第八章一話 神に襲い掛かる

文字数 3,915文字

 まずいな、と恵那彦命(えなひこのみこと)(ひと)()ちた。
 目の前で結界に取りついている(まが)い者たちはどれだけ倒しても、いつまで経ってもその数を減らそうとしない。逆に増えているような気さえする。更には自分の鎮座地である社から座を遷しているがために、村に不穏な空気が流れはじめている。村中を包んでいた生命力が薄れているかのように沈鬱な空気が漂いはじめている。きっと村中でここぞとばかりに禍い者が発生しているのだろう。いるべき場所に神がいない、鎮座する神の力が弱まるということはそういった事態を引き起こす。そろそろ民たちも異変に気づきはじめて不安に(さいな)まれ、騒ぎ出す頃だろう。何かのきっかけで犠牲者が出ることになるかもしれない。さっさと片付けて戻らないといけない。それは分かってはいるが、眼前の状況を放置していく訳にもいかない。焦る心は持ち合わせていなかったが、現状を苦慮する思考は持ち合わせていた。恵那彦命は一気に片をつけるべく大きく息を吹き出した。
 無数の小さな空気の波が禍い者の群れに向かう。壁となっていた禍い者たちの身体が千々に裁断され、辺りに飛び散った。更に盛り上がりはじめた群れに向かい、それが壁となる前に再度強く息を吹く。再び粉砕された無数の禍い者の身体が宙を舞った。幾度か同じようなことを繰り返す。禍い者の数が目に見えて減少してきた。神の力が禍い者の数の力を凌駕したように見えた。しかし、恵那彦命はふと視線の先に違和感を抱いた。また性懲(しょうこ)りもなく集まりはじめた禍い者たちの向こう、盛り上がっていく土気色の合間に見える湖面、その上を歩いてくる者の姿をその視線は捉えていた。
 その者は水の衣をまとい、湖面を滑るように移動していた。そよぐ風に長い髪をなびかせながらまっすぐに正面を向いて禍い者たちの群れに向かって進んでいる。
“眷属か?いや人間だ。しかし、水面を歩いている。そんな人間などいるのだろうか”恵那彦命の脳裏に疑問符と不安が湧いてきた。このままこちらに近づいてきたら禍い者たちに取り込まれてしまう。どうにかしないと。
「そこの娘、こちらへ来てはならない。すぐに逃げよ」通常、人間には自分の姿は見えないし、その声も届かないが、一縷(いちる)の望みを掛けて声を発してみた。予想通り、眼前の娘は歩みを止めず、更に近づいてくる。ただ、視線は恵那彦命を捉えているようにしっかりと向けられていた。そして、心なしかニヤリと笑ったような。
 恵那彦命は仕方なく、再び大きく息を吹き出した。集まりかけていた禍い者たちがこま切れになりながら地に落ちていく。しかし、湖面の人間はそのまま近づいてくる。もうすぐ岸に辿り着く頃合いになって水面から何体かの禍い者が浮上してその人間に襲い掛かった。
 あちゃ、これはいけない。そう恵那彦命は思ったが、少々距離が離れていた。すぐに駆けつければ間に合うかもしれないが、自分は結界を守らねばならない。結界のこちら側にいれば自分の身に危険は及ばない。結界を越えて禍い者に対することは危険をともなう。人間一人の命を守るには結界の重要性は大き過ぎた。諦めるしかない、許せ。恵那彦命は心中で呟いた。と、その時、その娘の周囲の湖水がいきなり動き出し、鋭く細い線状に変化すると娘に襲い掛かろうとした禍い者の身体を一刀両断にした。湖面の水はいつしか娘の周囲を取り囲む壁のように盛り上がっていた。その水は高速で娘の周囲を回っているようで、それに触れた禍い者は一瞬のうちに粉砕された。
 何だ、あの娘。恵那彦命は驚きを隠せなかった。とても人間技とは思えなかった。嫌な予感しかしない。
 岸に上がった娘の足下にはまだ水があった。それどころか背後から大量の湖水が彼女の動きにあわせて地表へと上がってくる。禍い者の群れのすぐ目の前に辿り着くと娘は口を開いた。
「お前たち、喜び(かたじけな)み奉れ。今から我がおぬしたちを使役(しえき)してやる。我の示す通りに動け」
 それはごく野太い声。とても若い娘の声には聞こえない。その声を聞いた途端、禍い者たちの動きが止まった。そしてあろうことかうやうやしく娘の動きにあわせて動き出した。意思を持たないはずの禍い者たちが、統率の取れた動きを見せている。いったいどういうことだ?先ほどまでの集団としての動きも今までにないことだったが、誰かの指示で動くことなどないものだと思っていた。それが禍い者の特性であり、弱みでもあったはず。それが今は粛々と娘につき従って移動している。
 結界の前まで進むと娘は片手を横に上げた。禍い者の群れの動きが一斉に止まった。一切の動きを止めていた。何の音も立てないほどに。そのまま娘は前に進んだ。そして結界に触れた。
 結界は八村の神々の力と意識が常に注がれている。だから禍の者が触れると、その感覚が神々に鋭く伝わる。恵那彦命は娘が結界の壁に触れた瞬間、(かす)かにその反応を感じた。しかしそれはほんの誤差の範囲と思えるほどの感覚。その時、恵那彦命は視線の先の娘が天満宮や八幡宮の眷属たちとともに社に来た人間の娘であることに気がついた。確かマコといったか。なぜ人間の娘があのような姿でこのような所にいる。湖面を歩き、禍い者を使役している。どういうことだ?
