File26:目覚め

文字数 4,625文字

 誰かが自分を呼んでいる気がする……。

 カーミラは深い微睡(まどろ)みの中でそれを感じていた。その声は彼女にとってとてもなじみ深い物で、いつまでもこの微睡みに浸っていたい気持ちを殺してでも目覚めなければと彼女は思った。


 カーミラはゆっくりと目を開けた。そこは……


「あっ! ミラーカ、起きたのね? 全く……いくら静養の為だからって昼の間中寝てるなんて、本当にグータラなんだから。お貴族様って皆そんな感じなの?」

 元気の良い少女の声。石造りの殺風景な、それでいて心落ち着く内装の部屋。ここは……

 カーミラは視線を巡らせて自分を見下ろしている、黒い修道服(・・・・・)に身を包んだ金髪の少女を見やる。


「……ローラ(・・・)?」


 その姿が目に入ると同時に思い出した。ここはオーストリアの片田舎の小さな修道院。高潔で清らかな乙女がいるという噂を頼りにこの地を訪れ、そして出会ったのがこのシスターの少女だったのだ。

「どうしたの、ミラーカ? 寝ぼけてるの? まあ半日以上も飽きもせずに眠りこけてれば寝ぼけもするわよね……」

「……もう。起き抜けに子犬みたいに騒がないで頂戴。喉が渇いたわ。葡萄酒(ワイン)を持ってきなさい」

 当たり前のように命令しながら、カーミラは気だるげに寝台から身を起こす。するとローラ(・・・)は、目を瞑ってイーッという感じで口角を広げる。

「私はあなたの召使いじゃありませんよーーだ! 働かざる者食うべからず。欲しければ自分で取ってきなさいよ。ほら! 部屋の掃除とベッドを整えたいから、早く起きなさい! もう充分寝たでしょ!」

「わ、分かったわよ、もう……。そんなに急かさないで頂戴」

 ローラに追い立てられるようにして起こされたカーミラは、着替えもそこそこにローブを羽織ったしどけない姿のまま、ワインを注いだ杯を片手に居住棟を出た。石壁に囲まれた敷地内には、他に大きな聖堂があった。聖堂の裏手にはいくつもの墓が立ち並んだ小さな墓地が併設されている。

 カーミラは聖堂には入らず、そのまま敷地を囲う壁の正門まで歩いて行った。


 時刻は間もなく夜の闇が訪れようという夕刻。なだらかな丘陵地帯の丘の上に建つこの修道院からは、周囲の風景が一望できた。人の足や馬車の轍によって踏み固められた道が何条にも伸びており、その周辺には質素な家々がまばらに立ち並んでいる。

 見渡す限りに麦畑、そして果樹園が広がっている。遠くの方では家畜を放牧している牧草地も確認できる。典型的な欧州の田舎の風景であった。

 ワラキアのような大きな都市と異なり、こんな田舎では碌な照明もないので夜は皆早々に家に引きこもる。最も吸血鬼であるカーミラにとっては夜の闇は何ら苦ではなく、むしろ心地良い物でさえあったが。

「…………」

 いつからだろう。この雄大な景色に心洗われると感じるようになったのは。ここに来た当初は、只だだっ広くて何の面白みもない退屈な景色としか感じなかったのだが。

 カーミラは自分の中の変化に戸惑っていた。景色の事だけではない。最近は吸血行為(・・・・)の際にも、妙な胸苦しさを覚えるようになってきていた。

 こんな田舎でも羽目を外して夜に出歩く愚か者は一定数存在する。または夜の闇を甘く見て門限を守らずに森で迷う子供……。

 そういった獲物(・・)を見つけては吸血に勤しんでいるのだが、今までは快感を覚えた犠牲者の恐怖の表情や悲鳴が妙に不快に感じるのだ。出先でグールを作る事は主であるヴラドに禁じられているのでただ吸い殺すだけになるが、自分が殺した人間の死体を見下ろした時、強烈な吐き気を感じるようになった。

