File6:ナードの罠
文字数 5,431文字
吸血鬼は陽の光でも死ぬ事はなく不死身に近い生命力を誇るが、唯一のデメリットとして定期的な頻度で人間の生き血を吸わないと生きていけないという物がある。
カーミラも過去には様々な代替手段を模索した事もあるが、どれも空振りに終わった。今の時代には人工血液という物があるが、効果の程は試していない。よしんばそれで代替出来たとしても、高価で入手手段も限られている物を当てにするのは現実的ではない。
結果カーミラは風俗という職業に、生き血の
新たに下僕としたジョンは男性なので基本的に売る側には回れないし、そもそも彼は表向きの職業がきちんとあった。なので彼には定期的に
吸血鬼となった今のジョンには、司法の目を掻い潜って街を出歩いている女性を拐かして
カーミラはここが肝心とばかりに、絶対に市井の人々を襲ったりしないよう念入りに釘を差した。そして買春の際にも、絶対相手が絶命するまで吸ってはいけない事も念を押しておいた。
「殺してはいけないって理屈は分かるんですが、実際問題として大丈夫なんでしょうか? 相手は吸血された事を憶えてるんですよね? 変に騒ぎ立てられたら……」
ジョンはそのように不安を訴えた。
「その心配は尤もね。でも忘れた? あなたは以前にもローラのアパートで私の吸血を受けた事があったでしょう? その時どんな感じだったか憶えてる?」
カーミラに問われて、ジョンは自分が
「それはまあ……。いわゆる天にも昇る心持ちって奴でしたよ。あんな快感は生まれて初めてだったかも知れません」
「そう……グールとは違って吸血鬼の吸血行為には、相当の快楽が伴うの。恐らく吸血中に
「…………」
つまり「
「はは、俺自身が女を虜にするだなんて考えた事もありませんでしたが、まあ何とかやってみますよ。カーミラ様のお怒りを買うような行為は慎みますからご安心下さい」
「ええ……お願いね」
そう言いながらもカーミラは、ジョンに関してはまだしばらく監視が必要だろう事は解っていた。やはり超常の力を唐突に手に入れた代償は大きい。
いつどんな些細な事が切欠で、人間に牙を剥くモンスターに早変わりするか知れないのだ。カーミラにはジョンという新たな吸血鬼を作り出してしまった『親』としての責任がある。
もしもジョンが無辜の人々に危害を加えてしまうような事があれば、それは間接的にカーミラがやったという事にもなってしまうのだ。
(全く……ローラもとんだ無理難題を押し付けてくれたものだわ。まあ、解ってて承諾したのは私自身の意志だし今更ね)
その時の事を思い出しながら、カーミラはかぶりを振った。気持ちを切り替えて目の前の
今日の相手は、人通りの多い街中にあるモーテルを指定してきた。まあどこであろうとやる事は変わりない。
モーテルの駐車場に車を乗り付けたカーミラは、指定された部屋をノックする。相手は既に部屋を借りて待っている約束だ。
「ハイ、サマンサ。ミラーカよ。開けてくれるかしら?」
ノックの後にそう声を掛けるが、中からは何の反応もなかった。事前にフロントに確認したら、確かにこの部屋を今回の客――サマンサがチェックインしているとの事。まあトイレに入っていたり、気が早くシャワー中という事もあり得る。
ドアの取手を握ってみると抵抗なく開いたので、遠慮なく部屋の中に入った。
「サマンサ、入るわよ? 鍵を掛けていないのは、いくら街中のモーテルとは言え不用心――」
カーミラの言葉が途切れる。部屋のベッドの上に今夜の客……サマンサ・クロスがいた。ただし、既に
何か非常に鋭利な刃物で切断されたかのような、首のない胴体がベッドに横たわり、そのベッドの下に生首が転がっていた。切断面から噴き出した血液がベッドを一面赤く染めていた。
(な――!?)
