第十三章八話 繭の中から

文字数 6,150文字

 サホもカツミも災厄から発せられる威圧的な気の流れにただ圧倒されていた。更に頭が重く感じられる。思考が鈍重にしか働かない。
「おい、ぼーっとするな。災厄は(けが)れの固まり。生ける者の気を枯れさせる。と大神様が言っておった。おまけにこの腐臭。そなたらは、そんなに長く、ここにはおれんだろ」
 背後からの醜女(しこめ)の声にカツミははっと我に返った。
「そなたは大丈夫なのか?」
「我は死人(しびと)だ。我自身、穢れのようなものだ。影響ない」
 カツミはちらりとマコに視線を移した。マコは半睡状態といった感じでうつむいてふらふらと身体を揺らしている。そして少しずつ災厄の方へ、水面に向かって進もうとする。ただ、前面にサホがいるので何度か頭をサホの背中に当てていた。
「娘、押すな。落ちるだろ」
 サホも自分を取り戻したように、振り返ってマコに小さな声を掛けた。それでもマコはぼうっとしたままだった。
「このままここにいない方が良さそうだ。いったん外に出よう」
 小声でカツミが言うとサホも同意してマコと醜女をつれて外へ出た。
 
 カツミもサホも大きく息を吸った。まだ多少の腐臭は漂っているが災厄のいる空間ほどではない。何とか人心地ついた気分だった。ただ、まだ肺の中にねっとりと腐臭が残っているし、災厄から受けた威圧感の残滓(ざんし)に、いまだ身体が委縮している。
「災厄は俺たちのこと気づいていたな」カツミが言う。
「ああ、しっかりと見られている感覚があった」とサホが答える。
 実際に目に見えてはいないが、かっと見開かれた目がこちらをじっと見ている感覚を先ほどまで二人は味わっていた。
「気づいたにも関わらず、何もしてこなかったな」
「ああ、我らなど放っておいても何の支障もないと思ったのだろう」
「そうだろうか」
「というと?」
「災厄はもっと狡猾(こうかつ)で用心深いのではないか。これほど本体の身近にいるのに何もしてこないはずはない気がする」
「それもそうだな。すると災厄の意識が他に向かっていて、我らなど相手にしている余裕もないとか」
 二人は今まで伝え聞いていた災厄の性質に基づいて話していた。実際、災厄はリサに憑依させた分御霊(わけみたま)が知覚する情報を遠隔で感じ、そちらに集中していた。ここにいたるまでの道はできあがっておる。後は()(しろ)の民を連れてくればいいだけ。しかし地表の入り口から一向に地中へと下りてこない。抵抗する者たちがいる。苛立ちが募る。
「それから、気づいたか?」カツミが問う。
「何にだ?」サホが問い返す。
「災厄の背後に穴があった。恐らく地上へと通じている」
「本当か?」
「ああ、薄っすらと光が見えた。地上からの光が達しているのだろう」
「そうか。それならそこから地上に出て、仲間を募って戻ってくるか」
「うむ、それしか手はないだろう」
 二人とも、たった二人では災厄に対抗し得ないことを限りなく確信に近い予感として抱いていた。それなら人手を、対抗するだけの人数を集めるしかない。二人とも立ち上がった。
「そなたたち、逃げるなよ。逃げたら仲間は、我らがおいしくいただくぞ」
 二人の話を聞いていた醜女が声を発すると、サホがキッと睨みつけた。
「我は逃げぬ。必ず戻ってくる。それまでけっして仲間を食うなよ」
 醜女は不満気な顔をして目を逸らした。

