Epilogue:渇望するもの

文字数 3,173文字

 彼は深いまどろみの中にいた。どことも知れない空間でゆったりとした水の中に揺蕩(たゆた)っているような……不可思議な感覚だった。何故か非常に心地良いと感じた。これは、そう……まるで母親の胎内にいるかのような、そんな奇妙な安心感があった。

 だがその心地良い時は唐突に終わりを告げた。彼が揺蕩っていた「水」の中に突然緑色の「何か」が侵食してきたのだ。彼は本能的に察した。これは良くない「モノ」だと。だが揺蕩っているだけの彼にはどうする事も出来なかった。

 やがて彼の予想した通りに、その緑色の「何か」は彼に想像を絶するような苦痛を与えてきた。「何か」が彼の内に侵食してくる。彼を作り変えて(・・・・・)いく。いっそ意識を失ってしまいたかったが、無情にも彼の意識はその侵食を認識し続けていた。彼の肉体、そして意識までが侵食されていく。

 それは途轍もない恐怖だった。自分の記憶が、自我が徐々に曖昧になっていく! それを解っていながらどうする事も出来ない恐怖。

 嫌だ!
 嫌だっ!!
 助けてくれっ!

 だが彼の叫びを聞き届ける者は誰もいない。やがて「何か」が完全に彼の中に浸透した時、彼は目覚めた(・・・・)


 そこから先は良く覚えていない。ただ苦痛だけに支配されていた。そして本能的に苦痛から逃れるにはどうしたらよいかを察し、その本能に従って動き続けた。

 異常に腹が空いていたので、その途中で何か食ったような気がするが、それも良く覚えていなかった。


 そして気が付くと彼は再び安寧に包まれていた。彼の周囲を取り巻くのは……水。潮の匂いと味。これは海の水だ。そこでようやく彼は自分が海の中にいる事を知った。だがその事に対する疑問は何も浮かばなかった。

 ここは……海の中は、彼が最初(・・)に揺蕩っていた「水」の中と非常に似ていて、彼に心地良い安心感を(もたら)していた。ここ(・・)が自分の居場所なのだと本能に根差した部分で確信していた。


 しばらくは自分の居場所の中を自由に泳ぎ回った。身体が軽い。こんなに軽快で爽快な気分になったのは久しぶりだ。と、そこまで考えて、久しぶりとはいつ(・・)からの事だろう? と、ふと疑問に思った。

 そう思った瞬間、彼の頭の中をいくつかの光景がフラッシュバックした。見覚えのない……それでいて奇妙に懐かしいと感じる光景、そして誰かの顔……。それらは彼に名状しがたい郷愁を喚起させた。

 彼は自分のそんな感覚に戸惑った。自分の居場所はここにあると言うのに、一体どこへ行きたいと言うのだろう。彼は頭を振ってこの奇妙な感覚を忘れようとした。


 そんな風に難しい事を考えていたからだろうか、彼は再び「飢え」を自覚した。前に何か食った時からどれくらいの時間が経過したかもよく解らないが、とにかく腹が空いて仕方なかった。何か食べる物はないかと周囲を見渡すと、魚が沢山泳いでいるのが目に入った。海底には植物も生えているようだ。これらを食べようとした彼は、しかし何故か余り食指が動かない事に気付いた。

 食べれない事は無いが、出来れば余り食べたくない……そんな感覚だった。では自分は何を食べたいのだろうか。そう考えた時再び先程の光景が脳裏に浮かび上がってきた。それとここに来るまでの間に無我夢中で食べた「何か」の味……

 彼は自分の望みを自覚した。欲しい……。「アレ」をもう一度食べたい。いや、一度と言わず何度でも食べてみたかった。彼の居場所はここだが、皮肉にも彼の欲しい「モノ」はここには無かった。ならばまた「外」へ出るしかないだろう。「外」は余り好きではなかったが、食べたい物を食べるには贅沢は言っていられない。

