第九章十話 新しい卦

文字数 4,774文字

 八幡宮境内には篝火(かがりび)が焚かれ、空を突くような背の高い(はた)が幾本も風になびいていた。
 社殿前、幕が張られた広庭に紺色の狩衣姿のマコモが、胡床(こしょう)と呼ばれる木を組んで座面に布を張った椅子に座り、前面に鋭い眼光を放っていた。
 その眼光、微動だにせぬその大きな体躯、への字に曲げられた口、元から多分に持っている威圧感が今は更に増幅されたかのようで、これ以上ない近寄りがたさを周囲に放っていた。現に境内にいる他の眷属たちはなるべく近づかないように、目を合わせないように意図して遠ざかっていた。
 ただ、そんな第一眷属が放っている威圧感をまったく気にする様子もなく、クレハがすうっと音もなく近づくとそのかたわらに立ち止まった。
「部隊遠征の準備が整いました。明朝、日の出とともに出立できます」
 マコモは視線も向けず、口を開きもせず、ただ、うむ、とだけ返した。見た目、不機嫌この上ないような様子だったが、クレハは臆する様子をおくびにも出さずに続けた。
「やはり、マコモ殿直々に出向かれるのですか。尾の(くさび)の警護には稲荷や天満宮の眷属たちもすでに向かっております。我にお任せになられてはいかがでしょうか」
 マコモはギロリと視線を向けた。別に特段、不機嫌ではなかったが、内心モヤモヤとした思いは多分に抱えている。
 八幡村(やはたむら)に張られていた結界にも巨大な(まが)い者たちが群れ成してやってきた。しかし、彼らが討伐に向かうと戦闘らしい戦闘をする前に、早々にその群れは東側、天神村方向へと移動していった。また、湖となった郷中心部に禍津神(まがつかみ)が現れ、神鹿隊(しんろくたい)からの援軍要請がきた際にも、部隊編成し、大神からの出立の許しを待っているうちに機を逃してしまった。そして、結界が破られた。自分たちが何もしないうちに状況が次々に悪い方向へと進んでいる。それがマコモには何とも面白くなかった。
 次に迎える最悪の事態としては尾の楔を喪失すること。これだけは何としても阻止せねばならない。その兆候はまだ見えないが、現状、何が起こるか分からない。気ばかり焦っている。それにしても、昨日から大神様の裁可がなかなか下りない。ここは何としても自分たちが群れを成して出向かなければ事態が収拾できない、と繰り返し進言しても、なかなか首肯(しゅこう)してもらえなかった。
 察するに、自分たちは災厄が復活し、郷中のすべての社を上げて対抗する場合、眷属たちの中枢になるべき立場であった。そのために温存させたいのかもしれない。災厄が復活する前に自分たちを消耗させたくないのかもしれない。もしかしたら大神様はもうすでに災厄が復活する予感を得ているのだろうか。しかし、それでも何とか復活させないように手を打ちたい。何もせず状況が悪くなっていくのを漫然と見過ごすのは耐えがたい。
 とはいえ神の許しがなければ動き出す訳にいかない。結果、神の裁可が下りるのを待つ間に時ばかりが過ぎ、早くも鳥目な彼らが行動するのには(はなは)だ不適当な夕陽の(くだち)の頃合いを迎えてしまった。かろうじて他の社の眷属たちを、尾の楔警護への援軍として差し向ける裁可は下りていたので、その旨、各社に伝えた。早速、稲荷神社と天満宮の眷属たちが向かったようだ。どうやら稲荷神社は第一眷属である宝珠(ほうじゅ)が指揮を執っているようだ。きっと自分の村内にあった頭の楔が消えたことに責任を感じているのだろう。稲荷神社が主力を差し向けている現状、余程のことがない限り、尾の楔が消え失せる事態にはならないだろう。とりあえずは何が起きても対応できるような態勢を敷いて、我らが動くのは明朝、日の出とともに……。
 そんな思考を繰り返しているうちに、二つの黒い影がどこからか飛んできて、境内に降り立ったかと思うと彼らの前に歩み寄ってきた。
「マコモ殿、クレハ殿、先日ぶりですね。出立する前で良かった。至急お伝えしたいことが」
 山伏(ぜん)とした身なり、背負っている大きな黒い羽根、先日の神議(かむはか)りでも会った相手だ。
