第六章二話 オロチと龍神

文字数 4,491文字

“この天皇の御代(みよ)に、役病(えやみ)(さは)に起こりて、人民(たみ)死にて()きむとしき。ここに天皇(うれ)(なげ)きたまひて神床(かむどこ)()しし夜、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、御夢に(あら)はれて()りたまひしく、「こは我が御心ぞ。……我が御前(みまえ)を祭らしめたまはば、神の()起こらず、國安らかに平らぎなむ」とのりたまひき” 「古事記 中つ巻 崇神天皇条」

 深い、深い、湖の底に沈んでいった。
 湖底に走る亀裂、その中に落ちていく。どこまで行っても果てが見えないほどの深さ。その奈落の底へと通じているかのような闇の中を凄まじい速さで水に運ばれていった。
 沈んでいる間、タツミは覚悟を決めた。自分はこのまま消滅してしまうかもしれない。しかしそれも仕方ない。自分が弱かったのだから。
 彼ら眷属は死ぬことはない。しかし強い力の前に消滅してしまうことはある。その身に宿す力が奪われてしまえば身体を構成する要素を繋ぎ止めておくことができず、細かく分裂してしまう。分裂してもある程度の大きさを保っていて、誰かの助力を得ることができれば、また長い時間を掛けて再生することができる。しかし、ある一定の度合いよりも微細に分裂してしまえば、そのまま自然の中に溶け込んで、もう二度と再生することはない。
 タツミは覚悟を決めた分、これからの自分がどうなるのか、という不安は薄かった。ただ、弟妹のことが心配だった。自分が(さら)われたことで彼らがどういう行動を取ろうとするか。
 カツミはいつも短絡的だった。よく物事を考えもせず、勘に頼って行動する。肉体的な強さや武芸の巧みさでは、もう自分より上だとタツミは思っていたが、その思慮の浅さから全幅の信頼を寄せるのは危なっかしく思えてしょうがなかった。またナツミはとにかく甘えん坊だ。甘える対象である我のことを何としても取り返そうとするだろう。手段なんて選ばない。とにかく甘えられる状況を取り戻すために行動する。
 本当に、二人とも無茶をしていなければいいが、そんなことを考えているうちに底に着いた。そして今、禍津神(まがつかみ)、更にはあろうことか災厄と会話をしている。
 ――おぬしは大物主神の眷属だな。
 頭の中に直接、響いてくる。一言々々が脳裏に届いた瞬間、濃厚な密度を保ったまま全身に拡散していく。すべての音がその響きに吸収され、他には何も聞こえなくなる。これが災厄の声なのか。
 タツミは、夜目の利く彼でもほとんど何も見えない闇の中、初めて聞くその響きに包まれながら、現実味の感じられない状況にただ茫然とするばかり。
「おかしいな。話ができないほど痛めつけたつもりはなかったのだが。眷属という者は思ったより(もろ)いのだろうか」
 思考も忘れてタツミがただ黙っていると、横合いから声が聞こえた。その声は水中にも関わらず音波として彼の耳朶(じだ)に押し入ってきた。
「なあ、お前、死んだのか?」
 特に感情の籠っていない声、ごく普通に話をしている。
 長い年月、存在してきたタツミではあったが、禍津神と会話をするのは今回が初めてだった。いざ話してみると今まで抱いていた印象と違う。そもそも禍津神は、禍い者の進化した姿、その亜種くらいに思っていて、意思はあるものの未発達で、とても話して分かり合える相手ではないと、これまでは思っていた。
「聞こえている。そなたたちは災厄と禍津神だな」
 ――災厄か、いかにも身勝手なおぬしたちがつけそうな名前だな。
 また直接頭の中に声が響いてきた。
 ――とはいえ、おぬしの仕える神もかつては災厄をもたらす神として恐れられておった。その神から生み出されたおぬしは言わば我らと同類。なぜ我をこんな辺鄙(へんぴ)な地に(しば)りつけるような愚に加担する。
