Interlude:堕天
文字数 3,639文字
その空間には何もなかった。そう……大気 さえもない空間。いや、正確にはこの空間自体を構成している暗黒物質は存在しているので、何もないというと語弊があるかも知れないが。
その暗黒物質以外には何もないはずの空間に、一隻の船 が浮かんでいた。船と形容したが、その『船』は地球上 に存在するありとあらゆる船と名の付く乗り物からはかけ離れた奇怪な形状をしていた。敢えて当てはめるなら海中を潜航する潜水艦が最も近いイメージかも知れない。
しかしあくまで近い だけであり、その『船』は明らかに潜水艦では無かった。形状もさる事ながら、何よりも場所 が異なる。この空間には大気は勿論、水も存在していなかった。
水も大気も無い空間。そして大気が無いので音もまた発生しない無音の空間。そう。そこは……宇宙空間 であったのだ。
その『船』は、宇宙空間に浮かぶ宇宙船であった。青い惑星……地球を『下』に見下ろす位置で静止……否、地球の自転と公転の動きにピッタリと合わせて移動し続けている為に、地球との位置関係が変わらず静止しているように見えた。
その『宇宙船』は、外からは全く継ぎ目の見当たらない完璧な球状の外観をしており、推進器の類いなども一切見当たらなかった。大きさは直径 で20メートルはあるだろうか。このような物体を宇宙空間に浮かべておく事自体、現在の地球の科学力では不可能な芸当だ。
地球の科学力では作れない『船』……。では、これは一体何なのであろうか。
****
「…………」
彼 は自身の視覚とポッド の視覚センサーをリンクさせて、『眼下』に広がる青い惑星を眺めた。辺境管理局、惑星管理ナンバー114。現住種族 達の言語で『アース』と呼ばれる惑星。
彼の種族による直接の管轄下に置かれていない辺境の惑星だけあって、青々とした大気と海はまだ美しさを保っていた。彼もここに来た当初は美しい星だと思ったものだ。
だがそれも最初の内だけだ。今の彼にとってこの惑星は、母星で飽きる程見上げてきた衛星群と同じ……いや、それ以下のもう見るのもウンザリする代物となっていた。有り体に言えば……完全に見飽きていたのだ。
彼はこの任務 を甘く見ていた。当初は使命感に燃えていた。辺境の星々を荒らして『狩場』にする、違法な犯罪者達を取り締まる大事な役目だと思っていた。しかし彼が派遣されたこの星では『狩人』達は既に検挙された後で、彼はただ事後処理と監視任務を命じられたのであった。
他にも辺境の星は無数にある。彼も犯罪者達を直接検挙する査察業務に加わりたかった。何度も配置換えを訴えたが、本部からは無情にも『監視を継続せよ』という指令が繰り返されるばかりであった。
有事 に備えて最低でも一人は現地に待機し、見張っていなければならないというのは理屈では解る。だがそれが自分に降りかかるとは思っていなかった。こんなはずではなかった。
こんな退屈極まりない監視業務など、任期満了直前の老兵や出世コースから外れた落伍者がやる仕事だ。今頃同期の連中は華々しい査察任務で手柄を立てているのだと思うと、腸が煮えくり返る思いであった。
彼は視覚センサーの感度を上げて、アースの知的種族『人間 』のコミュニティを観察する。人間も母星の周りに原始的な観測装置を飛ばしたりする程度のテクノロジーは有しているようだが、空間歪曲装置 で遮蔽している彼のポッドを探知できるような技術は持っていない。
彼から見ると能天気 に日々の生活を送る人間達……。彼が『狩人』達が来ないように監視しているお陰で自分達の平穏が保たれているのだと気付いてすらいない。
彼の中に鬱屈するやり場のない怒りや苛立ちは、彼をこの場に留めている原因 である人間達にも向けられる。だが彼はそんな自分に気付いて自戒する。人間達は何も知らないのだ。彼等を恨むのはお門違いだ。
そうして彼はもう何百回繰り返したか解らない監視業務を今回も始めた。視覚センサー以外に念覚 センサーも起動し、自身の感覚とリンクさせて探査を開始する。いつもと変わりのない平穏無事な……
「……ッ!?」
彼の念覚センサーが異常な反応を探知した。地表のある一点から放出されている。
(まさか、『狩人』か? いや、だが私に一切察知されずに侵入できるはずが……)
もしかすると退屈にかまけて無意識の内に監視業務がおざなりになり、その隙を突かれたのかも知れない。
彼は焦った。自分が監視していながらむざむざ『狩人』の侵入を許したとあっては、ただでさえ同僚達に後れを取っている彼の経歴に更なる傷が付いてしまう。そんな事になれば出世コースからは完全に脱落だ。
それだけは絶対に避けねばならない。速やかに潜伏地点を特定して検挙するべく、彼は念覚センサーの感度をどんどん上げて探知範囲を狭めていく。
異常なエネルギー反応が感知されたのは、人間社会の中では比較的大きなコミュニティだ。同地の人間達の言語で『ロサンゼルス』と呼ばれている場所である。そこで彼は気付いた。
(『狩人』……ではない!?)
