Prologue:飽くなき欲望

文字数 5,162文字

 カリフォルニア州議会議員であるマイケル・ジョフレイは、街の郊外にある今は使われていない廃工場の跡地に車を停めた。

 時刻はそろそろ夜に差し掛かろうかという黄昏時。帰宅ラッシュの通りからも外れたこの地域は、この時間になると通りかかる者も殆どいない無人地帯となり、寂れた工場の風景と相まって、何とも物寂しく無機質な印象を与えた。


「……本当にこんな所に、その……『マスター』がいるのかね、ミッチェル君?」


 マイケルは助手席に座る同乗者(・・・)に、疑念の滲んだ確認をする。同乗者は若い、20歳くらいの白人男性であった。まだ学生のようにも見える。その事が、マイケルが今一つこの話を信じきれない要因ともなっていた。

「ええ、こちらで間違いありません。行きましょうか」

 若者――パトリック・R・ミッチェルと名乗った――はそう言って車を降りる。マイケルにはどうしてもこれが大学生グループのたちの悪い悪戯なのではないか、という疑念が捨てきれなかった。

 商工会の友人からの紹介を受けて来たのがこの若者だったので、間違いないとは思うのだが……

「『マスター』という割りに、こんな寂れた廃工場を拠点にしているのかい? もっと豪邸にでも住んでいるのかと思ったよ。それともどこかのバーとかね、ははは」

 自身の不安を紛らわせるかのように、やや引き攣った笑顔で下手なジョークを打つマイケル。パトリックは可笑しくもないジョークにも鼻白む事無くニッコリと微笑んだ。

「すぐにお分かりになりますよ。それにここはあくまで仮の拠点です。じきにマスターに相応しい場所が自ずとやって来るでしょう」

 歩きながら話していた2人はすぐに廃工場の入り口に着いた。

「さあ、こちらです」

 パトリックが工場の勝手口を開けると、中に入ってマイケルを手招きした。誘われて中に足を踏み入れたマイケルは直後に目を瞠って息を呑む事になる。


 まず目に付いたのは大勢の人間(・・・・・)だ。3、40人くらいはいるだろうか。これ程の人数がいながら外からは全く気配を感じなかった。その理由もすぐに解った。

 全員がひざまづいて、一言も喋らずに同じ方向に向かって(かしず)いているのだった。雑然としていたはずの廃工場の内部は綺麗に片付けられており、彼等が傅いているのはそうやって整理されて出来た大きな広場のようなスペースだった。

 工場の内部にはいくつもの蝋燭が焚かれて、屋内を妖しく照らし出していた。廃工場で電気が来ていないので当然なのだが、マイケルにはそれらの原始的な照明がこの妖しい雰囲気をより高めている気がした。


 パトリックは傅いている人々の間を縫うようにしてどんどん先へ進んでいく。呆気に取られて付いてこないマイケルを不思議そうに振り返る。

「ジョフレイさん?」

「あ、ああ……その……彼等は?」

「気にする必要はありません。皆マスターの忠実なる〈信徒〉達です」

「…………」

 気にするなと言われた以上、詮索するのも気が引ける。おっかなびっくりという感じでパトリックの後に続いて〈信徒〉達の間に割り入っていく。すると傅いている人々の中に見知った姿があるのに気付いた。

「……エディ? エディじゃないか!」

 それはマイケルにこの『マスター』の事を教えてくれた友人のエディ・ホーソンであった。1年前の『サッカー』事件で息子を亡くし、それ以来やや情緒不安定であったが、まさかこのような怪しげな宗教に嵌ってしまっていたとは……

