第十章十話 神々を招く

文字数 4,570文字

 八幡村(やはたむら)で、襲いくる鉄砲水からかろうじて逃れた蝸牛(かぎゅう)は、その後もしばらく身動きが取れない状態のままだった。彼の全身をマガの伸び広がった身体がおおっていた。大木に伸ばした身体を巻きつけ、その中に蝸牛を幹に押し付けるように包み込んでいた。
 元から湿ったように潤いに満ちたマガの身体が、雨に濡れて更にべったりと密着して蝸牛の身体に重なっていた。やがて、蝸牛が息苦しさに不快を感じはじめた頃、その張り詰めていた力が少しずつゆるみはじめた。伸ばしていた身体が少しずつ蝸牛の背中に戻っていく。すべての身体が戻ってきたマガは、まるで樹木に寄生するカイガラムシのように蝸牛の背中にぴったりと貼りついていた。
「マガ殿、助かりました。そなたがおられなんだら我は今頃どこかに流されておったことでしょう」
 蝸牛が背中に視線を向けながら声を掛けた。マガはその背中でもぞもぞと動いてどこからか顔を持ってくると蝸牛に向けた。
「そんなことはいい。それより我は、どうやらもう歩くことができないようだ。そなたがいないとどこにも行けない。これからも頼む」
 いったいどうしてしまったのだろう?蝸牛は(いぶか)しんだ。あれだけ快活に、やや高い声を朗らかに発していたマガが人が変わってしまったかのように元気がない。その低く抑えられた声は気怠げで、苦痛を耐え忍んでいるようにも聞こえる。やはり玉兎(ぎょくと)殿を体内に宿してしまったせいだろうか。どんなに仲が良くても、どんなに親しくしていたとしても異物はやはり異物なのだ。それにもう歩くことができない、とも言った。どういうことだろう?マガは(まが)い者とはいえ、神と呼んでも差し支えない存在だ。もちろん蝸牛たち眷属よりも遥かにその身に内包する力は強大なはずだった。それなのに歩くこともできないとは?彼の身体に何が起きているのだろう?
「では、西へ、頼む。すまないが我は眠る。着いたら起こしてほしい……」
 蝸牛の思考を中断させるようにそう言うと、マガはすうっと眠りの世界へと旅立った。蝸牛は急に一人にされて、取り残されたような気分。それがために、ふと、こんなことどだい無理な話だったのではないか、マガ殿の家族を助けたいという思いにほだされてしまったが、最初っから恵那彦命(えなひこのみこと)が言っていたように諦めた方が良かったのではないか、無駄に犠牲者を増やしただけなのではないか、そういう想念がこんこんと湧き起こってきた。
 そう思いはじめると、全身ずぶ濡れの身体も、マガの身体も途端に重く感じられる。このまま進んでも意味がないのではないか、我が村に戻った方がいいのではないか、内から聞こえてくるそんな声に耳を傾けていると急に、自分を送り出してくれた飛梅(とびうめ)白牛(はくぎゅう)の顔が脳裏に浮かんできた。我の力を、我の意見を信じて送り出してくれたみんな。もし、ここで戻っても彼らは我を責めはしないであろう。でも、何もやり遂げることができなかった我は、きっと我に落胆する。みんなの信じてくれた思いに応えられなかった我に失望する。
 蝸牛はとっさに低く屈みかけていた背を伸ばした。もう、我は一歩進み出た。ただ前へ進めばいい。我は、我の下した決断を信じる。そして、再び蝸牛は進みはじめた。暗く、雨にぬかるんで歩行困難な道のりをゆっくりとではあったが、とどまることなく、しっかりと一歩々々確実に、歩いていった。

