File30:聖少女ローラ
文字数 4,653文字
「ミ、ミラーカ? あの人、ミラーカの知り合いなの? ロサンゼルスって……? ワラキアのブカレストから来たって言ってたよね?」
ミラーカのただならぬ様子に戸惑った『ローラ』が尋ねる。
「う……あ……い、いや……。いや、私、知らない! あなたなんて知らないわ! どこかへ消えて頂戴!」
だがミラーカは現実を直視するのを避けるように頭を抱えて屈み込んでしまう。
「ミラーカ……」
彼女はこの幸せな時間に浸って現実逃避を続けていたのだ。彼女にとって現代でのローラ達との生活は『辛い現実』だったのだ。その事を改めて思い知らされローラの胸は痛む。
(でも……それも仕方ない事なのかも知れないわ。ミラーカにとってはここが『故郷』なんだもの)
彼女は本来500年前のワラキアの貴婦人であり、吸血鬼化する事がなければそのまま同じ時代の欧州で生涯を終えていたであろう人物なのだ。彼女にとって500年も経った現代の……ましてや海を隔てたアメリカなど、どこまで行っても馴染みのない遠い異国でしかないのだ。
ましてやローラと生活するようになってから、『ルーガルー』を皮切りに恐ろしい怪物達との戦いを常に繰り広げる羽目になった。あの死闘の日々は間違いなく『辛い現実』といって差し支えないだろう。
ローラと一緒に戻るという事は、あの死闘の日々に再び戻れと言っているに等しい。その自覚はあった。ミラーカの現実逃避したい気持ちも良く解る。だがそれでも、
(……ここはあくまで過去の幻想! ミラーカ! あなたは『今』を生きているのよっ!!)
彼女を引っ張り上げなければならなかった。頬を叩いて目を覚まさせてやらねばならなかった。
「あ、あの……どなたか存じませんが、ミラーカはすごく嫌がってるみたいです。彼女が落ち着くまで一旦お引き取り頂く事は出来ませんか?」
『ローラ』がうずくまるミラーカを庇うように、間に立ち塞がった。だがローラは引かない。今こそ『ローラ』と対決すべき時なのだ。彼女の
「あなたが『ローラ』ね。初めまして……というべきかしらね。私の名前もローラというの」
「……!」
「詳しい事情は話せないけど、今そこにいるミラーカはあなたの知っているミラーカじゃないの。だから……返して欲しいの、彼女を」
「か、返す……?」
『ローラ』が戸惑ったように反復する。ローラは頷いた。
「そう……今の彼女は私といるべき存在なのよ。どうかミラーカを、解放してあげて。あなたが彼女をこの
「……っ!」
『ローラ』が目を見開いた。そしてミラーカの方を振り向く。その視線を受けてミラーカがビクッと震えた。
「ミラーカ……?」
「あ、あぁ……ロ、ローラ……。い、いやよ……あなたと離れるなんて……。折角
「……!!」
まるで幼女のように頼りなく震えるミラーカの姿とその言葉に、『ローラ』の大きな目は増々見開かれた。ローラは強い視線でミラーカを睨み据える。
「ミラーカ! 目を覚ましなさい! 記憶はあるんでしょう!? 今私とあなたを助ける為にジェシカが、ヴェロニカが、そしてセネムが傷付きながらも必死で戦ってくれているのよ!? ナターシャだって心配してる!」
「……! ぁ……」
ミラーカが僅かに反応して顔を上げる。
「私の事が嫌いになったならそれでも構わない! でもあなたを慕っていたジェシカ達の想いまで無視する気!? あなたはそんな薄情な、それこそ冷血な女だったの!?」
「……っ!」
ミラーカの白い面が更に青白くなる。
「あなたに嫌われてもいい! でも……私はあなたが好きなの! 愛しているのっ! あなたに戻ってきて欲しいのよ!! お願いよ……目を覚まして。戻ってきて、ミラーカァッ!!」
「あ……あぁぁ……ロ……ロー、ラ……」
――ミラーカが……
「……!」
それを認めた『ローラ』が見開いていた目を閉じた。そして静かに再び目を開いた。その表情は何かを悟ったような穏やかな、それでいて強い決意に満ちた物であった。
『ローラ』はミラーカの側に屈み込むと彼女の頬に優しく触れた。ミラーカがまた身体を震わせる。
「ミラーカ……。詳しい事情はさっぱり飲み込めないけど……でも、何となく解ったわ。今のあなたはここにいるべきじゃない……いえ、ここにいてはいけないのだと」
「……っ!」
ミラーカが拒絶されたショックで目を見開く。『ローラ』は慌てて言葉を重ねる。
「あ、違うの。勿論ミラーカの事は大好きよ? でも、だからこそあなたを
「ローラ……」
「私なら大丈夫よ。だって、
「……っ」
「だから……行ってあげて。後ろを向かないで、ちゃんと前を向いてあの人と向き合うの。今のあなたにはそれが必要だと思うの」
「…………」
ミラーカはまだ青白い顔をしながらも何とか自分の足で立ち上がった。そしてローラと正面から向き合った。
「ロ、ローラ……わ、私は……」
「いいの。何も言わないで。ここへ来る事であなたの気持ちも少し分かったから。でも、そうね……」
ローラはニッコリと微笑んでミラーカに近付くと……
――パシィィィンンッ!
