Prologue:人間狩り

文字数 3,257文字

 エレン・マコーミックは日課としている朝のウォーキングに出向いていた。年齢は32歳。夫も子供もいるがまだまだ自分は女盛りだと自負していた。

 実際、8年前までは正に彼女は女として絶頂にあった。高校ではプロムのクイーンに選ばれ、大学でも自由奔放な性生活を存分に楽しんだ。しかし……大学卒業後に入った職場で上司――今の夫に見初められたのが運の尽きだった。

 彼は平凡な容姿で取り立てて仕事が出来る訳でもなく、ただ実家が資産家でその会社の筆頭株主であった事でその地位に就いていた。要するに実家のコネであった。

 だが金は持っていた。そして自分と結婚すればビバリーヒルズに豪邸を建てて、セレブの仲間入りが出来るぞという彼の甘言に惑わされて結婚を承諾してしまったのだ。今にして思えば愚かだった。だが当時は魅力的な選択肢だと思えたのだ。


 それが幻想に過ぎなかったという事は、結婚して1年も立たない内に理解させられた。

 まず夫自身が非常に保守的な考えの持ち主で、女は家に入って家事だけしていればいい、というスタンスであった。そして夫の両親も強権的にエレンを束縛しようとした。自分達の家柄に相応しい「理想的な嫁」に改造しようと躍起になっていた。他にも親戚だの、他の金持ち連中との近所付き合いだのパーティーだの……

 最初こそ全く違う世界に目を奪われたエレンだが、すぐに息が詰まるような感覚を覚え始めた。

 確かに約束通りビバリーヒルズに豪邸は建った。しかしそこは彼女にとっては金の掛かった豪華な牢獄と化した。

 子供が生まれてからはその傾向は増々加速した。最早自分に自由などないのだ、と半ば諦めの境地に達していた時だった。


 暇つぶしに何気なくインターネットをやっている内にたどり着いたアングラなサイト。それは……「女性の為の風俗サービス」のサイトであった。そこで一番人気だという黒髪の女の写真を見た時、エレンは背筋に電流が走るような錯覚を覚えた。

 自分にはゲイの気質はないと思っていたのに、どうしても「彼女」のサービスを受けてみたくなった。鬱屈した生活に、いつもとは違う刺激を求めていたのだろう。

 夫の目を盗んでのやり取りにもスリルと背徳感があった。そして実際に登録を済ませたエレンは夫の出張中を見計らって、場末のモーテルで例の女――ミラーカと言うエスコートと待ち合わせの約束を取り付ける事に成功した。

 そこでの刺激は……言葉には言い尽せない物があった。あのような刺激と快楽は冗談抜きに生まれて初めて味わう物であった。彼女は久しぶりに生きている悦びを味わう事が出来たのだ。


 残念なことにそれ以降あのミラーカというエスコートは「長期休業」に入ってしまった為再びあの快楽を味わう事は出来なかったが、それならそれで構わなかった。あの快楽に溺れたら二度と抜け出せなくなるという予感があった。あんな強烈な刺激は一度きりの方が健全に楽しめるという物だろう。

 ただあの経験で活力を取り戻したエレンは、それまで家の周りのコースを歩く程度だったウォーキングを、少し足を伸ばして自然公園にある本格的なコースを歩くようになった。


 ここは比較的穴場と言っても良いコースで、朝のこの時間帯には他に歩いている者も殆どいない、いわば貸し切りに近い状態となる。

 静かな遊歩道に草木が風で揺れる音だけが爽やかに響き渡る。燦々と照らされる日差しは木々の葉に隠れて木漏れ日となって、程良い光量となる。歩道を駆け抜ける風も木々に遮られて緩やかに吹き付ける。

 この灼熱の日差しが降り注ぐ乾いた街にあって、自然でこのような爽やかな気分に浸れる環境などそうそうないだろう。貸し切りに近い状態な事もあって、ここにいる間は彼女は全てのしがらみを忘れて自由になる事が出来た。


 そんな何とはなしの全能感に浸りながら歩いていた時の事、ガサガサという音と共にエレンの視界の端で森の木が不自然に蠢いたように見えた。

(!? え……な、何……?)