 ――――――――――

 ミヅキが雄叫びを上げながら、水龍を叩き斬った。
 これで三体目。水龍はそれぞれが意思を持っているようで、各個別々に、素早く、力強く動いている。加えて地を這うように遡上してくる湖水から槍状や鋭利な刃状の水が襲い掛かってくる。それを一つひとつ剣で防ぎながら少しの隙を突いて攻撃を加えていた。
 すでに身のすくむような気持ちはなくなっている。ただ、感情的になりきれていないことを自覚する。睦月(むつき)を、三番四番隊を殲滅(せんめつ)した相手への怒りは当然ある。これまでに感じたことがないほどの怒り、口惜しさ、やるせなさが渦巻いている。しかし、その反面、静かに相手の力量と自らの状態を見つめている自分もいる。相反する思考が自分の中で共存している。そして冷静な自分が、自分では睦月の(かたき)を討つことは不可能だと、ごく当然のように分析している。その声に忸怩(じくじ)たる思いが湧き起こる。感情のままに相手を成敗して、どうにか仇を討ちたい。しかし、それは無理だと、声がする。お前ごときが何をしても無駄だ、消滅することを恐れよ、と声がする。その声を無視したい。耳を塞いでも聞こえてくるその声を。
 民草(たみくさ)の娘の移動に連れて、水龍の群れが少しずつ社殿の方へと移動していく。もう、社殿以外の建物という建物はよくて半壊、ほとんどが全壊の状態だった。ミヅキもその横で奮闘しているカツミも自分の身を守るだけで精一杯で、それを止めることなどできなかった。
 くそ、少しも前に進めない。林立している水龍にはばまれて民草の娘に近づくこともできない。自分の能力の限界を噛み締めながらも、そんなことを認めたくない思いが強く胸中にある。諦められない。そんなミヅキの背後から弥生(やよい)の声が聞こえた。
「ミヅキ、退()がれ!」
 振り返る。他の隊員たちが社殿前に並び立ち、敵を迎え撃つ態勢を敷いている。ミヅキはとっさに隊と合流しなければならないという冷静な自分の声を聞いた。どこまでいっても感情一色にはさせようとしない自分の声を。
 サホも弥生も先ほど、睦月が発した伝令から報告を受けていた。二人ともに憤懣(ふんまん)やる方ない思いを抱いていた。しかし冷静さを欠いてはならない。慎重に隊として行動しなくてはならない。そうさせることが副隊長としての自分の勤め、そう弥生は自分に言い聞かせていた。そして常に、どんな時でも冷静さを宿している自分の補佐役が近づいてくる姿に視線を送った。
 その横でサホは憤怒の表情をていしていた。
 如月(きさらぎ)が創設し、自分たちが引き継いだ神鹿隊(しんろくたい)、手塩に掛けて郷中最強と言われるまで育て上げた戦闘隊、それをこの民草の女が壊滅させた。その事実がどうあっても許せない。眼前にいる民草が誰かに身体を乗っ取られ、それがまごうことなき災厄であることも、そして災厄の力が自分たちが対抗できるような生易しいものではないことも分かっている。しかし、それでも仲間たちの(かたき)を討たなければ気が済まない。隊長としても、一人の眷属としても。そやつは我が倒す、その一念しかサホの中にはない。
「隊長」かたわらから弥生の声が聞こえた。そちらに視線を移す。すると弥生が北の空を視線で示した。サホがその方向に視線をやると、少し離れた小高い丘から二筋の煙が立ち昇っていた。