「これはエボシ殿、コズミ殿、いかがなされた」
 卜占(うらない)の見立てでも知らせに来たのか、このような時に、とクレハは思う。
「お察しのこととは思いますが、新しい()が出ました。どうか謹んでお受けください」
 マコモの鋭い眼光にコズミは威圧されていた。実際見たことはないが、マコモの眼光は、それだけで禍い者を退ける力があるとか。分からぬでもない、とコズミは独り()ちた。そんな部下の前でエボシは毅然とした様子を見せていた。我とても第一眷属である。威圧されて小さくなる訳にはいかない。
「お伺いしましょう。ただし、現状、大神様はすでにお休みになられておる。奏上は明朝になる」
 クレハの言葉にエボシは内心ニヤリとしつつ姿勢を正し、懐中から取り出した料紙を開き、読み上げはじめた。
  卦に(いわ)く、 
  天に昇りし水が 地に降り注ぐ
  天神村から 禍津神
  八幡村に 入り来たり
  総社の村に 災禍(さいか)成す
  災厄を宿す者 現れ出ずる
  地を護る者 なすすべもなし
  災厄の欲するものを (にえ)となし
  礼を尽くして 鎮めるべし
 なっ、とマコモが思わず声を上げた。同時にクレハも目を見開いて声を上げた。
「何だと?禍津神が我が村に?どういうことだ?災厄を宿す者だと?いつ、どこに現れる?贄だと?礼を尽くす?何を言っているのか分からん。どういうことだ?」
 八幡宮の眷属たちとは対照的に、落ち着いた様子のエボシの後ろでコズミは動揺していた。
 卜占の判定内容が変わっている。尾の楔が無くなることが省かれている。八幡村に禍津神が?そんなこと聞いてない。戸惑っていたが、それを悟られないように、ただうつむいて黙っていた。きっと何か考えがあってのことだろう。我は状況の流れに従うだけだ……
「天神村から禍津神がこの村にやってきます。その者はこの村に災いをもたらすでしょう。八幡宮の皆様はこの村に留まり、来訪する禍津神に対抗せねばなりません。また、災厄を宿した者が、どことは分かりませんが、現れます。その者に逆らってはなりません。その者の欲する者、恐らく民草(たみくさ)でしょう、その者を贄として捧げなければなりません。そうしなければ、この郷は……」
「そんなことがあるか。そんな馬鹿げたことが。禍津神は天神村から来ると言うが、天神村の者たちは何をしておるのだ。そんな報告など受けておらんぞ」
 クレハがエボシの言葉を(さえぎ)って、興奮気味に言い募る様子に、エボシはますます落ち着いた姿勢で対した。
「天神村では特に争うこともなく、禍津神は天神様に拝謁した後、誓約(うけい)の子らを引き連れてこちらに向かっておるようです」
 マコモの眼光が更に鋭くなった。クレハのまなじりにも怒気が含まれた。コズミはますます顔を上げられなくなった。
「それは、その禍津神がこちらに来ることを天神様が容認されたということだな。誓約の子とはヨリモとタマ殿か。その者たちがともに来るということは、その禍津神に戦意はないということではないか。ただ、来るだけなら警戒することもあるまい」
「そうでしょうか。その禍津神は恐らく東野神社の相殿神(あいどのしん)。東野村から外には出さないことになっていたはずのその者がなぜにこの村にやってくるのでしょう。それにその者に他意はなくとも、こちらの村に差し(さわ)りがあるなら除くに()くはないでしょう」
「うむう、確かにその禍津神が我が村に災い成すと卦に出ておるのか?」
「ええ、間違いなく」
「しかし、(にわ)かには信じ難い」
「まだ、そんな悠長なことを言っておるのですか?先に伝えた卜占の見立てもそちらが信用しなかったために頭の楔は消え、結界も失せてしまったのではないですか。もう、皆さんの思考の範疇を越えた次元に状況は追い込まれているのです。いい加減、我らの卦に間違いがないと認め、我らの言を信用して動いてください」
 静かだが、あからさまに相手を責めるような声音だった。クレハはそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。
