第二章五話 癒しの力でフクを得る

文字数 4,012文字

 そのまま数秒間の間が空いた。タカシがもう諦めて退散しようと思ったその時、タマが横に並び立って、(ささや)くように言った。
「お婆さんに腰やヒザが痛くないか訊いてみろ」
 タカシはそんなことを訊いてどうするんだと思いつつもその通りに訊いてみた。
「はあ、そりゃ肩も腰もヒザも痛いねえ。病院に行ってもこればっかりは治らない」
 再びタマがタカシに囁いた。
「じゃ、我がその痛みを治します。その代わりに服をください、って言ってから手をお婆さんの方へ差し出せ」
 タカシは再びタマの言ったことを老婆に伝え、両手を老婆の方へと差し出した。それに合わせて、タマが緩やかに両手を差し出しながら、白く輝く粉を老婆の全身に降り掛けた。すると、更に怪訝(けげん)な顔つきをしていた老婆がふっと目を見開いた。お、おお、と声を漏らしながら。曲がっていたヒザや腰が見る見る伸びていく。その顔に思わず笑みが浮かんでくる。
「こりゃ、たまげた。本当に腰やヒザの痛みがなくなった。あんた、いったい何者だい?」
 タマの白い輝きに(まが)い者を倒す以外に人体の不調を治す力があるとは知らず、老婆も驚いていたが、タカシも驚いていた。
「いや、なに、あれですよ、ただの旅人です」
「そうか、そうか。何にせよありがたい。旅してるってどっから来たんだい?」
「とても遠くから来ました。山の向こうのもっと先から」
「そうかい。しかし、何だってこんな山奥の何にもない土地に」
「人を捜しているんです。山崎リサっていう若い女性なんですが」
「はあ、ここら辺では聞かない名前だね。若い人は少ないからいたら知っていると思うんだけど」
 老婆は長年苦しんできた全身の痛みが一瞬にして癒えたことがよほど嬉しかったのか、立て板に水の話しぶりになっていた。
「で、あんた、服がいるって言ってたね。丁度いい。うちの主人はあたしたちの年代では珍しく背の高い人でね。恐らくあんたと同じくらいだよ。去年亡くなったんだけど、その服、捨てられなくてね。処分しないと、とは思っていたからお礼と言ってはなんだけど、あの人も誰かに着てもらえるのならその方がいいだろうしね。ちょっと待っておいで」そう言うと老婆は来た廊下を戻っていった。痛みが軽減したせいか足取りは軽い。
「君はあんなこともできるんだね」少し見直したという顔つきでタカシはタマの顔に視線を向けた。
「我の輝きは禍を消し去ることができる。禍は民草(たみくさ)の身体に入ると病気や身体の不調の元となる。だからその入り込んだ禍を消し去れば身体の不調もなくなるって訳さ」タマは少し自慢げだ。
「我々眷属とは簡単に言えば大神様の大御力(おおみぢから)の結晶のようなものなのです。通常、その御力を出し入れすることなどできないのですが、タマ殿にはその能力が備わっているのです。その力で禍い者を退治することもできるし、民草の病気を治すこともできる。加えて他の眷属の怪我を治すことさえできるのです」なぜかヨリモも微かに誇らしげだった。
 そんなことを話しているうちに老婆が白いワイシャツと濃い灰色のスラックスを手に戻ってきた。ヒザも腰も先ほどより伸びているせいか身長が高くなったように見える。タマの欠片を浴びて血行が良くなったのか額に汗がにじんでいた。
「これはうちの人が会合なんかに出る時によく着ていた服なんだよ。知り合いの仕立て屋に作ってもらったらしくて生地はいいものを使っているみたいだよ」
 手渡された服を受け取る。ワイシャツは生成(きな)りのような薄く黄色がかった色をしていた。さらっとした肌ざわりで、あまり服飾に詳しくないタカシでも触っているだけで高級なものなのだろうことが分かった。スラックスは生地の厚みはあまりなく、こちらもさらりとした手触りだった。
 タカシの身を取り巻いている白いもやの被膜はしっかりと身に着いているのだが、脱ごうと思って手を掛けると、するっと指が通り抜けてしまい、脱ぐことができない。仕方がないので彼はそのもやの上にもらった服を着てみることにした。
 服のサイズは少し大きめで、老婆の夫がかなり体格のよい人だったのかと思ったが、一緒に持ってきてくれたベルトを腰に巻くとちょうどいいくらいのベルト穴で締めることができた。きっと楽に着られるように大きめに作ってあったのだろう。今の季節にはありがたいことだとタカシは思った。服の下でもやは薄く身体に貼りついたままだったが、その上に服を着てもあまり違和感がなく肌着のうえに服をまとったような感覚だった。
「サイズ、ちょうどいいです。ありがとうございます」
 老婆に笑顔を向けつつ言った。これで、道中、生まれたままの姿で右往左往することは避けられた。そんなことになったらリサに会うどころの話ではなくなってしまう。
「そうか、そうか、えかったな」老婆も嬉しそうだった。その目はタカシの姿を見ながらもどこか記憶の中を漂っているようにぼうっとしていた。「その靴箱の中にあの人の靴が入っているから好きなのを選んで履いていくといい」