「っ!」
ミラーカの頬が小気味良い音を立てた。よろけた彼女の頬に手の形の赤い跡が付いていた。
「これでお相子って事にしといてあげるわ」
「ローラ……ごめんなさい」
「いいって言ったでしょ? それに
「……! ふ……ふふ……全く……。あなたといると本当に退屈しないわね」
「そうよ。思い出した? それとジェシカとヴェロニカが物凄く怒ってたわよ。ジェシカなんか、あなたの事100発ぶん殴るって息巻いてたから覚悟しといてね?」
「……っ! そ、それはちょっと……キツいわね」
ミラーカが若干本気で顔を引き攣らせる。その様子に満足そうな笑みを浮かべたローラは、『ローラ』の方に向き直った。
「ごめんなさい……。そういう訳だから……行くわ。ミラーカを説得してくれてありがとう」
彼女が理解を示さず、ミラーカをあくまで保護しようとしていたら厄介な事になっていた。『ローラ』はまさに聖少女に相応しい慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「ううん、いいの。……ミラーカの事、宜しくお願いね?」
「ええ……任せて」
2人のローラは笑い合って握手を交わした。するとローラの身体が何やらポゥ……一瞬だけ淡い光に包まれたような気がした。同時に何か心地良い感覚がローラを満たす。
「……これは?」
「ふふふ、ささやかだけど私からの
そう屈託なく笑う『ローラ』。彼女にはやはり何か特別な力があったのだ。そしてこの少女はそれを
彼女と一緒に暮らしていたミラーカが
「……ありがとう。心強いわ」
ローラは万感の思いで拳を握り締めた。彼女も……『ローラ』もまた共に邪悪と戦ってくれるのだ。
「ロ、『ローラ』……お願い、ワラキアには行かないで。あなたは今から1年後に――」
「――それ以上は言っては駄目よ、ミラーカ」
『ローラ』の死の運命を警告しようとしたミラーカの口に、彼女が人差し指を立てるジェスチャーでその言葉を遮る。
「それを知るのは神の思し召しに反する事よ。例え何があろうと……私は私の使命を全うするわ」
「……っ」
『ローラ』の意思と信仰は固かった。ミラーカは唇を噛み締めて黙るしかなかった。そんな彼女に『ローラ』は優しくハグをした。
「でも、ありがとう。あなたが私の身を案じてくれた事は決して忘れないわ。憶えておいて。何があったとしても私はその運命に満足していたのだと。あなたが気に病む必要なんて何もないの。私は……いつでもあなたを見守っているわ」
「『ローラ』……!」
ミラーカも感極まって彼女を抱き返した。そうしてしばらく抱き合っていたが、やがて互いに自然に身を離した。
「……行くわ」
「ええ、ミラーカ。気を付けて。そして……必ず邪悪に打ち勝って」
「ええ、約束するわ。……さようなら、『ローラ』」
ミラーカは『ローラ』を安心させるようにしっかりと頷いた。そして待っていたローラと目線で頷き合い手を繋いだ。すると……
「……!」
ローラの身体がまるで空間に溶け込むように透けて消滅し始める。同時に彼女の視界が徐々に光に包まれていく。光に塗り潰される視界の先、『ローラ』が最後まで自分達の為に祈り続けてくれていた……
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『ミラーカ』と手を繋いだ『ローラ』の姿が消えていく。そして彼女の姿が完全に消えると同時に、
「え……あら? 私、今まで何を……? 寝室で寝ていたはずなのに、いつの間に外へ? 夢遊病の気でもあったかしら?」
不思議そうに周囲を見渡す。そしてローラと目が合った。
「ふふふ、
「ローラ? ここで何を……随分機嫌が良さそうね? まあ、あなたの機嫌が良いのはいつもの事だけど」
何が何だか分からないという風に首を傾げるミラーカの姿が可笑しくて、つい小さく噴き出してしまう。
「ロ、ローラ? 何笑ってるのよ?」
「ふふ、何でもないわ。いつものミラーカだなって思って……」
「? ……まあいいわ。それよりこんな日が高い内に起きたのも久しぶりだし、明るい場所であなたの姿を見てたらムラムラしてきちゃったわ。ねえ、今日も楽しませて……」
ミラーカが手を伸ばしてくるのをピシャッと叩く。
「だーめ! 今日はこれからミサの時間なの! もうすぐ村の皆が来るから、ミラーカは奥に引っ込んでて!」
「え、ええ? 何よ、ケチねぇ」
「ケチで結構! ほらほら! 早く動く!」
「わ、分かったわよ! もう、今日は随分強引ねぇ」
ぶつくさ言いながらも、言われた通り建物に引っ込んでいくミラーカ。ローラはそれを微笑ましい視線で見送ると、振り向いて空を見上げた。
(主よ……。どうかあの2人に万難を排する加護を与え給え……)