File17:吸血鬼vs半魚人

文字数 2,730文字

 カーミラは焦っていた。既に身体中傷だらけのボロボロだった。一刻も早くこの水の中(・・・)から脱出しなくてはならない。呼吸はその気になれば何時間でも止めていられるが、問題はそんな事ではない。
 上方に見える水面に向かって必死で浮上しようとするカーミラだが……

(く……!)

 凄まじい速度で彼女の前に回り込む巨大な影。『ディープ・ワン』だ。陸上での鈍重な動きが嘘のような流麗かつ高速な挙動でカーミラに接近すると、彼女に反応する暇も与えずにその足を掴んで水の底に引きずり戻す。

 カーミラは刀を突き立てようとするが、そうすると『ディープ・ワン』は即座に離脱してしまう。再び海底洞窟の底に戻されたカーミラは必死に視線を巡らせる。まるでカーミラを嬲るように周囲を泳ぎ回る『ディープ・ワン』の巨体を目で追うのがやっとだ。


(このままじゃ……何とか打開策を見つけないと……!)


 この海底洞窟に引きずり込まれてからは、ずっと一方的な展開が続いていた。毒針も避け切れずに喰らってしまったが、幸いな事に血液に作用する毒である為に吸血鬼の力で抑え込む事が可能であった。だが『ディープ・ワン』は毒針が効かないと解ると戦法を変えてきて、その俊敏な水中挙動によってカーミラに近付いては鉤爪を振るい、彼女が反撃しようとすると即座に離れる。

 要するに今度はカーミラの方がヒット&アウェイによってじわじわと削られているのだ。水中から脱出しようとしても先程のように妨害されてしまう。

 打開策を見出せずに追い詰められていた。このままでは遠からず嬲り殺しにされるだろう。もしこの怪物にダリオの記憶や知識が残っているのであれば、吸血鬼の弱点も知っているはずだ。事実何度か首の後ろや心臓を狙ってくるような気配があった。

 そうなる前に何としても現状を打破しなくてはならない。ローラ達の方もどうなっているか解らないのだ。今頃はジェシカが乱入してくれているとは思うが、彼女だけではどうにも不安があった。あの檻に入れられていた半獣半魚の生物達が気になった。

「……!」

 カーミラは意を決した。現状のままでは勝ち目は無い。ならば危険だが賭けに出るしかない。吸血鬼の弱点を知っている敵相手には非常にリスクが高いが、その分釣れる(・・・)確率も高い。


(ローラ……私に勇気を頂戴!)


 カーミラは再び水面に向かって泳いでいく。すると当然だが『ディープ・ワン』が追い縋ってきて、カーミラを引き戻そうとする。カーミラは奴が近付いてきた瞬間を狙って刀を突き出そうとするが、それは当然相手にも読まれていた。

 軽快な泳ぎで軽々と躱されてしまう。全力で攻撃を繰り出していたカーミラは、躱された拍子に大きく体勢を崩してしまう。急所が……心臓と首の後ろがガラ空きになる。『ディープ・ワン』の目がギラッと光った……ような気がした。

 奴が軌道を変えて真っ直ぐカーミラの方へ突っ込んできた。その凶悪な鉤爪は狙い過たずカーミラの無防備となった胴体へと吸い込まれた! 

(が……あ……!)

 心臓を貫かれた衝撃にカーミラは吐血する。だが呻いている余裕はない。『ディープ・ワン』がもう片方の手を振り上げていた。振り下ろす先は間違いなくカーミラの首筋だろう。その巨大な鉤爪で引き裂かれれば確実に延髄まで届く。

(今……!)

 カーミラは翼が邪魔になるので、水中に引き込まれてから一旦解いていた戦闘形態へと再び変身する。背中から1対の皮膜翼が出現した。翼はまるで意思を持つように『ディープ・ワン』へと絡みつき、その動きを阻害する。

 『ディープ・ワン』は苛立たし気にカーミラの翼をはぎ取ろうとする。その一瞬こそがカーミラの狙っていた瞬間だった。奴の急所は解らない。だが人間を元にした生物である以上、急所もそう変わる所はないはずだ。

 カーミラは握っていた刀を振りかぶり、奴の鱗が薄い部分……喉元に向かって刀を全力で突き入れた!

「……!」

 『ディープ・ワン』の目が大きく見開かれ、カーミラを振り払おうと狂ったように暴れ始める。凄まじい力の奔流にカーミラは振り飛ばされないよう必死で刀の柄にしがみ付いた。

 すると『ディープ・ワン』は多少冷静さを取り戻したのか、刀を突き入れているカーミラの腕を掴んで引き抜こうとしてきた。

(く……!)

 単純な力比べになれば相手に分がある。このまま刀を引き抜かれたらもう二度と反撃の機会は無いだろう。いや、それどころか怒りに燃える『ディープ・ワン』の鉤爪で延髄を砕かれて即死だ。それを防ぐ術はない。

 カーミラは全力で刀を押し込もうとするが、無情にもより強い膂力によって、徐々に刀が引き抜かれようとしていた。


(く……だ、駄目……! 抜けてしまう……!)


 カーミラの瞳が絶望に染まり掛ける。



 その時であった。カーミラは上から……つまり水面から何か強い『力』のようなものを感じ取った。目には見えない……だが確かにその存在を感じさせる不可視のエネルギー。

(これは……何?)

 『ディープ・ワン』もその存在を感じ取ったようで、戸惑ったように動きを止める。そこに水面から分厚い水の層を貫いて、その『力』がある種の『衝撃』となって降り注いだ。

(……ッ!?)

 その『衝撃』は不思議な事に、カーミラには何の痛痒も及ぼさなかった。だが『衝撃』に撃ち抜かれた『ディープ・ワン』は苦悶するようにその身体を震わせる。カーミラの腕を掴んでいた力が緩む。

(ッ!! 今だ……!)

 考える事は後でも出来る。とにかく今はこの降って湧いたチャンスを逃す訳には行かない。カーミラは刀の柄を握り直すと、全力で押し込んだ。

「……!」

 『ディープ・ワン』が狂ったように暴れてくる。だが何故か急にその抵抗が弱まる。

(行……け、ぇぇぇっ!!)

 気合の余り叫んだ口からゴボォッ! と気泡が漏れる。そして刀の先は遂に『ディープ・ワン』の喉元を貫き、首の後ろの部分から勢いよく突き出る。

「……! ……!!」

 人間で言うと延髄などに当たる部分だ。何か重要な器官があったのかも知れない。そこを貫かれた『ディープ・ワン』は傷口から緑色の体液を漏らしながらしばらく苦しみ悶えていたかと思うと、やがてぱったりとその動きを止めた。弛緩した身体は徐々に水面に向かって浮き上がっていく。



 ――ロングビーチのみならず、アメリカ西海岸を恐怖に陥れていた海の悪魔、渚の殺人者『ディープ・ワン』との死闘は、ここに決着を見たのであった。
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