 タカシはそう言われて傍らの靴箱を開き中を覗いた。革靴や作業靴が並んでいる中に黒いウォーキングシューズがあった。まだ新しいように見える。
「ではこの靴をいただいてよろしいでしょうか」
 そのウォーキングシューズを取り出しながら老婆に示す。老婆が、ああ、ええよ、と言うのでそのまま履いてみた。爪先に少し余裕があったが、(かかと)が浮くこともなく歩きにくいこともなさそうだった。タカシはすぐにそのシューズが気に入った。
「ちょうどいいサイズです。ありがとうございます」
 そうかい、そうかい、ちょっとそこで待っておいで、と言いつつ老婆は正面の廊下を奥に向かって去っていった。少しして麦茶の入ったコップをのせたお盆を手に戻ってきた。
「玄関先で悪いけど、今日は暑いから麦茶でも飲んでいき」
 この申し出は大変ありがたかった。正直、暑い道中を経てきたために喉が渇いてしょうがなかった。こちらから申し出ようかと思っていた矢先の心遣いだった。とはいえ、タマやヨリモの姿を見ることができない老婆は当然、コップを一つしか持ってきていない。タカシはコップを受け取る前に二人の方へ視線を向けた。
「我らはちゃんと水筒を持参している。遠慮なくいただけ」とタマが囁くように言ったので、タカシは気兼ねなくその麦茶を受け取り、呑み干した。よく冷えていた。身体中の干からびていた細胞が活性化するような感覚。全身から安堵の息が漏れ出るようだった。
 ありがとうございます、と言いつつコップを返す。それを受け取りながら老婆は再び口を開いた。
「急いでいるところ申し訳ないんだけど、他にも体調の優れない者がおってな。できれば診てやってもらいたいんだけど」
 服を一式もらい、お茶の(ほどこ)しまで受けて断れるはずがなかった。タカシは快くその依頼を受けることにした。
「こっちだよ」玄関を下り、つっかけを引っ掛けてから老婆は外へ出た。三人はその後に続いて行った。
 家の縁側沿いに奥に向かうと、そこにしっかりとした造りの木製の犬小屋があった。中には中型程度の犬が一匹、鼻先だけ小屋の外に出して横たわっていた。近づいても動く様子がない。周囲に蠅がたかっている。そして近づくほどに鼻を突く異臭が漂ってくる。
「このコだよ。数日前からエサも食べない。動かない。こうして一日中横になってばかりだ。かろうじて息はしているんだけどね。お医者さんに診せようにも今、電話が繋がらなくてね。どうしようもなくて困っていたんだ。どうにかならないかね」
「分かりました。診てみましょう。お婆さんは少し後ろに下がっていてもらえますか。それから少し独り言が聞こえるかもしれませんが、気にしないでください」
 老婆は言われた通りに後ろに下がっていった。
 三人は更に犬小屋に近づいていった。一歩進むたびにすえたような腐臭が強く鼻孔に流れてくる。寝ている犬は柴犬だろうか、近づいてくる気配に気づいて薄く目を開いた。白く濁った色が見える。どうやら死んではいないようだったが、生気がほとんど感じられない。
「どうかな、助けられそうか」後ろの二人に訊いた。
「う~ん、分からないな。だいぶ弱っているみたいだし」とタマ。
「かなり濃厚な(けが)れの臭いですね。怪我でもしてそこが腐っているのでしょうか。それなら、まず、そこを治さないとどうしようもないですね」そういいながらヨリモは屈んで犬小屋の中を覗き込んだ。するとすぐにその身に緊張感が走った。「二人とも、あれをご覧ください。犬の下半身です」
 言われてタマも屈んで犬小屋の中を覗き込んだ。その横でタカシも同じようにした。犬小屋の中は、外が明るいこともあり、相対的に暗く目に映って分かりにくかったが、よく目を()らしてみると、犬の下半身を包むように存在する土気色の固まりがあった。
「あれは、(まが)い者……」
「ああ、どうやらあの犬を取り込もうとしたが、相手が大きすぎて取り込めなかったのだろう。そのまま取りついて気を吸いつづけているようだ」
「寄生しているってことか。じゃ、あの禍い者を消し去ればあの犬も助かるんじゃないか」
「それなら、私が退治いたしましょう。二人は危ないから退(さが)って」そう言いながらヨリモが前に進み出た。その時、三人の背後から突然、声が聞こえた。
「やめた方がいい。そんなことをしたらそのワンちゃん、すぐに息絶えてしまう。どちらにしても助からないだろうけど、最期に飼い主とお別れをさせてあげた方が良くないか」
 突如、予想もしない方向から予想もしない声が聞こえて、タカシもタマもヨリモも驚いて振り返った。視線の先には強い日差しに黒光りしている夜会服と山高帽、そして黒い革靴。老婆の横を通り過ぎて近づいてくる、その紳士然とした身なりや雰囲気をタカシは知っていた。前にいた世界で出会った、忘れようとしても忘れられない、ルイス・バーネットの姿がそこにはあった。
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