Shrieking ~不死者の慟哭(前編)

文字数 4,626文字

 時は紀元前の遥かなる時代。尤も当然ながら当時の人々はその時こそが時代の最先端であり、紀元前などという言葉も概念も存在していなかった。

 それは古くから文明の興っていたエジプトの人々にとっても同様であった。いや、自分達とエジプトこそがこの世の中心と信じて疑っていなかった人々は、よりその傾向が顕著だったかも知れない。

 そしてそんなエジプト人達の中で、頂点(・・)に立つ者は、まさしく自らを中心に世界が回っているのだと、当たり前のように思い込んでいた。

 そう……思いも掛けなかった自らの転落をその身に体験するまでは……


****


 灼熱の日差しが照り付ける大地。その上で、2つの軍勢がぶつかり合っていた。一つはナイル河口と沿岸部を支配する下エジプトの軍。そして今一つは……彼、メネス(・・・)が若くして、偉大な王スコルピオン一世から王の座を継いだ上エジプトの軍だ。

 メネス率いる上エジプト軍が約5万の軍勢なのに対して、下エジプトの軍は僅か2万程度だ。もうこの時点で勝敗は明らかだ。しかし敵軍はそれが解っていながら決死の抵抗を試みる。

 それがメネスを苛立たせた。こんな暑い日差しの下で既に勝ちの見えた暑苦しい戦争などさっさと終わらせて、都の召使いに椰子の葉で扇がせた涼しい寝台の上で、愛しいシェシに手ずから果物を食べさせてもらいながらのんびり過ごしたかった。

 彼はエジプトの地に生まれ育ちながら、この灼熱の日差しと乾燥した気候が好きではなかった。生まれながらに王の子として、瀟洒な生活を送ってきた影響である。


「奴等は何故勝てぬと解っていて無駄な抵抗をするのだ。さっさと我が威光にひれ伏せばよいものを」

 高台にある本陣の天幕で戦の様子を眺めながら苛立った声を上げるメネスに、近侍の側近が苦笑しながら取り成す。

「王よ、苛立ちは御尤もです。しかし決死の抵抗を行う奴等を王の軍が散々に打ち破る事によって、王の武名と威光は下エジプトの他の地域にもあまねく伝わりましょう」

「ふむ? そうか。そうであろうな」

 メネスは頷いた。そもそもこの世界の中心たるエジプトの地に於いて、自らの威光が行き渡っていない場所があるという事が気に食わない。それは、自然ではない(・・・・・・)。それ故に連中に戦争を仕掛け、滅ぼす事に決めたのであった。それを思い出した。

「その意味であの敵軍は良い見せしめでございます。王に逆らった者達がどうなるのかの末路を、下エジプトの地に広く知らしめてやるのです」

「ふむ、なるほど。そういう意味ではこの無駄な戦にも意味があるという事だな、ナルメルよ?」

「まさしくその通りです、王よ」

 側近――ナルメルは腰を折りながら立礼した。機嫌が良くなったメネスは床几から立ち上がった。

「ふふふ、見せしめか。面白い。余に逆らう愚か者共だ。どうしてくれようか?」

「は……鞭打ちから股裂き、串刺し、火あぶり、水攻め、その他あらゆる拷問の準備を整えてあります。全ては王の御心のままでございます」

「ほぅ、それは気が利くな。流石はナルメルだ」

 そう言って笑うメネスは、ひざまずいて頭を下げているナルメルの口の端が吊り上がっている事に気付かなかった……



 下エジプトの軍は抵抗虚しくメネスの軍の前に敗れ去った。捕えられた者は例外なく見せしめとして凄惨極まりない拷問に掛けられ命を落とした。

 下エジプトの地にはメネスの威光ではなく悪名が広まった。だがその事にメネス本人は気付かなかった。というよりもそこに思いが至らなかった。

 そして制圧した下エジプトと上エジプトの境界付近にイネブ・ヘジという名の新しい首都を建造し、そちらに遷都を行った。


****


「おお、シェシよ! 我が愛しのイシス! お前の顔が見れぬ日々は、余にとってアヌビスの支配する冥府を彷徨っているかのようであったぞ! さあ、近こう寄れ!」 

 新都のあらゆる贅を尽くした豪華な宮殿。自ら作らせた広いテラスの寝台に寝そべっていたメネスは、その顔を喜色満面に、やってきた者へと向けた。

「お、王様……私もとても寂しかったです! またこうしてお呼び頂いて、私……すごく嬉しいです!」

 感動に打ち震えた様子でメネスの元に侍るのは、1人の若い娘であった。メネスのお気に入りの愛妾であるシェシである。新都や宮殿の建設が粗方終わった為に、旧都から呼び寄せたのだ。

 目鼻立ちのはっきりした愛らしい顔ではあるが、もっと美貌の女は探せばいくらでもいる。だがメネスにはそんな事は関係なかった。

「おお、嬉しい事を言ってくれるな、お主は! 見よ! こうしてナイルを一望できる特等席を用意したぞ。お主はナイル川のせせらぎを聴くのが好きだと言っておっただろう?」

「王様、覚えていて下さったんですか!? わ、私の為にこんな……嬉しい」

 シェシがその愛らしい顔で微笑む。それだけでメネスの心は蕩けた。

「ふふ、愛い奴よ。今日は早速お主が手ずから作った果物の盛り合わせを食べさせてもらおうか。ここを作っている間中楽しみだったのだ」

「え、ええ!? あれ、そんなに美味しかったんですか!? この辺でも手に入る安い果物ばかりですよ? それに王様ならもっと贅沢な美味しい料理を一杯食べられるんじゃ……?」