 そう言われて、タツミはサッと目が覚めた気がした。慌ててその言葉を否定しなければならないと感じた。心当たりはある。しかしそれは千年以上も昔の話、自身の仕える神がまだ人々に(あが)(まつ)られる前の話だ。
「我が神をそなたたちと一緒にするな。我が神、大物主大神様はこの国土を守護する神、人々に安寧をもたらす神である」
 ――よく言う。この国の民の大半を殺し、国の滅亡一歩手前まで追い込んだ疫神(えきしん)が災厄でないならなんであろう。民を根絶やしにしようなどとは、さすがの我でもせなんだわ。言うてみれば我よりも災厄の名に相応(ふさわ)しい。我はただ特定の人間の願いを叶えてやっただけ。その人間が敵対する民を殺したいと願えばそれを助けてやったにすぎん。(われ)、自ら民を滅するなど望んだことはない。
「我が大物主大神様は、千有余年前に大和国御諸山(みもろやま)に御鎮座遊ばされてこの方、この国を守護し、この国土を豊かにすることに尽力してきた。そなたたちとは違う」
 ――何が違う。為政者に祀られ、為政者の権力の届く範囲を守護し、為政者の権力を守ってやる。我がしてきたことと何が違う。違いはただ社をもつかもたないか。我は一つ所に縛りつけられることを好まぬ。我の社は地、我の庭は天、一つ所に囲われるなど我慢がならん。その違いだけだ。
 タツミは言い淀んだ。彼の頭の中に響いてくる声には濃厚な圧がともなっていた。それは神特有の威圧感。たとえその話す内容が自分にとって、いくら不条理で、無慈悲なことであっても間違いなく“正”であると思わざるを得なくさせる、その内容を推し量ることなど不敬であり、無駄でしかないと強力に明示してくる威圧感だった。我のようなただの眷属が抵抗するべき相手ではない、と思わず心が折れそうになる。しかし、自分のことを言われるのならいざ知らず、仕えている神のことを悪し様に言われれば黙っている訳にもいかない。
 ――おぬしの神は蛇体(じゃたい)の神であろう。大蛇(おろち)は昔からこの国では龍と同類と見なされてきた。そして我は龍神と崇められ、厄災の神と呼ばれてまいった。おぬしの神と同じようにな。
「見た目が少し似ているだけだ。そなたとは違う」
 ――ならなぜ、おぬしの神は姿を現さぬ。なぜ、山深くに身を隠している。他の神々や眷属に災厄の神と思われていることを誰より知っているのは、おぬしの神ではないのか。他の神々や眷属に信用されていないことを誰よりも分かっているのだ。だから、いらぬ嫌疑を掛けられないように甘んじて姿を隠しているのではないのか。
「なぜ、それを……」
 ――我はこの地に繋がっている。この郷に生じておることはだいたい分かる。そなたたちの嘆き哀しみも痛いほどに感じておる。おぬしらはなぜ、信用してくれない者たちと手を結んでおる。その身、その質を同じくする我に協力するべきではないのか。そう仕向けてやるのが、おぬしら眷属の勤めではないのか。
「詭弁だ。まったくもってそんなこと詭弁でしかない。そなたは世のためにならぬ存在だ。だから捕らえられて幽閉されている。我が神は人々から崇め奉られている。まったく違う」
 そんな災厄とタツミの言い合いに、禍津神の(さげす)むような声が割り込んできた。
「もういい。そろそろお前の同族が人間の女を連れきたようだ。水面に上がるぞ」
 続いて災厄の穏やかだが抗えない類の声が響く。
 ――まあ、待て。この者に分かってもらいたいのだ。我が言の葉を聞き入れることが、大物主神のためにもなるということを。大物主神が我の味方になれば、結界も破ることができる。かの神とて肩身の狭い思いをせずに済むようになる。すべてが丸く治まる。
 禍津神は一瞬、言い淀んだが、すぐさま口を開いて、あからさまに不機嫌そうな声を上げた。