 結界は禍の者の出入りを(さえぎ)る。だから外見、人間であるマコは然程(さほど)の抵抗もなく通過することができた。マコは大量の水を付き従わせたまま結界の外に出た。ただ、禍い者たちはやはり結界を通ることはできなかったので、そのまま結界の前で待機していた。その禍い者たちへマコは手を軽く上げて合図を送る。振り返りもせず。
 瞬時に禍い者たちはその合図に従った。(またた)く間に重なり登り、結界の主要部である注連縄(しめなわ)目指して高く伸びた。それは今までとは異なった動きだった。それまでとしていることは同じでも、動きが違った。それまではどこかにためらいがあった。迷いがあった。どの方向へ行くのが正しいのか探りながら動いている向きがあったが、今はそんな様子は欠片もない。ただ真っ直ぐに伸びていく。そして、次々に縄に触れて弾け飛んで行く。どれだけ同類が弾き飛んでも決して(ひる)むことなく迷うことなく次々に縄に襲い掛かっていく。
 そのごく攻撃的な触れ方に恵那彦命は苦痛を感じた。圧迫されるような感覚。意識を集中していないと対抗することができそうにない。これは早いうちに駆除しておかないと、と冷静にだが危機感を含ませながら心中呟いて手のひらを上向きに顔の前に上げた。
 マコはそれまで滑るように移動していたが、結界を通り過ぎてからは、足元の水面上をズンズンと歩いて恵那彦命に向けて進んできている。その、上に向けている手のひらには水の塊が木漏れ日を内包して輝きを辺りに放ちながら流動していた。
 何をするつもりだ?恵那彦命が(いぶか)しく思っていると、マコが水の塊を乗せた手を軽く前方に向けて振った。すると水は瞬時に分かれて無数の小さな粒となって恵那彦命に向けて飛んできた。それは視認できないほどの速さで大気を貫いてくる。とっさに恵那彦命は息を吹き出し、自分の身体の前に壁を作った。その壁に小さな球体となった水が衝撃音を辺りに響かせながら突き刺さり、弾けて消えた。息で作った壁が届かない場所に立っていた木々の幹にいくつも穴が空いた。一瞬にして背後の風景が荒れた。
 びっくりしたあ、思わず声に出た。こんなに驚いたのなんて何年振り、いや何十年振りだ。そんなことを考えていると、目の前で再び娘が水を掴んだ手を振った。再度、息の壁を作って防いだ。こんな攻撃をしてくるなんて、どう考えても人間ではない。しかし、外見は人間であるし、気配にも人間のにおいが混ざっている。恐らく何かが()りついているのだろう。その何かとは、認めたくないが、こんな力を与えることができる存在など、他にはいないだろう。
「娘、気を確かに持て。攻撃をやめるんだ。自分を支配しようとする相手に対して抵抗せよ。自分を取り戻すのだ」
 恵那彦命の言葉が耳に届くとマコは軽く(あご)を上げて見下すような視線を向けた。
 何たる不遜(ふそん)、何たる不敬。本来なら神罰を与えねばならない案件だが、それもこのコの意思ではないだろう。さて、どうしたものか。無碍(むげ)に民を傷つけたくはないが、多少の犠牲はやむを得ぬか、そう考えていると背後から聞き慣れた声が迫ってきた。
「ちょっと待て。お前、暴れ過ぎだ。禍い者がいなくなる前に村が滅茶苦茶になっちまう。いい加減、落ち着けって。おい、マガ、聞いてんのか?」
 同時に木々が倒される音、何かが壊れていく音、何かが走り寄ってくる音、そして何かがけたたましく吠える声。
 それは獰猛(どうもう)なる(うな)り声を上げながら周囲の木々や家屋をなぎ倒しながら近づいてくる。それが自分のよく知っている存在だということは恵那彦命には容易に察せられた。きっと自分が社から離れたせいで村中に異変が起きているのだろう。それがマガの憤怒を呼び起こし、本性が現れたのだろう、ということも。
 マガはどすどすと重い身体を運びながら瞬く間に恵那彦命のいる方へ近づいてきた。かたわらには玉兎(ぎょくと)が跳ねながらつき従っていた。
「いい加減にしてくれよ。これいったい、誰が片付けるんだよ。どうせ俺にやれっていうんだろ。もう、たくさんだよ。いいよ、いいよ。気が済むまで暴れ回ればいい。もう、知らないからな。もうお前たちとは付き合ってらんない。俺は旅に出るから。他の社に行ってここの労働環境のひどさを訴えてやる。そうだ、伊勢の神宮に行って大御神様(おおみかみさま)に訴えよう。とにかく俺はもう、お前たちには付き合いきれないから。後はお前たちで好きにやってくれ」とぶつぶつ言いながら。
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