 咄嗟に歩くのを中断して木が揺れたと思われる方に視線を向ける。風で揺れたにしては不自然な音と揺れ方に見えた。それに一部の草木だけが揺れるなんておかしい。

(まさか……誰かいる!?)

 ゾッとした。他の散歩者ならあんな所に隠れている理由が無い。急な便意でも催した? それならもっと人目に付かない場所まで行く筈だ。

 最近街を騒がせていた連続殺人鬼『サッカー』の被害も収束し、街は元通りの平穏を取り戻したのだと錯覚していたが、そもそもこのロサンゼルスは日々様々な犯罪の起きる街である。真の意味での「平穏」などあり得ない。

 勿論その事は頭では解っていたが、まさか自分の身に犯罪が降りかかる事などあり得ないと、根拠もなく高を括っていた。自分は今その代償を支払っていると言うのだろうか?


 ――グルルルゥゥゥ……


 そんな考えに戦慄したエレンが思わず後ずさるとその繁みの中から……獣の唸り声がした。今のは人間には出せない声だ。

 そこでエレンはもう一つの可能性に思い至った。

(く、熊? それかコヨーテか何かかしら……?)

 どちらもこの公園に出没するなどという話は聞いた覚えがない。それに今の唸り声は熊やコヨーテと言うよりは……

 そこまで考えた時、ガサッ! と繁みが大きく揺れ動く音と共に、それが立ち上がった(・・・・・・)


「…………え?」


 エレンは自分の目を疑った。繁みから現れたものは、彼女の全く想定していない「モノ」であった。その猛り狂った眼光に射竦められたエレンは正に蛇に睨まれた蛙状態になった。非現実的な光景に思考が追い付かない。何も考えられない。

 「ソレ」が口を開いた。鼻面の長い口の中には凶悪そうな牙が生え並んでいた。長い舌から涎がしたたり落ちる。「ソレ」は明らかにエレンを獲物(・・)として見ていた。

「ひっ!?」

 それは生存本能の為せる業だったのか、奇跡的に腰が抜ける事無く身を翻したエレンは、「ソレ」から遠ざかるように走り出しながら金切り声を上げようとした。だがそれはほんの僅かに寿命が延びたに過ぎなかった。

 彼女が大きく息を吸い込み最初の一声を発するよりも早く、「ソレ」は後ろからエレンの肩口にかぶり付いた。エレンから「ソレ」までは少なくとも10ヤード以上は離れていたはずなのに、彼女には声を上げる間すら無かったのだ。

 一瞬にして噛み砕かれる自らの肉体を認識する前に、想像を絶するような痛みが彼女を支配していた。それと同時に急速に意識が遠のいていく。

 走馬灯のように流れる彼女の今までの記憶。そして最後に彼女が思い浮かべたのは夫や子供ではなく、自分の両親でもなく、何故か先日モーテルで一夜を共にした黒髪の美女ミラーカの顔であった。


 首を噛みちぎられ転がり落ちるエレンの頭。最早何も見えていないその目はガラスのように、ただ「ソレ」によって喰われていく己の身体を無機質に写し続けているのみだった…………





 後にこの公園を愛犬と共に散歩していた男性が、何かを嗅ぎ付けた愛犬に引っ張られるまま遊歩道から外れた森の中で、原型を留めない程に食い散らかされた女性の「残骸」を発見する。

 折しも行方不明になった街娼が路地裏などで同じような「残骸」となって発見される事態が相次いでおり、警察は単なる獣害ではなく何らかの方法による殺人事件と断定。

 その独特の殺害方法から、犯人はマスコミによって『ルーガルー』と命名される。身元の確認されたエレン・マコーミックは「公式上」では『ルーガルー』の4人目の被害者とされた。

 ロサンゼルスの街は『サッカー』の恐怖から解放された安堵に浸る間もなく、新たな脅威に直面する事になる。そしてそれは勿論街の治安を守る市警察にとっても同様の話であった……
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