第十章一話 神狐の奮闘と楔の消滅

文字数 4,738文字

 とても濃い闇の中、何も見えない。
 すぐ横からいくつかのうめき声が聞こえる。誰の声なのかは見えないので分からない。ただ、自分の周囲にいくつかの身体があることが感じられる。どうやらとても狭い空間に何人かで閉じ込められているようだった。
 ここはどこ?我はいったいどうなってしまったのだ?やっぱり消滅してしまったのか?と思ったが、左肩から激しい痛みを感じる。まだ我は生きているのだろうか?
 ふと、自分のいる空間が動き出した。しばらく揺れていた。訳が分からない間に、急に空間が開かれた。
 月明かりがまぶしく感じられた。周囲を見渡す。ここは湖畔、そして自分の周囲を包んでいたものが何であったのか、すぐに悟った。
 それは無数の尾。神狐姿の宝珠(ほうじゅ)の背から扇状に生えている複数の尻尾だった。その尾を使って二枚貝ように何人かの眷属を包んでいたのだった。ああ、我はすんでのところで宝珠殿に助けられたのだな、と睦月(むつき)が思っていると目の前で宝珠が身体を光らせながら人型に変化した。そしてかたわらに落ちている睦月の剣を手に取ると、やおら振りかぶった。
 それは現実味のない場景だった。他の社の第一眷属が自分に向けて剣を振り下ろしている。あまりの意外な展開に、睦月は避けることもできなかった。そのまま左腕を肩もろともに、ざっくりと切断された。
 身体中を貫く衝撃、痛みなんて生易しいものではない、寸でのところで意識を保ったが、一瞬にして気が遠のいてしまいそうだった。とにかく、ごく身近に迫った消滅の予感に、慌てて座りこんだまま後退(あとずさ)った。しかし、すぐに宝珠が彼女に歩み寄り、右手を左肩の切断面に差し出した。その途端、激しい光りが手のひらから切断面に向かって浴びせられた。戸惑い驚く睦月の視線の先で、たった今、無くなったはずの左腕が(きら)めきながら再生されていった。
「あの(まが)の者により生じた傷は再生がきかぬ。よって取り除いた。与えた我の霊力に、そなたの身体が馴染めば、その腕も動くようになるだろう」
 そう言うと宝珠はすぐに周囲の地に転がっている仲間のもとへ向かった。どの眷属もすでに手遅れだった。すでに分裂しかけている者もいれば、傷が多すぎたり大きすぎたりして除くことができない者もいた。
 特に公表していなかったのであまり知られていないが、宝珠もタマと同じく、自分の身体の一部を相手に与えて治癒する能力があった。そもそも、その手ほどきをタマにしたのは宝珠だった。そして、その身体の容積も力も強い宝珠はタマに比べ、格段に治癒速度も能力も高かった。分裂がはじまる前ならたいていの傷は治癒させることができた。しかし、そんな彼でも周囲に転がる自分の部下たちのことは、諦めざるを得なかった。
 無念、と宝珠の心中は口惜(くちお)しさにあふれていたが、さっと気を取り直すと口を開いた。
「睦月殿、頼みがある。すぐに我が稲荷村に走ってもらいたい。我が社の第二眷属、秘鍵(ひけん)にこの状況を伝えてもらいたい。間もなく、災厄の力は解放される、各社(かくやしろ)と力を合わせて急ぎ対応せよ、と伝えてくだされ」
 なっ、と声を上げながら睦月は宝珠に視線を向けた。
「宝珠殿はいかがされるのか?」
 そんなこと訊かなくても分かる。この眷属は一人で災厄を宿した敵に対抗するつもりだ。一人で尾の(くさび)を守るつもりだ。
「我は、我の勤めを果たすまで」
 宝珠の視線の先でマコの身体は悠々と(ほこら)に向かって歩み寄っている。その背後で次々に湖水が立ち昇っていた。彼らの身長よりも高く、しなやかに。そのそれぞれに顔があり、細長い顔の先には鋭い牙の並ぶ大きな口、鹿のような角を生やし、その目で生き残った眷属がいないかどうか探るように辺りを睥睨(へいげい)していた。その姿、まさに水龍と呼ぶに相応(ふさわ)しい有り様だった。
「それなら我もともに」
 どれだけの数が生み出されているのだろう。湖面は林のように水龍が辺り一面を埋め尽くしている。そのうち、近場にいたものがこちらに気づいたようで急速に身体を伸ばして襲い掛かってきた。