 ――――――――――

“熊野神社里宮の大神の大前に天満宮眷属蝸牛(かぎゅう)(かしこ)み恐みも(もう)す……”
 蝸牛は板敷きの拝殿(はいでん)で座して低頭したまま、ここにいたるまでの経緯、東野神社の眷属である玉兎(ぎょくと)が災厄の分御霊の攻撃によって消滅の危機に瀕したこと、それを防ぐために恵那彦命(えなひこのみこと)がマガの身体を器としたこと、天満天神の勧めにより、創造の神である熊野神社の祭神に頼るためにこうしてやってきたこと等、なるべく手短に奏上した。
 蝸牛の横で清瀧(きよたき)も低頭していた。さすがの彼女も神の前では大人しくしていた。蝸牛の奏上が終わりに差し掛かった頃、拝殿横の扉が開き、クロウたち熊野の眷属が静かに参入してきた。
 奏上が終わった。しかし本殿(ほんでん)からは何の応答もない。とても静かな空気が流れている。とクロウが進み出て蝸牛たちの横に座って奏上をはじめた。
「大神様、先ほど中宮(なかみや)様が御姿を現され里に座を遷そうとされておられました。我らお止め申し上げましたが、力及びませんでした。何とも困っておりましたところ、ここにおられる蝸牛殿のお力により中宮様の行幸(みゆき)が止まり、お社へ還幸(かんこう)されました。蝸牛殿は我らをお救いくださった恩人でございます。その願いが成就いたしますようお力を現わさしめ給えと我らからもお願い申し上げます」
 蝸牛はマガの力を自分の手柄のように言われて少し困惑した。清瀧はその横で自分の名前が出てこないことを不満に思った。
 ――蝸牛とやら、この度は殊勝であった。
 静かな声。しかし一瞬にして全身に行き渡るような強く濃厚な声。威厳と例えるだけでは充分ではない重みを持った声だった。こんな声、初めて聞いた。
 もちろん天満宮の神である天満天神の声も充分威厳と格式を備えていたが、それに加えて悠久の時を積み重ねて重量を増したようなそんな奥深さが感じられる声だった。蝸牛の全身の神経が瞬時に張り詰める。有史以前、神代の時代から存在し続ける存在への畏怖の念が、彼の心臓を鷲掴(わしづか)みにする。蝸牛はあまりのことに返答もできずただ(ひたい)を床に(こす)りつけんばかりに平伏した。
 ――背を見せよ。
 言われて蝸牛は慌てて本殿に背を向けた。そのままピンと張り詰めた数秒が過ぎた。
 ――ふむ。東野神社(とうのじんじゃ)の相殿神はよほどこの眷属を救いたかったと見える。
 蝸牛は背中に圧を感じた。そしてふっと風が吹いてきたようにも。里宮様が何かしている、とは思いつつも恐れ多くて振り返ることができない。そして、唐突にトンと背中を突かれた。蝸牛が思わず上体を倒した時、背中からピキリと音がした。
 ――もう、大丈夫だ。あとは陽に当ててやれ。さすれば中の者は現れるだろう。
「大神様、(いや)(まつ)(かたじけな)み奉ります。早速、陽に当ててやります。境内の一隅をお借りします」
 とっさに向き直り再び低頭しながら奏上し、言い終わると蝸牛は清瀧を連れて外へ出た。
 拝殿に残ったクロウは再び奏上をはじめた。
「この度の中宮様の行幸はエボシの策謀によること。中宮様に責はありません。エボシはどうやら奥宮様に生み出されたことを知っておった様子。そのため黄泉(よみ)の宮の結界を解き、奥宮様を外界へと解放するべく策動したようであり、そのために中宮様を利用したようであります。大神様に甘言を奏し、村を荒らしたこと極刑に値しますが、これも養育した我らの責であります。今まで一度も拝謁が叶わない、自らを生み出した奥宮様に会いたいというエボシの気持ちも分かります。よってどうかご寛容なご処分賜りたく我ら一同、(ひら)に乞い()ぎ奉ります」
 言い終わる頃にはコズミ以下の眷属たちも全員、クロウの後ろに並んで平伏していた。
 ――よい。エボシの処分はそなたたちに任せる。またエボシの第一眷属の任を解き、クロウがその任に復するよう命ずる。
 慎みて拝命いたします、と平伏した後、少し頭を上げてクロウは奏上した。
「またエボシの策動により、八幡宮の眷属たちが災厄に依り代を与え、復活させようと目論(もくろ)んでおります。災厄に身体を与えた上で、この郷から追いやるつもりのようですが、それにつき、大神様の大御神意(おおみごころ)を拝受いたしたく乞い願ぎ奉ります」
 ――依り代を得た災厄に、今の和の乱れた我々では対抗できぬ。思い通りに災厄が動かなければこの郷の最期を見る他なくなる。よってそなたたち、依り代の民を守り、災厄を鎮めよ。
「大御神意、有難く拝受申し上げます」
 クロウが言いつつ平伏するのと合わせて他の眷属たちも頭を下げた。ここに熊野神社全体の、もう揺るぎようのない方針が定まった。

