第八章四話 弾け飛び儚く消える

文字数 4,794文字

 渦の収まった湖面を、カツミは駆けながら春日神社(かすがじんじゃ)の眷属を何人も岸まで連れていった。中には溺れかけている者もおり、すでに溺れて気を失って浮かんでいる者もいた。そのすべてを手際よく岸の一か所に集めていった。眷属たちの中には女眷属もいたが、大半は男眷属だった。彼らは女眷属が渦から逃れる際の足場になるために湖面におらざるを得なかったせいもあり、その大半が渦に巻き込まれていた。
 もう他にはいないか、そう思いながらカツミは湖面を見渡した。その時ふと気配を感じて頭上高くに視線を向けた。いつの間にか日輪が中天高く昇っている。その陽のぎらつくような光の中を小さな影が真っ逆さまに落下してくる。あれは、空を飛ぶ正体不明の女か?

 ナミは完全に気を失っていた。重力に身を任せて湖面に向かって一直線に落下していた。その身体は背景が薄っすらと透けて見えるほどに密度が下っている。
 ツバメが飛んできた。一直線に、宙を切り裂くような勢いで、ナミに向かって。追いつくとナミの身体と並んで直下に飛ぶ。そしてすぐさま白い光を発して人型に変化(へんげ)し、ナミを抱き寄せた。
 また無茶なことをして。自分の霊力の残量を見誤るなんて君らしくない。すぐに霊力を……そうルイス・バーネットは思うが、チャクラを開いている余裕がない。
 送り霊同士では霊力のやり取りができる。それには身体の中心線にあるチャクラという穴を開かないといけない。しかし相手のチャクラを開き、自分のチャクラを開いて、霊力を注いで、という手順を踏む余裕が今はない。すぐに湖面に打ち付けられてしまう。かくなる上は、とルイス・バーネットは唐突に自身の唇をナミのそれに重ねた。二人の重ねた唇の周辺が白く光り出した。
 ナミは自分の唇が塞がれている感覚にハッと目を見開いた。目の前にルイス・バーネットの顔。
 慌てて両手で相手の身体を突き飛ばし、引き離した。何してんのよ、と怒声を発しようとしたその時、ルイス・バーネットは優しく微笑みながら、再び白い光に包まれた。
 光に包まれたままルイス・バーネットは水中に没した。ナミはギリギリのところで落下を喰い止め湖面を舐めるように水しぶきを上げながら少しの距離飛んだ。その時には、すべてを察していた。また自分の霊力が枯渇(こかつ)してルイス・バーネットに充填してもらったこと。チャクラを開く余裕がなかったために口移しでそれをされたこと。もう、私が気を失っている間に勝手にそんなことを、と思いつつ、ナミは湖面を見渡してルイス・バーネットが変化しているのだろう生き物の姿を捜した。無事に変化できたのか、それを確かめたかった。しかし彼女にそんな余裕などない。すぐに頭上から迫る、ぎらつく陽光の何倍もの圧力。
“来る!”そう感じた瞬間、彼女は水面を全速力で飛んだ。振り返り、禍津神(まがつかみ)がすぐそこまで近づいていることを確認した。くそ、まずい、そう思いながら正面に向き直ると、そこに小さな(ほこら)が水面に屹立(きつりつ)していた。慌てて横に旋回して避ける。そしてそのすぐ後に激しい衝撃音を聞いた。
 バチバチバチ、という電流が()ぜるのにも似た衝撃音が辺りに激しく鳴り響く。
 禍津神には尾の(くさび)の存在を示す、神々の力によって守られているその祠の姿は見えなかった。だから、勢いそのままに衝突した。そしてまともにその力の抵抗を味わい、そして(ひる)んだ。
 その怯んだ一瞬を見逃さず、ナミはすぐさま一方の岸に向かって飛んだ。最初に禍津神に出くわした際、結界の存在によって何とか逃れることができた。今回も結界の外にいったん出よう、とナミはとっさに判断した。
 禍津神は、少し前にカツミがその存在を示した尾の楔が今、そこにあることを察した。しかしまたその祠は姿を消していた。まあ、いい。先にあの目障りな女どもを(ほうむ)り去ってからゆっくりと捜そう。禍津神は再びナミの後を追った。

