第三章九話 水底の邂逅

文字数 4,626文字

 気づくと、沈んでいた。
 身体の自由が利かない。抵抗もできず、水の流れに翻弄(ほんろう)されながらも、底に向かって沈んでいく。
 そのうち底に到達したが、そこにとどまることはなく、更に水流にあちらこちらへと流されるうちに、湖底に開いた大きな割れ目の(きわ)に達した。もう、自分の視力が失われてしまったのか、そこまで光が達していないせいなのか、何も視認することができない。それでも、割れ目の中は、とても深く、限りなく暗いことが何となく感じられた。そしてその奥深い更なる地の底から何かが自分を呼んでいるような気もした。
 何だろう、と思っていると、ふと水流に押されて、その割れ目の中に落ちた。吸い込まれるように、引き寄せられるように。
 どこまでも、どこまでも終わりなく落ちていく。光もなく、音もなく、感じられるのは自分の途切れ途切れのごく薄い思考だけ。
 いったいぜんたい、どうしてこんなことになったのだろう?おぼろげに脳裏を揺蕩(たゆた)う記憶の群れ、順序立てて並べてみる。
 いくつもの小さな命を取り込んだ。最初は水の中だった。そこにいた微生物たち。命らしい命でもない者たち。数限りなく取り込んでいった。少し身体が大きくなった。やがて生まれたての小魚や水中の虫を取り込めるようになった。少しずつ少しずつ身体ができていった。やがて陸に上がった。たくさんの虫がいた。とにかく目についた命はすべて取り込んだ。とても忙しい。取り込んでも取り込んでも無限に小さな命を有する者たちは存在していた。やがて、いつしか生あたたかい生き物も取り込む中に加わっていた。その生あたたかさがその生き物たちの身体に満ちている赤い液体のせいだということがそのうち分かった。更に身体は大きく、そして強くなった。地を走るもの、木を登るもの、空を飛ぶもの、いろんな命を取り込んだ。長い時を経て、数多(あまた)の春秋を繰り返しながら。そして、そのうちに立って歩く生き物を何体か取り込んだ。とたんに意識の芽が生え、思考することができるようになった。そうしていつしか自分が出来上がった。
 自分は、だいぶ前に生まれていた。つい先頃、大きく地が揺れ、大量の土気色の生き物が湧き出てくるようになった。それが自分と同類のものなのだとそのうち気がついた。その同類のものたちには意思がなかった。だから通じ合うことができなかった。そして、そのことごとくが“眷属”と呼ばれる者たちによって駆逐された。それはもう、手当たり次第に消されていった。それまで自分が消されなかったことはただ単に、運が良かっただけなのだろう。しかし、意識を得てからはとにかく見つからないように身を隠す日々だった。彼らは強く、非情で、容赦がない。生き延びなければ、彼らに消されないくらいに大きくなるまで。せっかく命を得たのだから。
 身を隠しながらも、せっせと命を取り込んでいった。そうこうしているうちに身体がかなり大きくなった。もう、眷属たちよりも大きくなっていた。これならもう消されることはないだろう。逆にこちらがあやつらを取り込んでやろう、そう思いはじめた矢先、何かの生き物が目の前に現れた。人間でもない、眷属でもない、不思議な生き物。これは、ぜひ取り込みたいと思った。自分の一部にしたいと思った。だから追った。その生き物は飛んで逃げた。だから自分も飛んだ。それまで自分が飛べるとは知らなかったが、そう指向したら飛べた。だから飛んで追った。
 もう少しのところまで追い詰めた。もう少しで取り込めるところだった。でも、その生き物は木がたくさん生えている所に逃げ込んだ。そこに行こうとした。でも、行けなかった。見えない何かが(さえぎ)っていた。どうしてもそこから先に行けない一線があった。繰り返しその一線を破ろうと力を尽くした。しかし、突然、周囲が激しく光った。気づいたら水の中にいた。そして沈んでいた。
