Interlude:無限

文字数 5,061文字

 東京にある主に自動車や家電製品の部品を扱う貿易会社の社長である高峰敏宏は、趣味である日本百名山を巡るハイキングの一環として青森県の八甲田山に来ていた。

 趣味のハイキングとはいえ、かなり本格的に取り組んできた事もあって、これまでにいくつもの山々を踏破していた。

 今回は前々から行きたいと思っていた八甲田山を行き先に選んでいた。実は今回はその手前の岩手山にする予定だったのだが、直前になって急に思い立ってこの八甲田山に変更したのだ。

 理由は自分でもはっきり解らない。一種の直感とでも言うのか。八甲田山に何かがある。特に根拠もなく何となくそんなふうに感じたのだ。

 いずれにせよ元々行くつもりだった山だ。気分が乗ってる時が行き時だ。高峰はそう考えて八甲田山を行き先に選択した。

 そして半日後にはその選択を大いに後悔していた。


「くそ……まさか私が遭難(・・)とは……! どこかに気の緩みがあったのか……」

 高峰は呻いた。そう……彼は現在この八甲田山で遭難していた。自衛隊の遭難事故で有名な八甲田山だが、当然現在は登山道も整備されて、観光客もそれなりに訪れる安全なハイキングスポットとなっていた。

 確かに高峰はロープウェイなどを使わず麓からの登山コースを登っていたのだが、それだって整備された道が多く、遭難する事などあり得るはずがなかった。

 ……余程登山道から外れた獣道に勝手に分け入らない限りは。

 自分でもよく分からない。ただ微かに彼を呼ぶ声が聞こえたような気がしたのだ。か細い、それでいて何とも心地の良い声に誘われるように高峰は登山道から外れて歩き出し、気がついたら完全に方角も現在地も分からなくなっていた。

 勿論すぐに携帯を確認したのだが、何故か電波が繋がらずにどこにも掛けられなかった。

「まずい……まずいぞ、このままでは……」

 先述の通り整備されたハイキングスポットであり、元々日帰りのつもりだったので、大した物資を持っている訳でもない。今まで多くの山を歩いた事もあって、いつしか慢心もあったのかも知れない。

 とにかくこのままでは精々1日、運良く沢などを見つけても2、3日が限界だろう。それまでに何としても正規の登山道に出なければならない。家族や会社が大騒ぎになり、マスコミにも悪い意味で取り上げられるだろう事を想像すると憂鬱になるが、まずは自分の命を守るのが最優先だ。

 しかし周囲はもう暗くなりはじめており、このままウロウロするのは危険だ。懐中電灯は持っているが、それだけで夜の獣道は歩けない。仕方なく高峰はその場に蹲って夜を越す準備を始めるが……


「ん……?」

 高峰は辺りを見渡す。またあの微かな声が聞こえた気がしたのだ。再び聞こえてきたという事は気のせいや幻聴などではないかも知れない。だとするとそもそもこの声のせいで遭難したのだ。

 何としても怒りをぶつけたい気持ちになった高峰は、声の聞こえる方向に進んでいく。まだ辛うじて歩けるくらいの明るさはある。何とか滑落しないよう注意しながら歩く事20分ほど。

 声に導かれるように高峰は全く自覚もないまま、今まで誰も発見した事がないルートを進んでいた。そして彼は切り立った崖の根本に入った亀裂のような洞窟を発見していた。

「こんな所に洞窟が……? この中から聞こえるようだ」

 高峰は懐中電灯のスイッチを入れて躊躇う事なく洞窟へと踏み込んでいった。何故か全く恐怖や不安を感じなかった。

 洞窟の入り口は狭かったが、しばらく進むと少し広い空間に出た。そしてその広場の中央辺りには……


「お……おぉ……こ、これは……女性(・・)?」


 広場の中央には……直径が2メートル程、高さが5メートルはあろうかという巨大な氷柱(・・)が屹立していた。

 ありえない現象だ。今の季節は初夏であり、気温は30度前後。勿論高所となればその限りではないが、この八甲田山でも山頂付近に僅かに積雪が残っている程度だ。そしてここは明らかに山頂より高度は低いし、こんな巨大な氷の塊が形を保っていられるような気温ではない。

 そして更にあり得ない光景が高峰の目に入っていた。

 その氷柱の中に、1人の女性(・・・・・)が氷漬けとなって閉じ込められていたのだ。非常に美しい流れるような黒髪を垂らしたその女性は、髪とは対象的な時代がかった真っ白い着物を着ており、死んだように氷の中で眠っている。