 ナミが向かう先、岸から少し中に入った林の中には春日神社の眷属たちの一団がいた。ぽつりぽつりと岸から上がってくる眷属たちを収容しながら、いったん結界の外まで撤退することに自然と指向していた。気を失っている者や負傷者を抱えながらじわりじわりと後退していた。
 まだ半数集まっていない。男眷属はほぼいない。みな渦に呑み込まれて水中に没したか。カツミが別の場所に他の隊員を救い出していることに気づいていなかったサホは、この場にいない隊員の安否を気遣いつつ後退の指揮を執っていた。その合間にもちらりちらりと繰り返し湖上の戦況が気になって視線を向けている。
 攻撃の手応えはあった。致命傷には至らなくても戦闘能力を著しく削ぐ戦果は上げたつもりだった。最低限の仕事はこなしたはずだった。しかし禍津神はまだ動いている。隊が全滅の憂き目を味わいかねない攻撃を繰り出してきた。危うく正体不明の女による不思議な攻撃によって難を逃れたが、一歩間違えば自分も湖の底に沈んでしまいかねない攻撃だった。手詰まり感が半端ない。もう、自分では何も対抗策を講じ得ない。この相手と対抗するには兵が少なすぎる。もっと兵がいる。この郷にいる眷属すべてを繰り出す必要がある。それなのに、他の社の眷属たちはいったい何をしているのだ。この状況を知らぬ訳でもあるまいに。
 サホはふと弱気になっている自分に気がついた。ひとに期待するなど我らしくない。戦況が(かんば)しくないからといって何を情けないことを自分は考えているのだ。ぐっと歯を喰いしばった。しっかりしろ、我は神鹿隊(しんろくたい)々長サホである。とりあえず結界の外に出れば相手の攻撃は避けられる。そこでいったん善後策を練るのだ。大丈夫、隊員たちはまだ健在だ。我が諦めてしまっては誰がこの郷を守る?大丈夫、まだ終わっていない、まだ負けてはいない。今は、ただ隊員たちをまとめて結界の外に……
「隊長」
 激しく自分を呼ぶ声が聞こえた。横を向くとミヅキに手を貸しながら自分の方に移動してくる睦月(むつき)の姿があった。
「もう、結界の外に出ました。いったん止まって兵が集まるまで待ちましょう」
 彼女たち眷属も普段の結界は視認することができなかった。しかし神の力によって生み出された彼女たちは同じく神々の力により造られた結界の存在を感じることはできた。改めて注意を向けると頭上に結界の存在を感じた。その存在を感じられないほど自分が追い込まれていたと知ってサホは一息長く吐き出した。
 その瞬間、頭上を何かがすさまじい速さで通過していった。それに続いて、おどろおどろしい気配。慌てて視線を向けるとそこには土気色の身体と赤い眼光。急速にこちらに向かってきている。
「総員、迎撃用意。負傷者は後方へ退がれ。弓矢を持つ者は射撃用意。持たぬ者は剣を抜け」
 睦月が三、四番隊に指揮を出しながら弓矢を手にした者を前面にその後方に剣を抜いた者たちを横並びに配置した。
 ミヅキは剣を抜いてサホのかたわらで控えていた。
弥生(やよい)は?」サホも剣を抜き放ちながら訊いた。
「分かりません」ミヅキは苦渋の表情をていして、自分が補佐すべき副隊長が生死不明である事実を受け止めた。
「ミヅキ」
「はい」
「代行しろ」サホは自分の片腕の不在に一抹の心細さと不安を感じた。しかしそれをおくびにも出す状況に今はない。ぐっと押し殺しながら指示を出した。
「は、はい」ミヅキは慌てて答えた。
「来るぞ、矢を放て」
「放て」ミヅキの精一杯の声に弓を引き絞っていた隊員たちは一斉に矢を放った。宙を貫きながら一直線に禍津神に向かって飛来していく。そのうちの何本かが土気色の身体を貫いた。しかし一瞬、怯んだだけ。再び勢いを増して突っ込んでくる。
「次、急げ」睦月の声に慌てて弓を持つ眷属たちは次の矢を弓につがえて引き絞った。
「放て」再びミヅキの大音声が響いた。更なる矢が禍津神を目掛けて飛び、またそのうちの何本かがその身体に突き立った。しかし、今度は一瞬も怯まない。勢いは弱まることはなく、とうとうその土気色の身体は結界の壁に突き当たった。
 頭上に極太い注連縄(しめなわ)の姿がはっきりと現れた。当たる勢いが尋常ではなかったせいか著しく激しい衝撃音が辺り一面に響き渡った。