 本心から驚いている様子のシェシに、メネスは目を細めながらかぶりを振った。

「どんな豪勢な料理よりもお主の手料理の方が温かく美味だ。それにただ同じ物では駄目だ。お主が余の為に作ってくれるからこそ極上の味になるのだ」

「そ、そうなんですか? 王様は変わってますね! うふふふ!」

 口に手を当てて可笑しそうに笑うシェシ。そんな仕草も愛らしい。既にエジプトを統一し、至高の王となったメネスに対してこの素朴とも言える態度。国中の全ての女は恐れおののいて平伏するか、震えるか、もしくは露骨に媚びを売ろうとするかのいずれかしかいない。

 シェシは天然なのか、メネスを前にしてもそれほど態度が変わらなかった。勿論敬ってくれているのは解るのだが、元来が不器用なのか人によって態度を変えるという事が出来ないようだった。

 最初は何たる無礼な娘だと憤慨したものだが、媚びへつらうばかりの家臣や民衆の中にあって、その素朴さが新鮮に感じるようになるまでにさして時間は掛からなかった。

 そしてむしろメネスの方から押し掛けるような形で交流を重ねる中でいつしかシェシの事を愛しく思うようになり、妾にと召し上げた。シェシも最初は戸惑っていたが、メネスの想いが真剣な物だと理解してくれ、最終的には受け入れてくれた。

 妾という立場になってからもシェシの態度はそれほど変わる事が無く、メネスを安心させ、彼女との他愛ないやり取りは、常に王として気を張っていなければならないメネスの貴重な癒しとなっていたのだ。


 彼女との時間を永遠の物としたい……


 それは愛しい者を持つ誰もが考える欲求であったが、同時にそれが叶わぬ夢である事を普通の人間は知っている。だがメネスは『この世の中心』たるエジプトの支配者。至高なる王。色々な意味で普通の人間とは発想が異なっていた。

 自らが望めば叶わぬ事などないという万能感が彼を突き動かした。

 メネスは新都が完成すると、すぐに自らの墳墓を作らせた。生前から自分の墳墓を作っておくというのはこの時代の王であれば普通の事で、彼の父スコルピオン一世も同様に生前から作らせていた墓の下に眠っている。

 だがメネスはそこに一工夫(・・・)を加えた。密かに神官や占星術師、薬師、そしてミイラ職人といった者達を別の用件と偽って私室に呼び集めて、不老不死(・・・・)の方法を模索し始めた。

 シェシにはまだこの事を報せていなかった。流石のメネスも不老不死を現実の物とするには、一筋縄では行かない。成功(・・)の目途が立ってから、彼女に伝えるつもりだった。きっとびっくりするはずだ。そして不可能を可能にしたメネスを更に頼り甲斐のある男として慕い、共に永遠の時を生きる事を承諾してくれるだろう。


 結論から言えば、不老不死の実現は可能(・・)であった。しかしそれには禁忌ともいえるおぞましい方法を用いねばならず、尚且つその不老不死の形もメネスが望んだ物とは違っていた。

 しかしそれでも永遠の時を生きられる事には違いない。メネスは迷った末に、もし他の方法が見つからなかった場合に備えて、自らの墳墓にその不老不死を得る為の仕掛けを作らせておいた。そしてその為の準備(・・)も。


 そうして幾ばくかの月日が流れたある日の事。

「王様。カバを見に行きましょう!」

 いつものような軽快な足取りで私室に入ってきたシェシ。変わらぬその態度と姿を見てメネスは破顔する。

「おお、シェシ。お主はいつも唐突だな。カバとは、あの動物のカバの事か?」

「そうです! 実は私、ワニは見た事あるんですけど、カバは見た事がないんです。今年のナイル川の氾濫は規模が大きくて、それで上流にいたカバの群れが下流まで流されてきてるらしいんですよ! 街で商人の人が話してました!」

「ほう、それで見てみたいとな。勿論構わんぞ。政務はナルメルが滞りなく行っておる故、余も暇を持て余しておった所だ。では早速近衛隊長を呼んで日程を調整させよう」

 するとシェシが慌てたように手を振った。

「え!? そ、そんな、悪いですよ! 私が見てみたいというだけの事に兵隊さん達に余計な仕事を増やしちゃうのは!」

 兵士達に自分の都合で動いてもらうのは悪くて、王たるメネスに一緒に来てもらうのは良いのか。余りと言えば余りなな話だが、メネスは逆に嬉しくなった。それだけ彼女が自分に遠慮せず心を開いている証拠だ。

「そ、それに……あんまり人が大勢いるのは実は落ち着かないんです。王様の周りはいつも人で一杯だし、たまには王様と2人で出掛けてみたいんです。駄目、ですか……?」

「……!」

 シェシが少し恥ずかしそうに上目遣いになる。思えば彼女の方からこうしてメネスに頼み事をしてくるのは初めてではあるまいか。余程メネスと2人で出掛けたいらしい。

(ふむ……物怖じしない性格だと思っていたが、実は大勢の中が嫌いだったのか。気付かずに悪い事をしてしまったな)

 シェシの事を見ているようで見ていなかった事にメネスは反省した。そして彼女への償いの意味も込めて頷いた。

「そういう事であれば仕方ない。他ならぬお主の頼みだ。2人でお忍びと行こうか」

 シェシの顔がパッと輝く。

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、王様!」

「ただし本来、王である余が単独行動などあり得ぬ話だ。そのまま出かける事は出来ん。少々工作(・・)が必要になる。お主にも手伝ってもらうぞ?」

「は、はい、勿論です! ……何だかイケない事してるみたいでワクワクしますね?」

 確かに物心ついて以来、このような事はしようと思った事は無かった。そう考えるとメネス自身も何だか楽しい気分になってきた。色々な意味で型破りなこの可愛い愛妾のお陰であった。
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