彼が知る、そして辺境管理局のいかなるデータとも合致しない種類のエネルギー反応だ。一体何が起きているのかと、若干の好奇心を刺激された彼がセンサーの感度を更に上昇させる。すると……
――お前の欲する事を為せ!
「……ッ!?」
彼は再び驚愕した。それ は言語の壁を飛び越えた純粋な思念 として、彼の精神を直撃した。
これは……欲望や願望を刺激する思念波だ。コミュニティの人間達に対して無差別に放たれた思念のようであったが、折り悪く念覚センサーの感度を最大にまで上げていた彼の精神はその思念の影響をもろに受けてしまった。
(私の欲する事……。それは……)
彼は母星での戦闘訓練で、奴隷階級であるピール達を虐殺した記憶を思い起こしていた。高い繁殖力と丈夫な肉体や触腕を持つ便利な労働奴隷であるピールだが、数が増えすぎないように定期的に『間引き』が行われる。そしてどうせ間引くならと宙軍や管理局の新兵訓練に利用されていた。
恐怖の叫びを上げて逃げ惑うピール達を一方的に追い回して虐殺する。そうして他の生物を殺す事への耐性を付けさせるのだ。新兵の中にはトラウマとなって悪夢にうなされたりする者も珍しくない。だが彼は……
(……あの感覚をもう一度、いや何度でも味わいたい……)
彼は訓練中、密かに愉悦を感じていたのだ。だがその残虐性は『狩人』達に共通する物だ。管理局に知られれば、彼自身が危険人物として監視対象になってしまう可能性があった。故に彼は自らの記憶に蓋をして、あの愉悦の感覚を忘れてこれまでやってきたのだ。
しかし謎の思念波に毒された彼は自らの秘めた欲望を再び、そして強烈に自覚し、そうした都合の悪い背景を全て脇に追いやった。
(しかしここにはピール共は居ない。いや……)
彼の精神が残虐な喜悦に満たされる。
(……いるじゃないか。格好の獲物 共が、私の『下』にわんさかと……。何十億もいるのだ。多少間引いて も問題あるまい)
むしろ惑星に掛かる環境圧の事を考えたら少し減らした方がいいくらいなのだ。管理局もきっと納得してくれるはずだ。
都合の良い理屈で理論武装した彼は、その言い分が彼等の査察対象である『狩人』達と全く同じであるという事に気付いていなかった。謎の思念波は彼の精神を静かに狂わせ、その矛盾に気付かせる事はなかった。
(ははは……! 訓練。これは訓練なのだ! 退屈な監視業務ばかりでは腕も鈍るというもの。それで増えすぎた現住生物をついでに間引いてやれば、むしろ管理局から評価されて出世できるかも知れんな。楽しみだ。ああ、楽しみだ……!)
そして彼はポッドを『降下』させていく。空間歪曲で遮蔽された彼のポッドは、人間達に一切察知される事無くアースに降り立っていく。着陸目標は、あのエネルギー反応があった『ロサンゼルス』というコミュニティだ。そこには彼を惹き付ける何か がある。そんな予感がするのだ。
ポッドには対『狩人』や、その他敵性種族対応用の武器や兵装が一通り揃っている。彼が人間達を間引く分には何ら不足はない装備だ。
彼は久しく感じていなかった、心に沸き立つ物を感じながら静かにロサンゼルスの上空へと降下していった。
今……天使のいない街 に、暗黒の彼方より狂気の堕天使が舞い降りようとしていた……
その暗黒物質以外には何もないはずの空間に、
しかしあくまで
水も大気も無い空間。そして大気が無いので音もまた発生しない無音の空間。そう。そこは……
その『船』は、宇宙空間に浮かぶ宇宙船であった。青い惑星……地球を『下』に見下ろす位置で静止……否、地球の自転と公転の動きにピッタリと合わせて移動し続けている為に、地球との位置関係が変わらず静止しているように見えた。
その『宇宙船』は、外からは全く継ぎ目の見当たらない完璧な球状の外観をしており、推進器の類いなども一切見当たらなかった。大きさは
地球の科学力では作れない『船』……。では、これは一体何なのであろうか。
****
「…………」
彼の種族による直接の管轄下に置かれていない辺境の惑星だけあって、青々とした大気と海はまだ美しさを保っていた。彼もここに来た当初は美しい星だと思ったものだ。
だがそれも最初の内だけだ。今の彼にとってこの惑星は、母星で飽きる程見上げてきた衛星群と同じ……いや、それ以下のもう見るのもウンザリする代物となっていた。有り体に言えば……完全に見飽きていたのだ。
彼はこの