 その音は離れた場所にいる恵那彦命(えなひこのみこと)たちの耳にもはっきりと届いた。
 禍津神が接触した結界は恵那彦命が管轄する東野村(とうのむら)の中に存在した。結界はこの郷の八村に鎮座する神々の力で造られている。そのため結界に触れる者がいればすべての神々にそのことが分かるし、攻撃を受ければ多少なりとも神々の身にも衝撃が走る。そしてそれは自分の管轄する地域に起これば誰よりも強くその影響を受ける。だから恵那彦命は思わず両膝を地に着けてしまうほどの衝撃をその身に受けていた。
 村の南側で何者かが結界に攻撃を加えている。その衝撃の大きさに尋常ではない存在を感じる。それは人間や眷属や(まが)い者ではない。間違いなく禍津神による攻撃としか思えない。しかし、例えそうだとしても一か所だけならその場に集中して力を注げば充分に防ぐことができる。しかし眼前に結界に取り付こうとしている禍い者の群れがある。加えて南方向から結界沿いを壁に接触しながらこちらに向かってきている多数の存在も感じていた。おまけに北側からも。いくら神とはいえその力は有限である。単体でも結界の崩壊を懸念されるような事案が複数押し寄せては一度には対応しきれない。もう、どうするか思案する余裕さえない。ぐっとこらえて何とか結界を守るしかない。しかしどの地点の攻勢も激しく容赦ない。ただでさえ眼前の禍い者たちの終わりの見えない出現に辟易(へきえき)としていたのに、南北からまた押し寄せてくる。南方向からはもうすぐこちらに辿り着きそうだった。
 その方向にはタマ、ヨリモ、蝸牛(かぎゅう)の三人が禍い者を次々に追っていた。羊飼いさながら前へ前へと禍い者たちを追い立てていく。彼らとしては当初の計画通りにこの東野村を通り過ぎ、その北隣の天神村へと誘導していくつもりだった。しかし、ふと気づくと進行方向に大量の禍い者による巨大な壁がそびえている。三人ともに、ああ、まずい、とは思ったがもうとどめる手立てもなく、そのまま禍い者たちの群れは前方の群れへと突っ込んでいった。
 どどどどど、と辺り一面を轟かせながら禍い者たちが前方の壁にぶち当たり、突き崩し、崩れ落ち、折り重なり、更に積み重なり、層となり、新たな重厚なる壁になっていく。すぐさま群れは宙空を目指して伸びあがり、次々結界に触れては弾き飛んでいった。
 恵那彦命は思わず苦悶(くもん)の声を上げた。何という圧迫感、何という息苦しさ。これは、とても(かんば)しくない状況だ。これ以上、気を張り続けるのは難しい……
 そう思っているところへ、北方向から同じような群れが近づいてくる気配が感じられた。目を()らせば遠目にその姿も視認できる。その群れがやって来てしまえば尋常ではない数の禍い者が集まってしまうことは誰の目にも明らかだった。しかし、勢いがついて迫ってくる。もう止めようがない。
 どどーん、と再び地が揺れ、大気が轟き、木々が震えた。恵那彦命は歯を喰いしばって耐え忍んだ。神、大丈夫か、とマガの声。だいぶ元の姿に戻っているみたいで、はっきりと声が発音されている。しかし、その声にも答えようがないほど、じっと耐えていた。何とか(こら)えられるか、と思った矢先だった。
 再び、南の方で禍津神によると思われる攻撃に結界が(さら)された。
 それはとても強く、とても濃い力。それのみでも耐え切れるかどうかというほどの感情の込められた、憎悪の塊のような、強大な力――

“ばちん!”

 郷全体に鳴り響く、激しく弾けるような音。
 一瞬、恵那彦命の意識が飛んだ。すぐに我に帰ったが、時すでに遅かった。
 一隅(いちぐう)(ゆる)みもなくぴんと張っていた、空中で注連縄として表されていた結界が、唐突に弾けた。弾けて飛んで、(はかな)く消えた。
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