 だがその怪しげな宗教に頼るしかない自分も人の事を言えた義理では無かったが。

 エディはマイケルに声を掛けられても反応を返さず、一心に前に向かって傅いて何かを祈っている。その姿に若干不気味な物を感じつつ、マイケルは〈信徒〉の群れを抜けた。


「マスター、ジョフレイ氏をお連れしました」


 そして信徒達を抜けた先、一段高くなった台座の上に豪奢な椅子が置かれ、そこに1人の人物が腰掛けていた。パトリックはその人物に向かって恭しく膝を着く。

「ご苦労、我が従者よ」

 その人物が答えた。どうやらこの人物が『マスター』で間違いないようだ。その両脇にはパトリックと同じ年代の3人の男性が、やはり片膝を着いた姿勢で控えていた。

 パトリックとこの3人は他の〈信徒〉達とは立場が違うようだ。幹部的な存在なのだろうか。それにしてはパトリックを含めて、全員大学生くらいの若さなのが気になったが。


 そして件の『マスター』である。

「……!」
 マイケルは再度目を瞠る。

 堀の深い顔立ちに黒髪黒瞳。エジプトなど北アフリカ人の特徴だが、同性のマイケルの目から見てもゾクッとするような色気のある、恐ろしく整ったエキゾチックな顔立ちだったのだ。

 年齢はぱっと見、20代後半から30代前半位だ。神秘性を演出する為だろうか、妙に時代がかった白っぽいローブのような衣装を身に纏っていた。『マスター』が口を開いた。


「では『依頼』を聞こうか」


 依頼……。その単語にマイケルは改めて自分がしようとしている事の重大さを意識して、胸が締め付けられるような緊張を味わった。口が渇く。本当に口にしてしまっていいものだろうか、躊躇いが頭をもたげる。

「案ずる事は無い。お主の葛藤は理解できる。そして……それはお主が初めての事ではない。そこで傅いている者達……その者らの大半(・・)も、お主と同じ葛藤を抱いておった」

「……!」

 マイケルは思わず〈信徒〉達の方を振り返った。よく見るとエディだけでなく、他にも見知った顔があるのが解った。市議会の議員もいれば、教育委員会の理事、商工会の会員、大企業の株主や役員、更に警察関係者の姿まであった。いずれもこのLAに於いて有力者と言って良い人物達だ。

 マイケルはこの時点でようやく、これが盛大なプランクなどではないという確信を得た。いくら何でも自分を陥れる為だけに、これだけの人間を集めるなどあり得ない事だ。


 マイケルの喉がゴクッと鳴った。震える手で懐から一枚の写真を取り出す。

「この……この男を……『解放』して、頂きたいのです……」

 『解放』……。この場においてはその表現(・・)を使うようにと、事前にパトリックから教えられていた。『マスター』は写真を受け取った。

「ふむ……この男の立場と、『解放』したい理由を述べよ」

「はい……。この男……ヴィンセントは私と同じ州議ですが、来年のアメリカ上院議員選出の対抗馬でもあるのです」

 対抗馬とは言ったが、実際にはヴィンセントが選出されるだろうという事はほぼ確実と言われていた。つい半年程前まではマイケルの他に有力な候補はいなかった。その為上院への選出は確定だと思われ、既にそれを見越して様々な取引や契約を結んでしまっていた。地元の後援会へのキックバックも必要だ。

 ここで落選したら全て水の泡どころか、マイケルの信用は完全に失墜した上で、違約金による多額の借金だけが残る羽目になる。有り体に言って人生の破滅だ。

「この男さえいなければ、私が選出されるんです! そうなれば後は全て上手く行きます。上院議員になれたら相応の見返りをお約束致します。どうか……何卒、ヴィンセントの『解放』を……!」

 語っている内に危機感が募ってきたマイケルは、気が付けば縋るような口調になっていた。

「アメリカ上院……つまりはこの国の中枢(・・)という訳か……」

 『マスター』は顎に手を当てて何かを考えている風だったが、やがてマイケルの方を向いた。

「良かろう。気に入ったぞ、ジョフレイよ。お主の『依頼』、しかと聞き届けた。数日中にこのヴィンセントなる男は『解放』される事になるだろう」

「……! おお……か、感謝致します! それで……その、費用(・・)の方は如何ほどで……?」

 一転して恐る恐るという感じに問い掛けるマイケルに、『マスター』はやや苦笑したような雰囲気になる。

「『解放』そのものでは金は取らぬ。その代わり……先程お主自身が言った約束、忘れるでないぞ?」

「は……それは勿論。成功(・・)の暁には必ずや……」



****



 マイケルが1人、廃工場を後にして車で帰っていく。それを見送って戻ってきたパトリックがメネス(・・・)の前にひざまずく。


「マスター。あの男、小賢しくもこちらを手玉に取る気のようです。恐らく無事に上院議員になった暁には知らぬ存ぜぬで通し、挙句に得た権力を用いてこちらの口封じでもする心積もりでしょう」


