第九章一話 カツミの逃亡

文字数 3,912文字

 アナとナミの姿を呆然と眺めながら、神鹿隊(しんろくたい)の眷属たちは、いまだ眼前の状況に現実味を抱くことができずにいた。
 自分たちがあれほど懸命に攻め続け、攻めあぐねて、あげくの果てには逆に強烈に攻め立てられそうになったほどの相手、禍津神(まがつかみ)をいとも簡単に、一瞬のうちに倒した……。いくら自分たちを含めて多数が寄ってたかって攻め続け、かなりの痛手を与えていたとしても……。先ほどまで禍津神がいた空間の下、地面には黒いシミがあるばかりだった。もうすっかりその身は地中に染み込んで消え去ってしまっていた。
 そんな眷属たちの中で南側にいる者たちが、草木を掻き分けながら自分たちの方へ向かってくる集団の気配に気がついた。
 遠目に見えるその集団、どうやら雄鹿の姿も見える。誰かがその背に乗っている。誰だ?隊員か?徒歩の者も何人かいるようだ。
 その集団、ナツミを先頭に、雄鹿姿のロクメイの背にリサが乗り、タカシがその横について進み、最後尾に薙刀(なぎなた)を肩に担いだマサルが続いていた。

 弥生(やよい)が目を覚ますと、そこは木々に囲まれた草むらの中だった。
 周囲を見渡す。そこら中に男眷属がちらほら人型の姿で座り込んだり、横たわったりしていた。更に見渡すと女眷属の姿も人数は少ないが見えた。身体中が濡れて重い。節々がきしむ。何とかその場で立ち上がった。
 隊長やミヅキの姿を捜す。南側の離れた場所に女眷属たちの集団が見える。恐らくあの中にいるのだろう。周囲には戦場の緊張感が欠けていた。禍津神は?倒したのか?隊長が?ここは結界の外なのか?だから禍津神はいないのか?少しでも状況が知りたく思っていると、近くに一番騎の立ち姿に気がついた。緩慢にしか動かない足を引きずって近づいた。一番騎はその時、会話をしていた。その相手は……
「三輪の眷属殿、助けていただきお礼の申し上げようもありませんで」
「いや、何、困った時は何とやらさ。それにしても、そなたたち、女たちを逃がすために我が身を(かえり)みず踏みとどまって、あげく渦に巻き込まれていった、その利他(りた)ぶりには驚いたよ。何より称えたいと思う」
「いや、それは……」
「とにかく、禍津神の姿は見えなくなったが、念のため負傷者を岸から離れた場所に連れていこう。我も手伝う」
「ご配慮、感謝申し上げるで。では、申し訳ないがよろしくお願いするで」
 そう言う一番騎に近づきながら弥生が口を開いた。その手には剣が握られている。
「おい、そこの謀反人(むほんにん)、抵抗するな。抵抗すれば斬る。一番騎、その者を捕縛(ほばく)せよ」
 神鹿隊の序列上位は女眷属が占めていた。一番騎は男眷属たちの中では最上位であったが、それでも副隊長の弥生とは比べるべくもなかった。しかし一番騎は動かなかった。その代わりに口を開いた。
「この方は、我らを助けてくれましたで。この方がおられなんだら我ら半数以上が水中深く呑み込まれていましたで。もちろんあなたも」
 男眷属はけっして女眷属との会話を禁止されていた訳ではない。しかし彼らには、ただ行動が求められた。無駄に口を開けば叱責(しっせき)されかねなかった。どんなに指令に反対でも、どんなに理不尽なことを言われたとしても、ただ意見も言わずに行動することが要求された。だから、こんな風に一番騎が弥生に対して反論したことは、今までにないことだった。弥生は急に険しい顔つきになると怒鳴りつけるように言い放った。
「そなたの意見など聞いておらぬ。さっさとその者を捕縛しろ。他の者を起こし、すぐに隊長と合流する。急げ」
 そんな弥生の姿をカツミは仕方がないな、という思いで見つめていた。状況からして自分が何を言っても聞く耳は持ってくれないだろう。だから、言い淀んでいるまでも弥生の言葉に承服しかねている様子を見せている一番騎に「じゃあな、また機会があれば会おう」と声を掛けるとすぐに駆け出した。ここは東野村の南端に位置している。少し走ればすぐに自らの村に入る。これ以上、面倒なことになる前にさっさと逃げる。
 弥生はとっさにカツミに追いすがろうとした。しかしその前に一番騎が立ちはだかった。
「何をしている。どけ!というか追え。逃がすな」
 その弥生の声にも一番騎は動かなかった。それどころか、一番騎の背後に近くにいた男眷属たちがともに並び立ちはじめた。カツミの背中がどんどんと離れていく。
「そなたたち、いったいどういうつもりだ」弥生は憤怒の表情をていしながら苦々し気な声を発した。
「我らは地位は低くとも神鹿隊としての誇りは持ち合わせておりますで。恩を仇で返すような無作法は我らにはできかねますで」
 一番騎は静かに言った。その目には何を言われてもカツミには手を出させないという決意の光が宿っていた。弥生は謀反人の追跡を断念せざるを得ないことを察した。