 周囲に自分と同じどろどろとした気配を感じる。そのうち自分と同じ(まが)の者になるのだろう禍の素。少しずつ少しずつ集まって、小さな塊となってやがて動き出す。まだ塊になりきれていないただの素。その中をただ沈んでいく。
 見えなくても感じられる。光がどんどん薄くなっていく。光からどんどん遠ざかっていく。暗闇に呑み込まれていく。
 自分が取り込んだ人間たちの声が重層的に(うごめ)いている。その声たちが一つの形をとりはじめた。
“助けて……誰か”
 意識を生じてからまだ日が経っていないせいだろう。そんな言葉も願望も今まで思い浮かべたこともなかった。しかし意識したとたん、(またた)く間にその言葉が広がり、覆い、すべてを包み込もうとする。その言葉にゆっくりと、ただひたすらに意識が沈み込んでいく。
 周囲にはこんなに自分と同類の者たちがいる。しかし姿形も持っていない。思考することもない。まだ、生きてもいない……。同類ではない。自分は思考することができる。力を持っている。生きて、存在している。自分は力を得た。そして孤独になった。
 動けない。もう、どうすることもできない。また地底深くに堆積しているだけの存在になってしまうのだろうか。もう、どうしようもないのだろうか。
 ふと、視線を感じた。何かが自分を見つめている。どこで、誰が?
 とても深い地の底からその視線が感じられた。思わず目を逸らしたくなるような視線。威圧感だけで構成されているような視線。これは誰の視線だろう?
 やがて落下が終わった。身体が地に着き、動きを止めた。動かない自分の身体。今、何かが起きたとしても抵抗する(すべ)もない。まったく無力な自分を実感する。
“命が、命がほしい”一心に願った。もっと命を取り込んで、もっと力を得たい。どんなことにも、どんな力にも傷つくことがない自分を得たい。
 唐突に、横たわる彼の身体の横でカッと大きな目が見開かれた。
 冷酷な目。邪悪な目。獰猛な目。冷たく、鋭く、突き刺すような視線。じっと(まばた)きもせず動きもせず彼の身体を見つめていた。
 やがて、彼の頭の中に直接、ゆっくりと大きく、重く、厚みのある声が響くように聞こえた。
 ――命がほしいか。
 水中にいるからだろうか、身体が動かないせいだろうか、彼は言葉を発することができなかった。だから心の中で頷き、ああ、と答えた。
 ――命を得て、どうする。
 命を取り込んで、力を得る。誰にも負けない力を、と彼は頭の中で答えた。
 ――欲だ。貴様はただの欲の塊だ。
 欲?力を得たいと思うことは欲なのか?
 ――もちろんだ。現状に満足せず、他に勝り、他を傷つけ、他を蹴落とし、他を見下げる。権勢欲、顕示欲、征服欲、貪欲に力を求めることこそ欲そのもの。愚か者の心の隙間に指を突っ込んで穴を広げる快楽の行商人。時にそのお代として命をも奪っていく。欲に捕らわれた者は欲に生かされる。自分の人生を生きていると勘違いしながら、ただ欲の望む通りに生きていくしかなくなる。あまりにも滑稽に。
 俺も滑稽なのか?
 ――ああ、とても滑稽だ。哀れなくらいにな。しかし、それは、この上もなく好ましい。
 …………。
 ――我は、昔、力と呼ばれた。王や権力者の座、とも呼ばれた。我は青人草(あおひとくさ)の中で、人一倍欲が深く、狡猾(こうかつ)で、冷酷な者の願いを聞いてその者に力を与eえてやった。青人草の中で我の存在を知る者はほんのごく一部。しかし知る者は何よりも我を(あが)め奉った。我は欲と業の深い者に力を与えた。力を与え、操り、更に丁重に、厳格に我を(まつ)らせた。
 そんなあなたが、なぜ、こんな地中深くにいるのだ?
