File29:ワラキアの『串刺し公』

文字数 3,516文字

 夢を見ていた。それは悪夢であった。艶やかな黒い髪の美女――ミラーカと話していたら、彼女が急に苦しみ出す。ローラが心配して駆け寄るとミラーカが縦に割れて(・・・・・)、その中から得体の知れない怪物が飛び出してきた。ローラは絶叫した。




「――――はっ!?」

 夢の中で絶叫したのと同時に覚醒した。ローラとしては飛び起きたつもりだったが、どういう訳か身体が動かなかった。自分の体勢もおかしい。今まで眠っていたはずなのに、身体は垂直方向に起き上がっている状態だった。ローラは慌てて現状を確認する。

 手も足も動かない。両手は大きく左右に広げられた状態で固定され、両足はピッタリと閉じた体勢から動かせなかった。


 ……どうやら木製の十字架のような物に(はりつけ)の体勢で固定されているらしかった。両手首と足首を(いまし)めるのは、十字架から突き出た黒い鉄製の枷だ。更に着ている衣装も、胸と腰に白い布を巻きつけただけの物になっていた。そこまで確認した時点でローラは、意識を失う前までの出来事を思い出した。


(そうだ……! あの、クリスと名乗る男に……!)


 為す術もなく気絶させられて、目覚めた時にはこの状況という訳だ。ローラは辺りを見渡す。窓のない薄暗い空間。それなりの広さがあるようだ。僅かな電球と蝋燭の明かりだけが室内を頼りなく照らしている。壁面には既に使われなくなって久しい納骨棚が並んでいた。


(納骨堂か何かかしら? 随分古い作りだけど……)


 奇妙なのは豪華な家具や調度品と思しき物が見受けられる事だ。本来納骨堂には置かれていない物だ。つまりこの場所は――



「どうかね、今の我が住まいは? 気に入ってくれたかな?」



 聞き覚えのない男の声。ローラはハッと身を竦ませた。つい先程室内を見渡した時は、間違いなく誰もいなかったはずだ。一体いつそこに現れたのか―― 

 いつの間にかローラのすぐ側に1人の男性が佇んでいた。パッと見は40前後の壮年の男性だ。黒っぽい髪に東欧風の顔立ち。そして妙に時代がかった中世風の衣装……。ローラの脳裏にはすぐにこの男の正体が浮かんだ。


「ま、まさか、あなたが……」

「カーミラから聞いたようだな。そうだ。私がヴラド3世だ。ドラキュラという異名も気に入ってはいるがね」

(この男が……!)


 かつてのワラキアの公王。有名小説のモデルにもなった吸血鬼の真祖。ミラーカを吸血鬼へと変えた元主人。「串刺し公」の異名を持ち、ワラキアを恐怖に陥れ、ミラーカに裏切られて封印された暴君。 


 ヴラド・ドラキュラその人――


「な、何故私を……私をどうするつもりなの?」


 ヴラドが醸し出す異様な迫力と雰囲気に圧倒されて、ローラの声は小さく震える。無防備な磔の体勢で拘束されている事も、彼女の気勢を弱めていた。ヴラドがそんな彼女を嗤う。


「君がカーミラと懇意(・・)だと聞いてね。こそこそと逃げ隠れされるのも、いい加減面倒になって来ていたのでね。君を餌に誘き出そうという訳だ。古典的な手段だろう? だが古典的という事は……それだけ効果がある、という事だ」

「……ッ!」
 ヴラドはローラの顎に手を掛けて上を向かせる。ローラは精一杯の虚勢を張る。


「だから私を誘拐したと? 私は刑事よ!? 仲間の警察が黙っていないわ。こんな事してあなたも只じゃ済まないわよ!?」

「くくく、威勢がいいな。別に警察など何人来ようが構わん。奴等に私は殺せん。来た奴を片端から殺してグールに変えてやるだけだ。そうなれば警察も本腰を入れるかも知れんな。この街を舞台にした大規模テロの発生という訳だ。もし警察に止められなければ軍隊まで出てくるやもな。『鎮圧』までにどれ程の人間が死ぬ事になるか私と賭けでもしてみるかね?」

(く、狂ってる……!)