他にも辺境の星は無数にある。彼も犯罪者達を直接検挙する査察業務に加わりたかった。何度も配置換えを訴えたが、本部からは無情にも『監視を継続せよ』という指令が繰り返されるばかりであった。
こんな退屈極まりない監視業務など、任期満了直前の老兵や出世コースから外れた落伍者がやる仕事だ。今頃同期の連中は華々しい査察任務で手柄を立てているのだと思うと、腸が煮えくり返る思いであった。
彼は視覚センサーの感度を上げて、アースの知的種族『
彼から見ると
彼の中に鬱屈するやり場のない怒りや苛立ちは、彼をこの場に留めている
そうして彼はもう何百回繰り返したか解らない監視業務を今回も始めた。視覚センサー以外に
「……ッ!?」
彼の念覚センサーが異常な反応を探知した。地表のある一点から放出されている。
(まさか、『狩人』か? いや、だが私に一切察知されずに侵入できるはずが……)
もしかすると退屈にかまけて無意識の内に監視業務がおざなりになり、その隙を突かれたのかも知れない。
彼は焦った。自分が監視していながらむざむざ『狩人』の侵入を許したとあっては、ただでさえ同僚達に後れを取っている彼の経歴に更なる傷が付いてしまう。そんな事になれば出世コースからは完全に脱落だ。
それだけは絶対に避けねばならない。速やかに潜伏地点を特定して検挙するべく、彼は念覚センサーの感度をどんどん上げて探知範囲を狭めていく。
異常なエネルギー反応が感知されたのは、人間社会の中では比較的大きなコミュニティだ。同地の人間達の言語で『ロサンゼルス』と呼ばれている場所である。そこで彼は気付いた。
(『狩人』……ではない!?)
彼が知る、そして辺境管理局のいかなるデータとも合致しない種類のエネルギー反応だ。一体何が起きているのかと、若干の好奇心を刺激された彼がセンサーの感度を更に上昇させる。すると……
――お前の欲する事を為せ!
「……ッ!?」
彼は再び驚愕した。
これは……欲望や願望を刺激する思念波だ。コミュニティの人間達に対して無差別に放たれた思念のようであったが、折り悪く念覚センサーの感度を最大にまで上げていた彼の精神はその思念の影響をもろに受けてしまった。
(私の欲する事……。それは……)
彼は母星での戦闘訓練で、奴隷階級であるピール達を虐殺した記憶を思い起こしていた。高い繁殖力と丈夫な肉体や触腕を持つ便利な労働奴隷であるピールだが、数が増えすぎないように定期的に『間引き』が行われる。そしてどうせ間引くならと宙軍や管理局の新兵訓練に利用されていた。
恐怖の叫びを上げて逃げ惑うピール達を一方的に追い回して虐殺する。そうして他の生物を殺す事への耐性を付けさせるのだ。新兵の中にはトラウマとなって悪夢にうなされたりする者も珍しくない。だが彼は……
(……あの感覚をもう一度、いや何度でも味わいたい……)
彼は訓練中、密かに愉悦を感じていたのだ。だがその残虐性は『狩人』達に共通する物だ。管理局に知られれば、彼自身が危険人物として監視対象になってしまう可能性があった。故に彼は自らの記憶に蓋をして、あの愉悦の感覚を忘れてこれまでやってきたのだ。
しかし謎の思念波に毒された彼は自らの秘めた欲望を再び、そして強烈に自覚し、そうした都合の悪い背景を全て脇に追いやった。
(しかしここにはピール共は居ない。いや……)
彼の精神が残虐な喜悦に満たされる。
(……いるじゃないか。格好の
むしろ惑星に掛かる環境圧の事を考えたら少し減らした方がいいくらいなのだ。管理局もきっと納得してくれるはずだ。
都合の良い理屈で理論武装した彼は、その言い分が彼等の査察対象である『狩人』達と全く同じであるという事に気付いていなかった。謎の思念波は彼の精神を静かに狂わせ、その矛盾に気付かせる事はなかった。
(ははは……! 訓練。これは訓練なのだ! 退屈な監視業務ばかりでは腕も鈍るというもの。それで増えすぎた現住生物をついでに間引いてやれば、むしろ管理局から評価されて出世できるかも知れんな。楽しみだ。ああ、楽しみだ……!)
そして彼はポッドを『降下』させていく。空間歪曲で遮蔽された彼のポッドは、人間達に一切察知される事無くアースに降り立っていく。着陸目標は、あのエネルギー反応があった『ロサンゼルス』というコミュニティだ。そこには彼を惹き付ける
ポッドには対『狩人』や、その他敵性種族対応用の武器や兵装が一通り揃っている。彼が人間達を間引く分には何ら不足はない装備だ。
彼は久しく感じていなかった、心に沸き立つ物を感じながら静かにロサンゼルスの上空へと降下していった。
今……