 ――そう、それは、我が操る権力者に歯向かった者たちのせいだ。その者たちに我の存在が知れた。そいつらは我を“災厄”と呼び、どうにか封じ込めようと、この国の津々浦々から修験者や高僧や陰陽師など力ある者を数多集めて我に挑んできた。七日七晩闘い続けて、多くの敵を我は(ほうむ)ってやった。しかし、相手の数が多すぎた。八日目の朝、我は(いまし)めに捕らわれた。そして、そのままこの地に鎮められたのだ。権力や欲から縁遠いこの地に。
 なぜ、そんな話を俺にする?
 ――我はもう、何百年もこの地に鎮められている。ただ一人でだ。生まれたてのお前には分からぬだろう。この苦しみ、この痛み、この口惜しさ。我の頭と尾の先には(くさび)が打ち込まれた。とても深く、とても堅固に。この地中は我が牢獄。我は囚われておる。死ぬこともできず、悠久の時の中を、ただ無益に、身動きもできず。
 …………。
 ――我が何をした。青人草の願いを聞き入れて叶えてやっただけだ。確かにそのために多くの命を奪いもしたし、街や村を消滅させたこともある。しかし、それは人草が望んだことだ。我が望んだことではない。なぜ我が囚われねばならぬ。憎い、青人草が憎い。我をこんな姿にしたあやつらを根絶やしにし、この世界を崩壊させねば。
 …………。
 ――どうやら、今、この世界に歪みが生じているようだ。地が裂け、地の底からお前たちが湧き出してきた。そして我の頭に突き立っていた楔も地中深くに落ちて消えた。我は何百年かぶりに意思を取り戻し、動くことができた。
 それなら、これからもう一つの楔も抜き去って、自由の身となるのだな。
 ――ああ、そのつもりであった。しかし、長い年月埋められたままでいたせいか、我の身体は腐りきってしまった。力はまだ残っている。しかし、尾の楔が残っている以上、動こうにも、こうして目を開いて、相手の頭に言葉を送ることくらいしかできない。
 それは、残念なことだな。
 ――だからお前に頼みがあるのだ。我が生じて今まで一度もしたことがない、その頼むということをお前にしようと思う。恐らくお前にとっても悪い話ではないと思うぞ。
 頼みとは何だ?
 ――我の命を取り込め。
 何?
 ――お前もそんな姿では力を使うこともできないだろう。存在自体、いつ消滅するか分からないのではないか。せっかく生まれてきたのに。こんな所で消滅してしまうのか。我の命を取り込み、力を得て、生き延びよ。
 俺があなたの命を?それは無理だろう。見えはしないが、きっとあなたはとても大きい。俺が取り込もうとしても、どれほどの時間が必要なのか分からない。そもそも取り込めるのかどうかさえ分からない。
 ――大丈夫だ。我の分御霊(わけみたま)をそなたにやろう。我の御霊は我そのもの。つまり我の御霊の一部は、我の命そのものだ。貴様は我の一部となり、我と同じ力を得る存在となる。
 それで、俺に力を与えて、あなたは何を望むのだ。
 ――地表にある尾の楔を破壊してもらいたい。川沿いに建っている小さな(ほこら)だ。それがなくなれば、我は自由となる。力を取り戻すことも可能になるだろう。どうだ、やってくれぬか。
 …………。
 ――老いぼれの願いを叶えてやる代わりに力を得るか、ここで腐り果てるのを待つか。結論は訊くまでもないと思うがな。
 ……分かった。あなたの頼みを聞こう。俺はあなたの一部を取り込み、力を得て、ここを抜け出し、あなたの楔を取り払う。
 ――よし、では、我の中に入ってこい。我の命のありかまで。
 土気色の塊は水の中でもぞもぞと動きはじめた。手と足の名残で水底を掻き、身体をくねらせて少しずつ前進していく。やがて暗く大きな穴の入り口に辿り着いた。
 ――さあ、入れ。ためらうことはない。貴様にとってもこれが、欲を満たすための最善の行いなのだ。さあ、我の中に入れ。
 塊はもぞもぞと闇の中に身を投じていった。
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