 カツミの向かった先には神鹿隊の本隊が固まっており、手前側の離れた場所にナミとアナが並び立っていた。アナは身体の前に雑多なデータが表示されている画像を大きく浮かび上がらせて、腕に着けたブレスレットに話し掛けていた。
「ねえ、三百八十四番。私に長々と言い訳をする必要はないわ。あいにく、それを聞いている時間もないし。私があなたに要求することは、今回失敗したことの原因究明と、対処法の考察よ。まだ送り霊になって日の浅いあなたが失敗することはすでに織り込み済み。充分許容範囲内だし、それをもとに計画を立てているの。大切なのは次の機会にあなたが今回の経験をどう活かすかよ。分かったらすぐに仕事に戻って」
「何か、あったの?」横で話の内容を聞くでもなしに聞いていたナミが訊いた。
「新人の三百八十四番が説得に失敗して逃げられたわ。でも大丈夫、逃げた魂はすでに位置を捕捉できている。ただ、今、あなたたちがこんな状況だし、人手が足りないのは確か。あなたにしても百二十五番にしても新人の補佐をお願いしていたと思うけど、そんなことまったく覚えてもいないみたいだし。新人たちはいきなり独力で対処しなければならない現状なのよ」
「あ、そう。何か、ごめん」そういえばそんなことを指示されていた気がする。チーム内の送り霊たちの中でナミとルイス・バーネットだけが業務に余裕を持ち合わせていた。だから二人が指名されたのだが、それはタカシと出会う前のこと。察しの通り、今の今まですっかり忘れていた。
「そういえば、百二十五番はどこ?彼の霊力は今、(いちじる)しく低い水準になっている。危険だから連れて帰るわ。居場所を教えて」
「ああ、そうね。彼は今、湖の中にいるわ。たぶんメダカみたいな小魚になってる」そう言いつつナミが湖に向かって一歩踏み出そうとしたその矢先、目の前、少し離れた所を何かが低木や生い茂る草の間を縫うように横切っていった。
“あ、あの男は”ナミは走り去っていくその眷属の着ている鱗状の(よろい)やその下の装束(しょうぞく)の様子を見て、瞬時に恵美さん宅で見た場景を思い出した。間違いない、マコを(さら)った男だ、そう思うが早いかナミは飛び上がりその男の後を追い、すぐにその頭上に達した。
 彼女の圧縮能力を使えば一気に相手を倒すことができそうな距離まで近づいた。しかし、捕まえてマコの情報を訊き出さなければならない、だから何らかの物理攻撃を加えて動きを止めようと思った。しかし、相手の動きも速い。右に左に曲がりくねりながら、時々草や低木の枝の下に姿を消しながら駆けていく。ナミも木々を避けつつ時折、離れ、また近づいたりしながら時宜を見計らいつつ見失わないように後を追っていった。
 カツミも、空飛ぶ女が自分の後を追ってきていることに気づいていた。だからなるべく上空から捕捉されづらいように、木の幹すれすれを通過する。なるべく身が隠れるように枝葉の下や草むらの中を選んで進む。先刻、(くさり)を禍津神に切られてから手元には(かま)一本残っているだけ。それだけではあまりにも心許(こころもと)ない。(はな)から禍津神と渡り合っていたあの女に敵うとは思えなかったが、せめてちゃんと鎖鎌が揃っていれば相手の動きを封じてその隙に逃げるくらいのことはできたかもしれない。現状、このまま美和村まで逃げ切るしか手がない。自らの村には隠れる場所は無数にある。上空からでも捕捉されなくなるだろう。
 あの攫った娘はあの女の仲間だ。もしかしたら家族かもしれない。捕まったらどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。ここは命懸けで逃げ切らねば。カツミは一切速度を緩めず駆け続けた。途中、春日明神の眷属たちがたむろする横を通り過ぎた。

 神鹿隊の隊員たちは、カツミの接近には気づいたが、自分たちの態勢が整っていないこともあり、強大な敵が突然消え失せたことによる虚脱感に覆われていたこともあり、とっさには対応しなかった。しかし、さすがにサホはその姿を認めると、
「謀反人だ、追え」と剣を抜き放ちながら自身、駆け出した。他の隊員たちは、やっと戦闘が終わったと思ったら、また謀反人を追わなくてはならないのか、と疲労困憊の状態ではあったが、仕方なく隊長の後に続いた。
 なるべく身を潜めて駆けていたつもりだったが、案外と簡単に見つかってしまった。逃げることばかりに気を取られていた。もう少し隠密な行動を心掛けていれば、と今更ながらカツミは反省した。
 とにかく今は逃げ切る。どこか蛇道がないか。どこか……周囲を見渡していたカツミの視線の先にこちらに向かってくる一団が見えた。馬?いや鹿か?春日の眷属か?ん、先頭にいるのはナツミ?捕まったのか?いや、そういう風には見えない。逆に(ひき)いているようにも見える。
 迷ったあげく、カツミはその一団に合流することに決め、更に速度を増して一直線に駆けていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み