「マコモ殿、よろしいですな。我らの言を信用し、この場に留まり、禍津神に対応してください。また、災厄を宿した者に手出しをしないように、各社にご通達された方がよろしいかと」
 そう言われるとマコモはすくっと立ち上がり、
「大神様にお伺いを立ててみる」とだけ言うと、さっさと社殿へと向かっていった。その後をクレハが追った。その心中には、お休みになられている大神様を起こすとすごぶる機嫌が悪い。口下手なマコモ殿だけでは難儀されるだろう、という思いがあった。
 その場に残されたエボシの背後にすっとコズミが近づき、小声で言った。
「エボシ殿、先ほどの卦は……」
 するとすぐにエボシが振り返りもせずに返す。
「お静かに。誰が聞き耳を立てているか分かりません。我に任せておけば大丈夫。安心しなさい」そう言うと、エボシはさっとカラス姿に変化(へんげ)したかと思うとさっさと夕闇の中を飛び立ち、八幡宮の裏手にある山に向かって飛んでいった。コズミも慌ててその後を追った。
 四人が去って、辺りは静寂に包まれた。すると幕の裏でずっと聞き耳を立てていた小さな生き物が動き出した。自分たちのねぐらであり、仲間たちが待っている八幡宮社殿の裏にそびえる大楠の根元まで一目散に駆けていった。こりゃ、えらいことになりそうだ、と思いながら。

 ――――――――――

 トクン、トクン、トクン……
 湖の底深く、水泡の中に横たわっているマコの身体から鼓動が聞こえる。
 トクン、トクン、トクン……
 微かな水流に漂いながら、やむことなく鳴り続けている。
 トクン、トクン、トクン……
 しかし、どれだけ経ってもマコの目が開くことはなかった。
 もうこの娘は諦めるしかないようだ、と災厄は独り言ちた。
 マコの身体は無数の外傷に覆われていたがその内側、骨や内蔵にも重篤な傷を負っていた。生きているのが不思議なくらいに。ただ、彼女が目を覚まさない要因は、それよりも災厄の気を身内に入れたことの方が大きかった。一定時間を超えて、災厄の(けが)れに(さら)されたために、魂が枯れた状態に(おちい)っていた。ただ、恵那彦命(えなひこのみこと)の息吹、神の気を最後に浴びたがために、かろうじて命を繋げている状態だった。
 この娘の魂には祓戸(はらえど)の神の気が入っている。それ故に、その魂がそこにある限り我の御霊とは交わらず拒絶する。仕方がない、この者の魂を退けて、我の分御霊(わけみたま)を遷そう、そう災厄は決めた。
 災厄としては人間の身体に憑依することは容易(たやす)い。その人間が生きていようと死んでいようと関係はない。死んでいる人間の身体に憑依すれば、その魂の抵抗に遭わずに済む分、力が発揮しやすいし、遷せる御霊の量も増す。ただ、死んでいる生き物の身体はすぐに痛んでしまう。硬直するし、腐るし、すぐに使い物にならなくなってしまう。穴の空いた風船のように、一定の時間が経てば入っている御霊が少しずつ目減りしてしまう。もって一刻(いっとき)(約2時間)か。
 だから今まで災厄はマコが目覚めるのを待っていた。マコの意識を服従させて自分の分御霊を遷して、再び放つつもりだった。しかし、目覚めない。この状態では、神の気が邪魔になって憑依が難しい。やはりこの娘の魂を除くしかない。大丈夫、もう結界はない。尾の楔の()()も分かっている。後は尾の楔を破壊し、真の依り代を見つけ出し、我の御霊を遷すだけ。
 水流が動き、マコを包む水泡が静かに移動していった。
 トクン、トクン、トクン……
 水泡の前に巨大な目が現れた。らんらんと輝く真っ赤な目。
 トクン、トクン、トクン……
 その目の光りが突如、激しさを増した。同時にマコの身体が波打ち、その両目がカッと見開かれた。
 トクン、トクン……トク……
 すっとその目から生気が抜ける、瞳孔が開いていく。身体は静かに横たわり、もう少しも動かない。
 トク、ン、ト……クン、ト、…………
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