「そんな神の助けなど必要ない。我がお前をここから助け出してやる。我の力を見くびるな」
 言い終わると禍津神は前方にじっと視線を向けた。最初にここに来た時からずっと感じていた。そこに(うごめ)く数限りない存在の気配。声は聞こえないが切実に何かを訴えているような気配。
 災厄の分御霊(わけみたま)を取り込んだ今、禍津神にはその訴えの内容がはっきりと分かる。その存在を目にしなくても、その者たちが、長い年月を掛けて腐敗した災厄の身を取り込み続けたことで巨大化し、巨大化したがために更に大量の取り込むものを求める渇望の声を上げていることを。
 我らは同類。我が意をあやつらに送る。我が威により意のままに動かす。
 禍津神はそのまま前方の蠢く気配へと向かっていった。悠々と、ひりつくような威圧感を周囲に撒き散らしながら。
 そこにいる無数の(まが)い者たち。その身体は禍津神と大差ないほどに肥大している。長い年月の間に、少しずつ数を増やしながら、少しずつ腐敗し、細分化していく災厄の身体を取り込みながら、力と飢えと渇きをその身に宿していき、やがて巨大な欲の塊の群れとなっていた。
 禍い者たちは常に取り込むものを求めていた。しかし、誰も目前の禍津神を取り込もうとはしない。その者は同類だと誰もが感じていた。そして誰よりも強い同類だと。
 煌々(こうこう)と輝く赤い目で、その何万といる禍い者たちを()めつけながら、その最奥の者にも間違いなく聞こえる大音声を禍津神は放出した。
「我は禍津神。そなたたちの(おさ)となるべき者。我がそなたたちの飢渇を癒してやる。そなたたちは我が意を酌み、我が意のままに動け。この水の上には神々の張る結界が巡らされておる。そなたたちは防ぎの薄そうな所を狙い、その結界を破ってくるのだ。結界の外に出れば、取り込むものは無数にある。必ずやそなたたちの飢渇を癒すことができるだろう。さあ、行け。その身に宿した災厄の力を余すことなく顕現してまいれ」
 言い終わり、少し間が空いた。やがて、そこかしこからモソモソと動く気配が伝わってきた。モソモソゴソゴソと辺り一面動き回っている。それらは一個の意志のように禍津神の正面に押し合いへし合い集まっていった。そして一体の例外もなく一つ所に集合すると動きを止めた。
「結界がどういうものか、お前たちがどうすればいいのかは、災厄の身体を取り込んだお前たちなら分かるだろう。その身に宿っていた智慧と記憶がお前たちに言うであろう。それに従い結界を破ってこい。さあ、行ってこい。己の飢渇を癒してこい」
 禍津神は手を振り上げた。すると一気に水流が渦を巻いて水面に向かって立ち上り、その流れに乗って巨大化した禍い者たちが次々に上昇していった。
 禍津神は(きびす)を返し、その様子を背にしつつタツミに声を掛けた。
「なあ、お前たちの社はただでさえ手薄なのに、今、眷属はいないのだろう。鎮守の神も姿を隠している。そこに大量の禍い者が現れたらどうなるか。いつまで結界がもつかな」
「そんなこと……。神々には誰も敵うはずがない。そなたの思い通りになどなるはずがない」
 タツミが発した苦々し気な言葉は無視して、禍津神は災厄に向き直った。
「もし人間の女の身体が手に入らなくても、我が結界を破ってやる。そなたの(いまし)めも解いてやる。こいつを連れて今から(くさび)を消しに行ってくる。おぬしが大地を宮とするなら、我もともにその座に着こう。おぬしが天を駆けるなら、我もともに駆けよう。我がそなたを助ける。おぬしは我を頼れ」
 ――ふふふ、いいだろう。良い報せを待っているぞ。
 タツミの身体がふわりと浮いた。そして禍津神とともに水中を上昇していった。
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