を始めており、そこでようやく乃絵莉は気づくのだ。
ひとつも愛されていなかったこと。愛されないまま命を終えること。
「………………」
ならば――ならばと。少女は恋人だった男の背へ伸ばしていた手を下ろす。
一瞬にして光を失った瞳で遠のいていく背中を眺め、背後の奇妙な男が近づいてくるのに任せた。
脳裏には灯るのは何か――決まっている、ひどくしてしまった祖父母のことだ。
恋人と一緒に居たいばかりに真似をして、汚い言葉で突き放した。心にもないことを言った。言いなりになって金を盗み取った。心が痛くなっても続けた。
すべてを失くし目を覚ました今、謝らなければと思う。例え二度と許されることがなくとも『自分が間違っていた』と伝えなければと。
だがもう二度と不可能だ。自分はもう死ぬのだから――
「っ、きゃあ!?」
乃絵莉がすべての思いを捨てて目も閉じようとした、そのとき。一陣の烈風が乃絵莉の傍らを通り抜けた。
唐突なそれに悲鳴を上げながら身を縮こませつつ乃絵莉は反射的に振り返る。
視線の先には奇妙な男が立っているだけのはずだった。だが違う。そこには、乃絵莉と奇妙な男の間には第三者の背中があった。
身長も体格も普通。年齢も自分とそう変わらなさそうな、しかしやけに大きく見えるその背中。
そうして彼は言う。毅然と、何故だか懐かしい声で。
「乃絵莉に手を出すな……!!」
――少女の瞳が、はっと見開かれた。