 その女性は氷の中で眠っている状態でありながら、まるで人知を超えた存在がそのように作り上げたかの如き、完璧な美を体現していた。少なくとも高峰はTVや映画も含めて、これほど美しい女性を見た事がなかった。


 普通こんな状態の人間を発見したら、誰がどう見ても死んでいると思うのが当然だ。だが何故か高峰にはその女性が生きている(・・・・・)事が解った。

「間違いない……。声はこの女性が発しているんだ」

 高峰はそっと氷柱に手を触れた。氷は心地よい冷たさで高峰を包む。彼はいつしか氷柱に全身で抱きつくように密着していた。

「ああ……聞こえる。聞こえるぞ。そうか……それが()の望みなのか……」

 高峰は氷柱の中から響いてくる『声』に耳を傾けて、うっとりした表情で呟く。彼は夜の帳が降りた暗い洞窟の中で、いつまでも氷柱を抱いたまま微笑み続けていた。



*****



 それから数週間後。高峰は再び八甲田山に来ていた。ただし今度は1人ではない。

「ちょっとパパ(・・)! 本当にここ通っていい道なの?」

 娘の朋美が、正規の登山道から離れた獣道に躊躇いなく分け入っていく父親の姿に眉を顰めて問いかける。今年で19歳になる大学生だ。高峰は娘を振り返った。

「大丈夫だ。前回の遭難(・・)で、既に安全なルートは解っている。お前達(・・・)に見せたい物はその先にあるんだ」

「……前にあんな事があってからまだ二ヶ月も経ってないのに」

 妻の百合恵がため息をつく。今年で40になるが、実年齢より10歳は若く見えると評判の瓜実美人であった。


 高峰は遭難(・・)の翌日には自力で、しかも全く憔悴した様子もなく下山してきて、そこまで大きな騒ぎになる事もなく終わった。しかしその日以来どことなく浮ついた、心ここにあらずの状態となっていて、つい先日妻と娘に対して、実は遭難した時に驚くべき大発見をしたので、他の人には内緒で2人にも見てもらいたいと言って、こうして2度目の八甲田山ハイキングに連れ出したのであった。