 間違いなく自分の中で何か異変(・・)が起こっている……。カーミラはそれを確信していた。そして原因(・・)も何となく解っていた。だが何故か不思議とカーミラはその原因を取り除く気になれなかった。


「ミラーカ! こんな時間にいつまでも外にいると風邪引いちゃうよ!? 掃除終わったからもう入っていいよ!」

 と、その原因(・・)が大きな声でカーミラを呼びつつ、パタパタと駆け寄ってきた。

「あら、ローラ。心配してくれるの? 嬉しいわ」

「……ッ! そ、それは……ミラーカは久しぶりに来てくれた大切なお客さんだし……」

 カーミラがちょっと微笑みかけると、活発な少女は見る見る内に頬をリンゴのような赤色に染め上げて俯いてしまう。カーミラはその可憐な頬に手を添える。

「ひゃっ……!?」

「うふふ、真っ赤になっちゃって可愛いわね、ローラ。大事なお客さん……本当にそれだけなの?」

「あ……う、ん……! ミ、ミラーカ……駄目……こんな所で……」

 カーミラの手が頬から喉、そして更に下がって小さな膨らみを修道服の上からなぞりあげると少女はそれだけで腰砕けになって、必死にカーミラの身体を押しのけようとする。だがその力は不自然な程弱い。

 カーミラはゾクゾクしてきた。

「こんな所じゃなければいいのかしら? どうせこんな時間に誰も見ていやしないわ。素直になりなさい……」

「ああ……! ミラーカ……んっ」

 何か言おうとした可憐な唇に、カーミラは自らの唇を重ね合わせて反論を封じる。気持ちが昂ってきたカーミラはその勢いのまま、神聖な修道院の正門前で神に仕えるシスターと淫靡な遊興(・・)(ふけ)るのだった……。


****


「…………」

 そしてカーミラは覚醒(・・)した。


 目に映るのは石造りの天井ではなく、蛍光灯を使用した現代風の照明。寝ているのも修道院の簡素な寝台ではなく、低反発のマットを敷いた寝心地の良いベッドであった。

 ここは……ローラ(・・・)の部屋だ。今は正確には彼女と自分の部屋……

 夢、だったのだと思う。夢にしては随分明晰だったような気もするが、あれは間違いなくカーミラ自身の過去の1ページであった。


「ロー……ラ……」


 その名を呟く。思いがけずに見た鮮明な夢は、彼女に強烈な郷愁を喚起させた。大切な大切な思い出。それは最早完全に喪われ、二度と戻ってくる事は無い過ぎ去った時間……。

「……ッ!」

 カーミラの(まなじり)から一粒の涙が零れ落ちる。無性に『あの子』に会いたい。あの思い出の中にもう一度浸りたい。

 カーミラは現実逃避をするかのように、たった今目覚めたばかりだというのに、再び眠りに就こうとした。眠れば先程のように明晰な夢を見て『あの子』との思い出の日々に浸れる。そう思った。だが……


「はぐっ……!?」

 ベッドの上で寝返りを打とうとしたカーミラは、身体が全く動かない事に気付く。金縛りのような状態になっていた。それでいて意識や感覚だけは鮮明だ。

(な、何……一体何が……)

 疑問に思うと同時に、この部屋の中を極めて濃密な『陰の気』が満たしている事にも気付いた。

(こ、これは……)

 カーミラはその強烈な『陰の気』に覚えがあった。家中の照明が全て消え、入れ替わるように闇の中にボウッ……と浮かび上がる髑髏の顔……。


 アイツだ。あの『死神』だ。


 黒く禍々しいローブに、その骨の手に携えられた長大な鎌……。完全にその姿を顕現させた死神は、ベッドに仰向けで横たわるカーミラを真上から見下ろすような位置に浮かんでいる。