 そもそも成功、と条件を付けている所からも、当たれば儲け物程度に考えている事が解る。だがそれは当然の事だろう。いくら友人の紹介とは言え得体の知れぬ輩に、悩みを解決しますなどと言われた所で信用しろという方が無理な話だ。

 だがその評価はすぐに覆る事になる。その時(・・・)になってマイケルが今日の決断を後悔したとしても、もう手遅れだ。

「ふ……構わん。好きに泳がせておけ。どの道定命の者が余を害する事など不可能。その時こそ奴は真に絶望し、余に服従する事となる。精々この国を内側から乗っ取る為の手駒とさせて貰おう」

 メネスは不敵に嗤う。

「そう言えば、あの女……ミラーカ(・・・・)の件はどうなっておる? 何か掴めたか?」

 メネスの問いに4人の内、眼鏡を掛けた気弱そうな外見の従者が進み出て膝を折る。

「申し訳ありません、マスター。何分神出鬼没のようで、中々尻尾を掴ませません。現在インターネットの方も活用して情報を集めております。今しばらくお待ちを」

「ふむ……ダンカンの記憶によるとこのミラーカという女、人間離れした身体能力の持ち主であったそうな。或いはこの女も定命の者ではないやも知れぬ。ますます余の()に相応しいという物。調査の方は引き続き継続するとして、別口(・・)も当たってみる必要がありそうだな」

 メネスが従者の1人に視線を向ける。ヒスパニック系の外見の従者だった。

「ミラーカが助け守ったという女……ローラという名だそうだが、この女の事を調べるのだ」

「その女も妃に?」

「いや……それも悪くはないが、当面の役割はミラーカを釣り出す為の餌だな。居場所が解らんのなら、向こうから出てきて貰えば良いのだ」

「畏まりました。すぐに調査を開始します」

「うむ。それにこのローラという女……お前達が追っている女(・・・・・・・・・・)とも友人だそうだぞ? そちらの情報も得られるやもな」

「……!」


 ――瞬間、室内の温度が数度下がったような感覚があった。ヒスパニックの従者だけでなく、眼鏡の従者も、パトリックも、そしてジェイソンも……一様に目をギラつかせて剣呑な雰囲気となる。


 メネスは満足そうにその様子を見やる。

「ふ……〈信徒〉も大分増えてきた。ミラーカの事もそうだが、そろそろ本格的な行動(・・・・・・)を開始する頃合いだな」

 椅子から立ち上がり壁際まで歩いてきたメネスは、工場の窓から覗く夜空に輝く月を見上げる。

「ナルメルよ……冥界の底でアヌビスの抱擁を受けながら眺めているがいい。余は今度こそ全てを手に入れてみせよう。富も、権力も、そして美姫も……。この世の全ては余の物だ……!」

 メネスは暗い情念に双眸を燃え立たせ、まるでその手の中に全てを収めようとばかりに、天に向かって伸ばした手を握りしめた。



****



 数日後、カリフォルニア州議会の議員であり、アメリカ次期上院議員の有力な候補であったヴィンセント・ヴァンサントが、移動中のハイヤーの中で運転手と同乗していた秘書と共に謎の急死を遂げた。

 3人とも身体中の水分が完全に無くなった、干からびたミイラの如き有様となっていた。

 折しもここ半年から数か月の間に、同じように干からびた状態で変死する人間が相次いでおり、ここに至って警察は完全に事件(・・)として捜査に乗り出す事を決定した。

 これまでの被害者(・・・)、そして今回のヴィンセント達3人の死体の周囲にはいずれも多量の砂が撒き散らされており、それが滅茶苦茶に荒れ狂ったような不可解な形跡がある事から、この謎の『殺人者』は、砂塵を意味する単語に因んで、マスコミによって『バイツァダスト』と命名された。


 ロサンゼルスの街だけでなく、ローラと、そしてミラーカに新たな試練が訪れようとしていた……
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