 彼は海面の近くまで浮上してみた。上からは光が降り注いでいる。と、何か巨大な塊が彼の頭上を横切って行った。彼は今のを知っていた。あれは「船」というもので上に大勢の「食べ物」を乗せている。あれに飛び乗って「食べ物」を掻っ攫う? いや、大きいし動きが速いので少々面倒だ。それよりはあっちがいい。

 彼は「食べ物」の匂いに引かれるまま泳いだ。やがて不自然に整備された一画に到着した。そこは「港」と呼ばれる場所だった。奥の方では色んな船が出入りしているが、外れの方に来ると船も無く静かなものだった。

 そこで彼は突き出た石で出来た通路の先に、1人の人間が佇んでいる事に気付いた。何か棒状の物を持って海面に糸を垂らしている。これは……釣り(・・)だ。彼は何故かすぐに解った。その知識があった。


 水面の向こう側に「ソレ」……人間の姿を視認した彼は何も考えられなくなった。思い出したのだ。ここに来る途中で食べた物も人間であった事を。

 彼は一気に水面から飛び出す。釣りをしていた人間の顔が驚愕に歪む暇もあればこそ、彼はその人間の足を引っ掴み海の中へと引きずりこんだ。一瞬の出来事であった。後にはクーラーボックス等の釣り道具一式だけがその場に残されていた。




 存分に食欲を満たした彼は、いつの間にか海面の上の……空が暗くなっていた事に気付く。夜になっていた。そこで彼は何か異様な感覚を感じ取った。これは、この感覚は「外」……つまり陸の上だ。それも海からそう遠くない場所だ。

 自らの感覚に誘われるまま彼は陸に上がった。幸いというか今は夜であり人間は他におらず、陸に上がった彼の姿を見た者はいなかった。彼は歩き続けた。異様な感覚はどんどん強くなっていた。

 そう歩く事もなく、彼は古びた金属が山と積まれた場所に行き着いていた。ここだ。ここからあの感覚が漂ってくる。彼がそう思った瞬間、凄まじい轟音と共に何かが金属の山に叩き付けられる音が響いた。それに混じって聞こえる……獣の唸り声。彼は直感した。今の唸り声がこの感覚の正体だ。ここで何かが戦っているようだ。彼は金属の山に身を隠しながら、そっとその戦いの様子を覗き見た。

 そこで彼は巨大な……それこそ彼に比肩するくらいの体格の直立したオオカミの化け物が、それよりは大分小さい、こちらは人間の面影をやや残したオオカミの少女を追い詰めている場面を見る事になった。

 そこに飛び掛かる白い翼を生やした黒髪の女……。彼はその女の姿に見覚えがあった。頭の奥の方が痛む。そして彼はその女の更に後ろにもう1人別の女がいる事に気付いた。


 金髪の女……。


「……!」


 彼はあの女を知っている。確実に知っている。彼はその女の事が……。そこまで考えた時更に頭が痛んだ。


「リチャードォォォッ!!」


 白い翼の女が叫びながら持っている武器をオオカミの化け物に振るう。彼はそのオオカミの化け物にも見覚えがあった。彼を傷つけた奴だ。その事だけは憶えていた。アイツは「敵」だ。

 怒りと憎しみに支配された彼は手を上げて、爪の先をオオカミの化け物に向ける。何をすればいいかは本能が知っていた。爪の先から非常に細い針のような物が射出された。

 それは凄まじいスピードで飛んでいき、白い翼の女を叩き落そうとしていたオオカミ男の腕に突き刺さった。オオカミ男がビクンッと震えて硬直する。あの針は即効性の毒針なのだ。

 オオカミ男の動きが止まった隙に、白い翼の女が武器を振り抜いて奴の首を切断した。オオカミ男が動き出す事は二度と無かった。決着が着いたらしい。


 その事を悟ると彼は再び金髪の女を凝視した。悲し気に俯くその女の顔は、彼に食欲とは別の感情を喚起させるものだった。彼は物陰に隠れたまま飽きる事なく、涙に暮れるその女の姿をいつまでも見続けているのであった…………



Case3に続く…… 
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