 いつの間にか陽は南東方向に高く昇っていた。ちょうどその方向に背を向けて蝸牛は(たたず)んでいた。その心中には、里宮の祭神である伊弉諾命(いざなぎのみこと)の言葉から玉兎はどうやら大丈夫のようだが、マガはどうなるのだろう、と時間が経てば経つほど増してくる不安を抱えていた。清瀧はその横で(ひま)そうにただ待ちぼうけていた。すると社殿からクロウを先頭に熊野神社の眷属たちが外に出てきた。
 その時、背中に動きを感じた。ビキビキと何かが割れるような音とともに。何か異変が起こっているのは間違いない。蝸牛はとっさに清瀧に背を向けた。清瀧は慌てて見えている状況を言葉にした。
「真ん中がぱっくりと割れてる。少しずつ割れ目が大きくなっている。中で何かが動いている。少しずつ中にいる何かが出てきている。まるで虫、さなぎから成虫が出てきているみたい」
 硬質化したマガの割れ目から出てきている白色は先ず背中を外に出した。やがて充分に割れ目が広がると身体を逸らし、頭を出し、腕を出した。そしてしばらくそのまま動かずじっとしていた。
「これは眷属?全身真っ白よ。頭に長い耳、髪も白い。白い衣をまとっている。動かなくなった。全身濡れているから乾かしているのかしら?」
 やがて、(まゆ)となったマガの身体にしがみついていたその者は静かに目を開いた。そして両足を抜き出すと地に降り立った。
「うーん、よく寝たな。ここはどこだ?君は誰だ?」
 伸びをしながらその者がすぐ側にいる清瀧に訊いた。清瀧はもちろんこんな光景初めて見た。だから唖然として答えるのを忘れた。
「玉兎殿!」
 振り返った蝸牛が驚きの声を上げた。眼前に立っているのはまごうことなき玉兎だった。ただ、彼の知っている玉兎はもっと身体が細かったが、一回り大きくなっている。それに頭にウサギのものらしき長い耳も生えている。
「おう、蝸牛。これはいったいどんな状況なんだ?全然記憶がないんだが」
 声を聞くと玉兎で間違いない。しかしこんな形で復活するなんて予想外過ぎた。
「そなた、災厄の分御霊に身体を刻まれたのだ。それで恵那彦命様が、そなたが消滅しないように一まとめにして、とりあえずの器としてマガ殿の腹中に収めた。そしてそなたを復活させるために今、熊野神社に来ておる」
「くっ、神め。やつの考えつきそうなことだ。まあこうして復活できたから良かったけど。あ、そうそう」
 そう言うと、玉兎は蝸牛の背後に回り、まだ背中についている繭の中に手を入れた。そして抜き出した手には一個の土気色した球体を持っていた。その両手に少し余るくらいの(まが)い者を玉兎は両手に抱えて再び蝸牛の前に進み出た。
「それは?」もしやと思いつつ蝸牛が訊く。
「マガだよ。こいつ、だいぶ荒振(あらぶ)って俺を取り込みかけていたみたいでな、マズイと思ったんだろう。残った力のほとんどを俺に与えて甦らせたようだ。だからこんなに小さくなっちまった」
 玉兎が小さくなったマガの身体を撫でてやるとその土気色の内部がくるくると流動した。その時、
「玉兎殿か?」と声を掛けられてそちらを向くとクロウたち熊野の眷属が近寄ってきていた。「事情はよく分からぬが息災のようで何よりだ」
「たった今、復活したばかりだからな。息災じゃないと困る」玉兎が答える。二人は神議(かむはか)りの場で何度か顔を合わせている。それほど話をした訳でもないが、顔見知りではあった。
「復活したてで申し訳ないが、これから我らは郷の中心に、災厄を退治しにいく。そなたたちはどうする?ともに行くか?」
 清瀧の目が輝いた。災厄を退治?相手としてこれ以上ない。だから、
「行きます。ついていきます」と即答していた。
 蝸牛は(ようや)く重い荷を降ろしたばかりだったが、この郷の状況からそんなことも言っておられない。こんな自分でも役に立つことがあれば是非行きたいと思い、
「我も参ります」と答えた。
 玉兎だけは、えー、とめんどくさそうだったが、
「どうせ、村に帰るためにはそっちに行かないといけないから、途中までついていくよ」と溜め息混じりに答えた。
 それから熊野神社の眷属たちは飛んで郷の中心に向かった。蝸牛は走ると遅れると思い、クロウの提案に乗って熊野神社の眷属二人の手を借りて、空を飛んで移動した。
 清瀧は他の眷属に身体を触られるのを嫌がって走っていくことにした。変化すれば飛ぶ眷属たちに負けない自信があった。ただ変化すると剣を持っていけないので、それだけは熊野の眷属に託したが。そして同じく玉兎もなまった身体を動かすために走っていくことにした。
 熊野村から眷属たちが出立した。郷の中心に向けて。