迂闊であった。街中で特に危険もないだろうと気を緩めていた。その為吸血鬼でありながら、これ程の血の匂いを事前に察知できなかった。直前までジョンの事で頭を悩ませていたのもそれに拍車を掛けた。
いや、察知できなかったのは血の匂いだけではない。もう一つ……『
「やあ、ようやくお会いできましたね、ミラーカさん……で宜しかったでしょうか?」
「……!」
聞き慣れない男性の声が聞こえ、カーミラは咄嗟に身構える。
奥のバスルームから1人の男が現れた。
外で友達と遊んだりスポーツを楽しんだりするよりも、薄暗い部屋の中でコンピューターゲームでもやっている方が似合いそうな……この国では、いわゆる「ナード」と呼ばれる人種的な外見だ。
だが……その青年が見た目通りの存在でない事は、既にカーミラの目、というより
「……これはあなたの仕業?」
カーミラがベッドの上の死体に顎をしゃくって確認する。
「ええ、そうですよ。あなたの登録しているエージェンシーのサイトにハッキングして情報を抽出したんです。ふふ、一度捕捉さえしてしまえば特定は簡単でしたね」
青年が部屋の中央まで進み出てくる。
「自己紹介が遅れました。僕の名はフィリップ・E・ラーナーと申します。以後お見知りおきを」
慇懃な仕草で名乗る青年――フィリップに、カーミラは氷のような冷たい視線と口調で返す。
「ここ最近、こそこそと私を探し回っていたのもあなたね?」
「それも肯定です。
(マスター……? まだ上がいるという事ね……)
カーミラは一瞬迷った。このフィリップという青年は、自身の発する『陰の気』をかなり巧妙に抑え込んでいる。カーミラが部屋に入るまで異変に気付かなかったのはそれも原因であった。
恐らく本来の『陰の気』の強さは、カーミラに比肩するか或いはそれ以上の可能性もある。
だとするならその『マスター』とやらは、間違いなくそれ以上に剣呑な存在だろう。それこそヴラドにも匹敵する怪物かも知れない。
何の備えもなしにそんな怪物と対峙するのは、完全な自殺行為でしかない。それにそもそも……
「『マスター』だか何だか知らないけど、女の誘い方は三流以下も良い所ね……!」
お断りの文句と共に、瞬時に脱ぎ捨てたロングコートを目眩ましに広げて投げつけつつ、それに重ねるように鞘走った刀を一閃。しかし……
「おっと!」
フィリップは素早く身を翻してカーミラの刀を躱した。ただの人間には到底不可能な身のこなしだ。
「んーー、残念です。これが答え――」
「ふっ!!」
フィリップが何か言いかけるのに構わず、一気に踏み込んで刀を薙ぎ払う。狭い室内だ。これ以上飛び退って躱す事は出来ない。
「しゃはっ!」
「……!」
だがフィリップは奇声と共に、
「な――」
思わず上を見上げて驚愕の声を発するカーミラだが、フィリップの片手にいつの間にか拳銃が握られているのを見て目を見開いた。
フィリップは左手と両足で天井に張り付いたまま、右手に持った銃を発砲してきた。カーミラは銃弾を弾く為に刀を構えるが、フィリップが発砲したのは……ベッドの上のサマンサの死体に対してであった。
何発もの銃弾が死体に撃ち込まれ銃創を穿つ。
「……! 一体何のつもり!?」
カーミラが天井のフィリップに向かって斬りつけると、彼は天井から手足を離して刀を躱しつつ床に降り立った。
「ふふふ、さぁて何のつもりでしょうかねぇ? ご一緒して頂けないというなら仕方ない。あなたの強さは少々厄介そうですから、マスターのご計画が為るまでは少し
「……何ですって?」
聞き返すカーミラに構わず、フィリップはまるでパスでもするように持っていた拳銃をカーミラに投げて渡した。
勢いよく投げつけられれば躱すなり弾くなりしただろうが、受け渡す事を前提とした風に緩やかに投げ渡された為に、反射的にキャッチしてしまった。
「一体何の――」
やはりカーミラを無視して、フィリップはそのまま身を翻して奥のバスルームに駆け込んだ。
「……! 待ちなさいっ!」
即座に後を追ったカーミラだが、バスルームを覗き込むと、そこにはもうフィリップの姿は影も形もなかった。
「そんな……!?」
バスルームには天井近くの壁に小さな窓が付いているだけで、勿論裏口のような物はない。確かにその小さな窓は開いていたが、とても人間大のサイズの生き物が出入りできる大きさではない。
にも関わらずフィリップの姿は、バスルームから忽然と消えていたのだ。
(……方法は分からないけど逃したって事ね。いや、本当に『逃げた』の……?)
フィリップは全く本気ではなかった。勿論カーミラも戦闘形態を含めて本気ではなかった訳だが、それを踏まえてもフィリップは明らかにカーミラに恐れをなして
(なら一体何の目的で……)
そこまで思考を巡らせた時だった。
「うひぃぃっ!?」
「……ッ!?」
部屋のドアが開く音と共に、男の悲鳴が聞こえた。フィリップがまた現れたのかと咄嗟にバスルームから姿を覗かせるカーミラ。これが
部屋の入口で腰を抜かさんばかりに慄いているいるのは……このモーテルの管理人。先程カーミラも、フロントでサマンサのチェックインを確認する際に会話した。
管理人の視線が、バスルームから現れたカーミラの姿に注がれる。そして……その目が更なる
ベッドの上には……
そして恐らく
(しまった……!)
カーミラはフィリップの狙いを悟った。そして悟った時にはもう手遅れだった。
「待っ――――」
「ひ、ひ、人殺しだぁぁぁっ!!!」
管理人は大声で悲鳴を上げながら逃げていく。
ここは特に治安の悪い地区ではない。いや例えどこであったとしても、こんな風に首を切断された惨殺死体と、それを為したであろう
(く……ど、どうすれば……!?)
表の通りには夜でも多くの人や車が行き交っている。通行人の何人かが、既に今の管理人の叫びに反応してしまっていた。今から管理人を押さえてももう手遅れだ。むしろ足掻けば足掻くだけより状況は悪くなっていくだろう。
カーミラの人相は管理人に見られている。殺人の嫌疑が掛かったまま逃亡すれば指名手配になって、ローラにも迷惑や心労を掛ける事になる。
(……ここはロサンゼルス市内だし、LAPDの管轄よね? ならローラだけじゃなく、ジョンもいる。下手に逃げたり抵抗したりせずに、大人しく捕まった方がまだ良さそうね……)
少なくとも冤罪によって実刑となるような事はないはずだ。きちんと調べてさえ貰えればカーミラが犯人でない事は証明されるだろう。
だがそうであっても無実が証明されるまで身動きが取れなくなる事は確かだ。フィリップが、しばらく大人しくしていてもらう、と言った意味が理解できた。
管理人か誰かの通報によって、パトカーのサイレンの音が徐々に近付いてくるのを聞きながら、カーミラは敵にまんまと一杯食わされた屈辱と悔しさに歯噛みするのであった……