「無駄だ。あの者に我らの攻撃は効かぬ。どれだけ時間を稼ぐことができるかどうかだが、そなたがおったところで大差ない。それよりも早く我が村に知らせてもらいたい」
 水龍が口を大きく開き、牙をむき出しながら襲い掛かってきた。その瞬間、宝珠の背から一本の尾が身体の前に伸び、その攻撃を防いだ。水龍は宝珠の尾に当たると粉々に砕け、飛沫(ひまつ)となって地に落ちた。途端に湖面にいる無数の水龍たちが宝珠に顔を向けた。そして一斉に襲い掛かってきた。
「早く行ってくれ。頼んだぞ」言い終わると同時に宝珠の身体は大きな神狐姿に変化した。そして、背後に、扇状に並ぶ厚みのある尾を、自らの前方に伸ばし、襲いくる水龍を次々に防いでいった。
 宝珠は(いちじる)しく防御に()けた眷属だった。その尾に防げないものはなく、どのような攻撃もその尾が弾き飛ばし、吸収していった。反面、その攻撃力はそれほど高くなく、人型であれば剣や弓矢を使い、狐姿の場合は、接近して噛みつくか、体当たりするしかなかった。通常、彼ら稲荷神社の眷属が難敵に当たる場合、群れの防御は宝珠が受け持ち、攻撃は、単体での攻撃力では郷内随一と(もく)される秘鍵が受け持っていた。
 この場に秘鍵がいれば、と思ったが、しかし、秘鍵はいない。我がどれほど尾の楔を守護することができるのかは分からない。恐らく他の眷属たちがやってくる前に尾の楔は消滅してしまうだろう。後は、神々の力を結集して(いまし)めの解かれた災厄に対抗してもらうしかない。そのために、一刻も早く状況を伝えて対応策を練ってもらわねばならない。睦月殿が我が村に無事向かえるように、何とか時間稼ぎをせねばならない。
 数えきれないほどの水龍が襲い掛かってくる。そのいずれも防ぎ、砕いた。やがて、水龍に交ざって水の(やり)や鋭利な刃となった水が襲い掛かってきた。そのすべてを防ぎ続けた。ただ、あまりの多重攻撃に少しずつ宝珠の尾は削られていった。太く厚い尾が少しずつやせ細っていく。
 そんな宝珠の姿を見ながら睦月は観念した。宝珠殿の思いを無駄にしてはならない。まだ腕は動かない。変化(へんげ)はできない。だから剣を右手に持つと、そのまま北に向かって走り出した。その姿に気づいた水龍が何体も追っていく。それを宝珠が尾を伸ばして防いでいく。
 いつまで経っても攻撃はやむ気配を見せない。しかし防いでいるうちに、睦月の姿は林の中に消えた。どうか、逃げのびてくれ、そう心中呟きながら、尾の隙間から湖面の様子を窺う。マコの身体が水面に立ち止まっていた。首を巡らせて赤い目をこちらに向けている。しかし、こちらに向かって来ようとはしない。特に興味もなさげに前に向き直ると、再び祠に向かって歩きはじめた。
 その様子を認めた途端、宝珠は湖面を走り出した。全身を尾で守りながら、一直線にマコの身体に向かった。一斉に水龍や水の槍が集中して攻撃してくる。数えきれないほどの攻撃を受けるが、そのすべてを防ぎ、粉砕していく。少しずつ、少しずつ、尾を削られ、喪失しながら。
 もうすぐ辿り着く、という地点で宝珠は跳び上がった。そして空中から一気に降下して、マコの細い首筋に向けて襲い掛かった。
 その途端、厚い水の壁が湖面からせり上がって、マコの身体をドーム状におおい隠した。宝珠はその水の壁を蹴って更に跳ぶとマコと祠の中間地点に降り立った。
 あの壁は我では破れない。やはり無理だったか。そう思いつつ、水中に沈まないように、すぐさま宝珠は駆け出した。と、その瞬間、水の壁を通り抜けてマコの身体が眼前に突如現れた。突然のことに一瞬たじろいだが、すぐさま飛び掛かる。
 しかしその間際、マコの目がランッと激しい光を放った。それは血よりも濃厚な赤。瞬間的に宝珠の身体は背後に弾き飛ばされ、受け身を取る間もなく、激しい衝撃音を辺りに轟かせながら、祠へと打ち付けられた。その尾はもうすでに細く痩せた一本のみ。そして、もう防ぐ手段もなくした宝珠の身体に無数の水の槍が突き立った。