 ――――――――――

 巨大水龍の頭はリサの身体を乗せているために極力動かなかったが、尾の部分は激しく波打っていた。その先がタカシたちに向けて唸りを上げながら襲い掛かる。それを、如月(きさらぎ)が瞬時に間に割って入り一刀両断に斬り落とした。
 そんな場景を呆然と眺めていたナツミのもとへ如月が跳ねてきた。
蛇娘(へびむすめ)、わっちが合図したらあの民草の娘をその綱で引け。いいな、タイミングを間違えるな。わっちが合図したらその綱を投げるんだえ」そう言うとすぐに如月は巨大水龍に向けて跳ねた。
 ナツミは何よ、いきなり、と思いつつも鋼線を手繰り寄せながら後を追う。そんな二人を見ていたミヅキは正直、あまりの展開に気後れしていたが、ここはこの戦闘の潮目と自分を奮い立たせて如月を追った。
 如月は跳ねながら巨大水龍に近づいていく。そこに尾の先が唸りながら襲い掛かってくる。とっさにミヅキが割って入る。剣で受けるが尾の力に跳ね飛ばされる。その間に如月が巨大水龍の胴体に突っ込んでいった。そしてその太い胴体に剣を突き立てると叫ぶように言い放った。
「今だ、放て」
 とっさにナツミが鋼線を投げる。同時に如月が雷電を放った。これまでにないほど激しく大量に。電光が水龍の身体を駆け巡る。とっさにリサの身体が宙へ浮く。雷電を避けるために、水龍を見捨てて宙へ飛び上がろうとする、とその身体に鋼線が巻きついた。逃がさない、ナツミは力の限りに引いた。
 急に黒い線が(ゆる)んだためにタカシは後方に勢いよく倒れた。その身体をナミは瞬時に飛び退って避けた。そんな二人の耳朶(じだ)を大量の水が一気に地に落ちる瀑布のような音が震わせた。如月の雷撃を受けた巨大水龍は、災厄の分御霊との繋がりも切れたため瞬時に水に戻った。その身を構成していた大量の水が一気に落下したのだった。
 そしてナツミに引かれて宙を飛んでいたリサの身体が、引かれながら首を巡らせた。その目がナツミを凝視していた。とても冷たい目。相手の感情など一考することもなく相手を滅することのできる者の目がこちらに向いている。あ、やばい、ナツミは思った。逃げなきゃ。
 ナミもすぐに飛び上がりリサの身体に向かう。しかし相手を傷つける訳にいかない。圧縮能力が使えない。どうしようもない。
 その時、遠ざかっていくリサの身体に恵那彦命は狙いを定めていた。まだ風は集まりきっていない。しかし、もうそんなことを言っている場合でもない。現状の全力で、自ら息吹となって災厄の分御霊を依り代の娘から追い出し、遥か彼方へと送り出す。
 一瞬、恵那彦命の身体が、ぶわっと広がった。そして瞬時に一か所に収縮すると目にも止まらぬ一陣の疾風となってリサに、リサの中に存在する災厄の分御霊に迫っていった。
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