 そこでカーミラは思い至った。先程の、夢と言うには余りにも明晰な体験。あれは……

「……あの『夢』は、あなたの仕業ね……?」

 体は動かないが喋る事だけは出来た。だが死神は首を横に振るような動作をした。

『否……。ソレハ汝ニ与エラレタ()ノ影響ナリ……』

「血……? まさか、ローラの……!?」

 『エーリアル』に頭部を破壊され意識が混濁していたが、そんな中でも何か極めて甘美な液体が自分の体内に滑り落ちて活力となった事は憶えていた。あの一度味わったら絶対に忘れられない味は、以前に一度だけ『試飲』した事があるローラの血に間違いなかった。

『然リ……。アノ娘ガ与エタ血ガ、汝ヲコノ現世ニ留メタ……』

(ローラ……!)

 ローラを助けるつもりが、逆に助けられてしまった。ローラに深く感謝すると共に、いつかこの借りを返さなければ、と心に誓った。


「……それで? 再び私の前に現れた理由は何? それとも女の寝顔を覗き見するご高尚な趣味でもあるのかしら?」

 内心の恐怖と不安を隠す為に、敢えて挑発的に問いを投げかける。何せまともに戦ったとしてもまず勝ち目が無いだろう相手だ。まして今のカーミラはベッドに横たわったまま指一本動かせないのだ。

 得体の知れない存在に完全に生殺与奪を握られている状況に、流石のカーミラも恐怖と不安を感じずにはいられない。

『……汝ノ大切ナアノ娘ニ、生命ノ危機ガ迫ッテイル。最早猶予ハ少ナイ……』

「……! な、何ですって……!?」

 驚くと同時に、こう言っては何だが「また!?」という感情もあった。この時期にローラに何かあるとすれば間違いなく『エーリアル』絡みだろう。どうやら起きて早々、またあの怪物に立ち向かう事になりそうだ。

 だがローラが危機に瀕しているのであれば、カーミラに行かないという選択肢はない。

「場所は? 場所は解るんでしょう?」

『北ニアル深キ森ノ袂ダ……。近クマデ行ケバ、後ハ汝ノ中ニアル()ガ導クデアロウ』

(北にある森……? エンジェルス国立公園の事?)

 『エーリアル』絡みである事を考えれば、そこが最も怪しい。前回もそうだが何故か死神は固有名詞で伝えてくれないので、ヒントを元に自分で割り出す必要がある。

 とはいえ死神の警告が無ければそもそもローラの危機にさえ気付かなかった訳なので、文句を言えた義理ではないのだが。


「……前回もそうだけど、何故私を……私達を助けるの? あなたが一連の人外の事件に無関係だとは言わせないわよ。あなたの目的は……一体何なの?」

『……『毒』ヲ喰ライ、魂ヲ昇華サセ続ケヨ。サスレバイズレ汝ト道ガ交ワル事モアロウ……』

 それだけを告げると、死神は前回と同じように存在が希薄になっていく。

「あ……ま、待って! まだ……」

『今ハ、アノ娘ヲ救ウ事ニ集中セヨ……。イズレ……マタ…………』

 そして死神は完全に消え去った。同時に部屋の照明が復活し、カーミラの金縛りも解けた。カーミラは即座にベッドから身を起こした。


(また、『毒』……。毒を喰らう? 魂を昇華? 一体何の事を言っているの? ……いや、今は置いておくか)


 考えても答えの出ない疑問はとりあえず後回しだ。奇しくも死神が言ったように、今はローラを助ける事が最優先だ。死神は『血』が導くと言っていた。

 得体の知れない存在だが、何故か嘘や適当な事を言っているとは思わなかった。それだけは確信できた。ならばとりあえず行けば解るという事だ。

(早速借りを返す機会に恵まれたわね……。『ローラ』……私に勇気と力を貸して頂戴……!)

 カーミラは急いで身支度を整えると、刀を忍ばせてアパートメントを飛び出した。
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