 そう思いながらも、恐らくヴラドの言う事は現実になると悟って、ローラは戦慄する。


「理解したかね? カーミラの粛清さえ為れば、私はこの街から離れ欧州へと戻る。この街の人間達が大事なら余計な気を回さずに、『餌』としての役割を全うしたまえ」

「く……」


 ローラは唇を噛み締める。ミラーカが来ればミラーカが死ぬ。警察が来れば同僚や街の人達が大勢死ぬ。ローラにはどちらも犠牲になって欲しくはなかった。八方塞がりだ。


(私が……私のせいだ……。私がミラーカと関わった事で、ミラーカの『弱点』になってしまったんだ……) 


 その事実が重く圧し掛かる。警告されていたにも関わらず、むざむざ捕まってしまったローラを助ける為にミラーカが死ぬ……。そんな事になったら、到底精神的に耐えられそうになかった。

 不思議な事にローラの頭には、ミラーカが自分を見捨てて雲隠れするかも知れない、という考えが一切浮かばなかった。彼女は……ミラーカは絶対に自分を助けに来てくれる、という確信にも似た予感があった。


「くくく……もうじきだ。カーミラを粛清したら欧州に戻り、再びワラキアを復活させるのだ。闇と恐怖が支配する我らがワラキアをな」


 熱に浮かされたように語るヴラドの様子にローラは絶句する。


「ほ、本気で言ってるの? ワラキアという国はもう無いのよ? まずルーマニア政府が黙ってないし、今は国際化の時代よ。ヨーロッパだけじゃなく、このアメリカを含めた世界中の国から弾劾されるわよ!?」

「くく、君は誤解しているようだが、私の頭には既にこの時代の知識や世界情勢が詰まっていてね。そのような直接的な武力行使はあくまで最後の手段(・・・・・)だ。我々は確かに人間を遥かに超える強さを持っている。だがそれだけが我々の能力ではない、という事を君は身を以って体感しているはずだ。そう、何と言ったかな……君の相棒だった男の件でね」

「……!!」


 トミーはヴラドの……正確にはその愛妾であるシルヴィアの力で吸血鬼へと変貌していた。


「思い出してみたまえ。彼はどんな風に変わっていたかね? 肉体的には勿論だが、精神的にはどうだった?」

「それは……」


 トミーは人間の心を残しながらも、完全にシルヴィアに忠誠を誓う邪悪な吸血鬼へと変わっていた。そう……シルヴィアの下僕(・・)と化していたのだ。そこまで考えた時、おぞましい結論に思い至った。


「ま、まさか、あなた達は……」

「そのまさかだ。例えば大統領を含めた今のルーマニア政府の高官を、人知れず全員吸血鬼に変えてやったらどうなると思う? 私も今は時代が違う事は解っている。単純な武力行使など必要ないのだよ」

「……ッ!」

「カーミラはあくまで例外だ。あの田舎のシスターのような存在は、もうこの現代にはおるまい。吸血鬼化した者達は皆、私の忠実なる下僕と化す。グールと違って吸血鬼化させるには本人の同意が必要だが……不老不死の誘惑に勝てる者はそう多くあるまい。ましてや高い権力や財力を持つ者ほど顕著であろうな」 

「…………」


 聞けば聞く程、ローラの中で危機感が募ってくる。例え正面からでも軍隊を導入しないと倒せないような怪物に裏で暗躍された日には、人間には為す術もないだろう。いや、その軍隊だって将軍達や国防長官などをやはり裏から吸血鬼化されたら? 最悪、一気に無力化されてしまう。


「諸外国が煩いなら、そいつらも吸血鬼にしてやるまでだ。シルヴィアが君の相棒を変えたように、一度下僕を作ってしまえば後はその下僕達に任せるだけで良いからな。私が吸血鬼化させた下僕達を世界中にばら撒いてやるのも面白いな」


 それは最悪のシナリオだ。そんな事になったらルーマニアどころではない。冗談抜きに世界がこの男に支配される。この男はやろうと思えば、その悪魔の計画を今すぐにでも実行できるのだ。

 それをしていない理由はただ一つ……。ミラーカ――カーミラへの復讐に拘っているから。復讐が為った暁には、最早この男を止められるものは何もない。ミラーカの存在がそれに歯止めを掛けているのだ。


(ミラーカ……あなたが死ねばこの街は救われる? 冗談じゃないわ! あなたが死んだ時こそが、この街どころか世界の危機の始まりじゃないの! あなたは……あなたは絶対に死んではいけないのよ、ミラーカ!)


 ローラは死地に飛び込んでくるであろう黒髪の美女の顔を思い浮かべながら、懸命に彼女の無事を祈った。今のローラに出来る事はもうそれだけであった。
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