 自らの身体に楔が打ち込まれてからもう、かれこれ千年は経つ。結界はその一定の区画の外に出られないだけで、不便ではあるが、まだ身動きが取れるだけましであった。災厄を長年苦しめたのは動けず、その力も封じる楔の存在だった。
 その頭部と尾に堅固に突き立っていた楔の片方、頭の楔が幸運にも地の揺れによって割れた地の中に落ちていった。これはまさに大地の意志。この国そのものとも言える大地が我の再起を望んだのだ。残る尾の楔が破壊されることも大地が望んだ定め。我は粛々とその定めに従ってこの忌々(いまいま)しい祠をただ破壊する。
 マコの赤い目がカッと見開かれ、凝縮された力が破裂するように一気に輝きを増した。マコの中の意識はまったく力を制御する気もなく、積年の鬱屈を晴らすように眼前の小祠(しょうし)、そしてそれに(はりつけ)られている神狐姿の宝珠に向けて力を放った。
 破裂音を発しながら一気に瓦解した。粉々に飛び散り、更にその欠片が細分化し、粉となって大気に溶けていった。祠に関する一切を、宇賀稲荷神社第一眷属の身体もろとも余すことろなく粉砕した。その瞬間、月明かりに照らされた湖面が激しく揺れた。しかし、次第に揺れが収まり、また(なぎ)が戻ってきた。そこにはもう、祠も宝珠の姿も、一片の欠片すら残っていなかった。

 千年という年月、そこにあり続けた楔が呆気なく消えた。その様子に思わずニヤリと笑うとマコの身体はそのまま南に向けて歩を進めた。その背後で湖面全体が大きな渦を作り出していた。
 その湖全体を巻き込むような巨大な渦は中心部分で盛り上がり、一本の巨大な水の柱となって上空に立ち上っていった。それはまるで昇龍のように。
 マコの中の意識はごく確かな手応えを感じていた。力が解放された。もう、我の邪魔をする者も、邪魔できる者もいない。我は自由だ。しかし、如何(いかん)せん身体がない。長い年月の間に腐乱して禍い者に取り込まれてしまった。身体がなければこの地から離れることができぬ。それではこの郷に鎮まる神々と同じではないか。我はこの国全体に君臨するのだ。この郷の神ごときと同等ではあまりに物足りぬ。我の()(しろ)になれる娘を見つけねば。災厄の意識は感じ取っていた。
 その存在が南にいる。

 ――――――――――

 境内は蜂の巣を突ついたような喧騒(けんそう)に包まれていた。
 休んでいた神鹿隊(しんろくたい)の隊員をはじめ、すべての春日神社(かすがじんじゃ)の眷属が社殿前に集合を命じられた。昨日からの戦闘の疲労もあり、まだ夜明けまで時間があることもあり、ほとんどの者が深い眠りに落ちていたところだった。鈍重な身体に鞭打って身支度を調え社殿前に急行していく。そんな喧騒に、宴の後、疲労感から早々に眠りについていたタカシは目を覚ました。ともに眠っていたマサルやカツミもすでに目を覚まして外の様子を窺っていた。何か異変が起きたことが予想される。不穏な空気が周囲を包んでいる。奥の部屋からナツミも出てきた。
「何の騒ぎ?うるさいったらありゃしないわ」
「分からない。しかし、春日の眷属たちの慌てぶりからして尋常じゃないことが起きたみたいだ。ちょっと探ってくるか。お前たちはここで待ってろ」そうカツミが答えている間に、ナツミの後ろからまだ眠そうな顔をしてリサが出てきた。寝ぼけが勝ってまだ状況に不安を感じるにはいたっていない様子だった。カツミが一人で玄関に向かっていると、たどり着く前に玄関の引き戸が開いた。そこには弥生(やよい)が三人の女眷属を引き連れて立っていた。そして、ごく厳しい顔つきをして張り上げるように声を発した。
民草(たみくさ)の娘、我が大神様が拝謁を許された。すぐに身を正してついてまいれ」
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