 高峰は一切迷う事なくスイスイと獣道を進んで2人を先導していく。そしてあの崖の根本の大きな亀裂の前に到着した。

「ここだ。この中にある」
「……だ、大丈夫なの? 危なくない?」

 朋美が恐々と洞窟を覗き込む。中は光を通さず真っ暗で何も見えない。

「大丈夫だと言ってるだろ。前回来た時に躓きそうな物は全部どかしてある。私が先導するからお前達は後ろから付いてくれば安全だ」

 それだけ言うと高峰は妻と娘の返事を待たずに懐中電灯を手に、さっさと洞窟に入っていってしまう。百合恵達は呆気にとられた。

「ちょっと待ってよ、あなた!」

 慌てて高峰の後を追いかけて、2人も洞窟に入っていく。1、2分ほど狭い通路を進むと、唐突に広くなっているスペースに出た。


「さあ、着いたぞ。これが見せたかった物だ」

「……! う、うそ……何コレ……」
「じょ、女性!? 死んでるの……?」

 高峰が誇らしげに指し示す先、いや、示されるまでもなく否が応でも目に入ってきた。


 ――巨大な氷柱の中に眠る、白い着物姿の美しい女性。それはどうしたって目を奪われずにはいられない非現実的な光景で、異質な存在感を放っていた。


 朋美も百合恵も唖然として、その氷柱と中の女性に見入っていた。それ故に気付かなかった。彼女らの後ろで高峰が悪意に歪んだ笑みを浮かべていた事に。

「触ってみたらどうだ? 不思議な事にとても心地が良い冷たさなんだ」

「え、そうなの?」

 父親に言われた事で特に警戒心なく氷柱を触る朋美。そして異変(・・)は直後に起こった。

「え!? な、何これ!? あ、熱い(・・)っ!?」
「と、朋美!? どうしたの!?」

 氷柱を触った朋美が悲鳴を上げて離れようとするが、何故か手が離れないらしい。パニックになる娘の姿に慌てた百合恵が、朋美の身体を引っ張るがやはり氷柱から離せない。

「あぁ! 熱い! 熱いぃぃぃっ!! 助けて、パパ! ママァァッ!!」

「朋美ぃ!! あなた! あなた、朋美を助けてっ!」

 百合恵が半狂乱になって夫に助けを求めるが、高峰は朋美ではなく百合恵の腕を掴んだ。

「何してる。お前も早くこれを触るんだ」

「あ、あなた!? 何を……あぁ!!」

 夫によって強引に氷柱に押し付けられてしまう百合恵。そして彼女も身体を離せなくなった。

「熱い、痛いぃぃっ!! あああぁぁぁぁぁぁっ!!」
「助けて! 助けて、あなたぁぁっ!!」

 激しい苦痛を感じて泣き叫ぶ妻と娘の姿に、しかし高峰は逆にうっとりとした表情を浮かべる。

「ああ、もうすぐだ。喜べ、お前達はもうじき素晴らしい存在と一体になれるんだ」


 そこでさらなる異変が起きた。朋美と百合恵の身体が……まるで氷柱に吸収(・・)されるかのように溶けて萎んでいき、やがて衣服だけを残して完全に消えてしまったのだ。

 目の間で妻と娘が明らかに死んだと思われるのに、高峰はそれを何ら気にした様子もなく食い入るように氷柱を……正確には氷柱の中の女性を見つめていた。

 やがて彼の見ている前で氷柱から蒸気のような物が立ち昇り、氷が溶け始めた(・・・・・)

「おぉ……!!」

 高峰はそれを認めて狂喜したように両手を広げた。やがて彼が見守る中で完全に氷柱が溶けて……中にいた白い着物の女性が、融氷の池の上で目を開けた(・・・・・)

 高峰はその場にひざまずいて手を差し出した。

「あぁ……待っていたよ。ようやく君を自由にしてやれた。これで君の望みを叶える事ができる」

 女性は無言のまま高峰に歩み寄り、そして彼の差し出す手を取った……



*****



 それから数週間後。高峰が社長を務める貿易会社『荒川商事株式会社』に1人の新入社員が入社した。

「今日から私の秘書(・・)を務めてもらう氷室麗華くんだ。青森に住んでいる私の恩師の娘さんでね。社会人経験自体が初めてで分からない事も多いだろうから、君達も色々教えてやってくれ」

 社員を集めての朝礼の場で新人の秘書――麗華を紹介する高峰。白いレディーススーツ姿の麗華は前に進み出て綺麗にお辞儀する。


「氷室麗華です。まだまだ分からない事だらけですが、精一杯頑張りますので宜しくお願いしますね」


「「「……!!」」」

 お辞儀から顔を上げた麗華が、居並ぶ社員達を見渡す。麗華と目が合った男性社員達は老若問わず一様に息を呑んだ。そして皆食い入るように麗華を見つめる。女性社員達はその様子を肌で感じて眉を顰める。


 朝礼を終えて社長室に入る高峰と麗華。ドアを閉めて社員の目が無くなると、高峰はそれまでの社長としての外面をかなぐり捨てて、躊躇せず麗華の足元にひざまずいた。

「君の言う通りにしたけど、これで良かったのかい、イミナ(・・・)? 私の会社に社員として入りたいだなんて……」

「ええ、勿論よ、高峰。よくやってくれたわ」

 麗華は新人の秘書という立場でありながら、雇い主であるはずの高峰にまるで自分が主人であるかのような態度で接する。そして高峰もそれを当然の如く受け止めている。

「あなたの会社は貿易を営んでいる。それも……ロサンゼルス(・・・・・・・)と言ったかしら。かの街との取引が中心。この日の本を覆う忌々しい霊場のせいで、一人ではこの国から出られない私にとっては都合が良いのよ。ロサンゼルスに行く為にはね」

「確かに今は渡航制限で我社のような商用目的でなければ外国には行けないからね。しかし……君が海を隔てた遠いアメリカにそこまで行きたがる理由は何なんだい? LAに何があるんだい?」

 高峰は彼女の望みは知っていても、その理由までは知らなかった。麗華はかぶりを振った。


「私にもはっきりとは分からない。でも解るのよ。そこには私を満たしてくれる誰か(・・)がいると。それを殺して吸収(・・・・・)する事によって、私は今よりも完全無欠の存在となれるの」


「誰か……。つまり人間なんだね。それを殺す必要がある、と。ふふ……良いとも。君が更に完全な存在となれるなら世界中の人間が死んだって構わない。丁度来週にLAで現物を見ながらの商談があるんだ。君も秘書として同行するといい」

「頼むわ、高峰」

 麗華は満足そうに頷いた。


 そして一週間後。高峰と麗華を乗せた飛行機が日本から一路、LAを目指して飛び立っていった……

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