 リサはすることもないので注連縄(しめなわ)の張られた区画の中で座り込んでいた。もう夜もたいぶ更けてきた。緊張のし通しだったが、こうして一息()くと途端に眠気に誘われ、うつらうつらと夢とも現実ともつかぬ境界線の上をふらふらと横揺れしながらたゆたっていた。するといきなりボウっと炎が燃え盛る音が耳に流れ込んできた。驚いて目を開くと如月が篝火(かがりび)の中に細かい粒状のものを投げ入れている。投げ込む度に炎が強く燃え、周囲の薄闇がそのつど、一瞬の間、勢力を減退させた。
 やがて篝火から太く濃い煙が立ち昇っていった。二つある篝火のうち、一つは乳のような白、もう一つは紅を引いたような赤色に染まって天空へと線を描いていく。
 しばらく如月が煙を立ち昇らせていると、そのうち社殿の方から太鼓を打つ音。
 ド、ドン、ドーン、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコドン、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコドン、ドンドコ、ドンドコ、ドーン、ドンドコ、ドーン、ドンドコ、ドーン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン……
 その音を聞いていると鼓動がだんだんと早くなっていく気がした。呼吸も少しずつ荒くなっていくような。少し息苦しい。リサは、これから何が起こるのか、再び不安が胸中に流れ込んでくる感覚を抱いた。そんな彼女の目の前に如月が静かに進み出て、そして太鼓の刻むリズムに乗って最初は緩やかに、次第に激しく回りながら踊り出した。
 ド、ド、ドン、ド、ド、ドン、ド、ド、ドン、ドン、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ、ドン、ドン、ドン、ドン……
 如月は太鼓のリズムに乗って回り続け、踊り続けている。その表情の見えない顔つきから何の思考もそこにはないように見えた。ただの無になって舞い踊っている。
 ド、ド、ドン、ド、ド、ドン、ド、ド、ドン、ドン……
 次第に太鼓のリズムが早くなり、それに連れて如月の舞いも速度を上げた。やがて如月は舞い踊りながら跳ねはじめた。ぴょーん、ぴょーんと跳ねながら、太鼓のリズムに身を任せ、くるくると回りながら、しなをつくって踊り続けた。
 それが見るからに最高潮に達した時、急に太鼓の音が止まった。如月はしばらく茫然とした様子で立ち尽くしていた。そしてがくんと(ひざ)を地に着け、荒い呼吸を繰り返しながら(うつ)ろな視線をリサに向けた。
「許せよ、娘。こんな時でなければ()(しろ)のことなど知らずに、平穏に暮らせていたのだろうがなあ」
 リサの耳にその呟きがそっと流れ込んできた。

 立ち昇る煙の合図と太鼓の奉奏(ほうそう)にサホは思わず歯を喰いしばった。そして少し隊長としての冷静さを取り戻した。春日神社の第一眷属としての如月が伝えようとしていることをはっきりと理解した。これは何よりも優先すべき指令。
 神々を招く準備は整った。そなたたちは事が成るまで時を稼いでいよ。そう確実に言っている。
 時を稼ぐのも難しいかもしれん。改めて眼前の敵を見てみるとそうとしか思えなくなった。心頭に達していた怒りがすうっと引いていく。しかし、まあ、逃げる訳にもいかん。サホは一息大きく吸った。その途端、覚悟が決まった。日頃の鍛錬の成果、今、発揮せぬでいつ発揮する、そう思った途端、眼前の水龍の群れから無数の水の刃が放たれた。
「防げ、何としても社殿に行かせるな」とっさにサホは剣を両手に構えながら怒鳴るように声を発した。

 座り込んだまま如月は目を(つむ)り、空に顔を向けていた。そのままジッと動かなかった。何事が起きるのか待ち続けていたリサも、もしかしたらこのまま何も起きないのかも、と思いはじめた。その矢先、カッと目を見開いた如月がそのままリサに顔を向けた。それまでどんな時でも穏やかだったその顔つきに言い知れぬ威圧感を感じた。全身から威厳漂う雰囲気が大量に漏れ出ていた。あからさまな如月の変調に、何?どうしたの?何が起こっているの?とリサはただ、ただ訝るばかりだった。
 如月は再び目を閉じた。そして少しうつむくとボソボソと洞窟を通る風の音のような太く多重な震動をともなう声を響かせはじめた。
「……この斎杉(いみすぎ)見遥(みはる)かして、この郷に鎮まる大神たちの御霊(みたま)(もう)さく……」
 その声がリサの身体中を震動させる。身体の芯を通り越して意識の最奥部まで響き渡ってくるように思えるほどの浸透力。
「……この民草の依り代にあもりませ……」
 やがて如月の声がやんだ。夜の静寂が濃く辺りを包み込んでいた。何も起きない?そう思ってリサが少しほっとした時、頭上に何か違和感を感じた。そして空を見上げた時、彼女の身体に大量の気が流れ込んできた。
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