第四章五話 記憶を辿る

文字数 4,946文字

 私はとても臆病で、人が苦手。
 別に人が嫌いな訳じゃない。ただ、どうしたら上手にみんなと仲良くなれるのかが分からない。
 普通に生活している中で、急に周囲のひとが何を考えているのか、自分のことをどう思っているのか、不安に感じることが時々ある。いつからか、ひとの言葉が心の深い所に何本も突き刺さったままになっている。いつも何かに怯えている。
 極力、人に嫌われないように今まで生きてきたつもり。自分の気づかないところで人を不快にさせたのかもしれないし、確かにいじめられたこともあったけど、憎悪を向けられる覚えはない。ないから余計に、人の視線や言動が不安を呼び起こす。
 どうして、なぜ、こんな自分になってしまったのだろう。小さい頃はこんなことはなかったはず。もっと明るくて、穏やかに、みんなと仲良くすごしていた。いつからこんな風になったのだろう。
 思い出してみる。自分の記憶をずっと辿ってみる。
 心当たりはいくつかある。
 でも、そのどれもが元々の原因のようには思えない。どの記憶の時点でも、私は臆病で、暗くて、人が苦手だった。だから、もっともっと遠くまで(さかのぼ)ってみないといけない。

 私は、私の記憶と向かい合う。何かを取り戻すために。

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 ここはどこ?
 黒い服を着た人たちがたくさんいる。よく見るとみんな知っている顔。家族や親戚の人たちだ。
 二十畳くらいかしら?広い畳敷きの部屋の中で立ったまま話をしたり、一人黙然(もくねん)と座り込んだりしている。どこにも笑顔はない。重く暗い空気が部屋中に漂っている。その空気にはお線香の臭いも混ざっている。
 部屋の奥、何本ものお線香が細く白い煙を立ち上らせている。真っ直ぐに立ち上ったかと思うとすぐに横に揺れ、そしてふっと空中に溶け込んでいく。いつまでも延々と。お線香が次第に灰と化して短くなっていくと、誰かが新しいお線香に火を点けて立てていく。延々と白い煙が立ち上っていく。
 そのすぐ奥に白木の(ひつぎ)が置かれている。誰が入っているのか、それはすぐに分かる。柩の向こう側に祭壇があって、その上に大きな写真が飾られているから。
 伯母さんだ。父のお姉さん。まだ若いのに。なんで死んだんだったっけ?
 歯を見せて楽しそうに笑っている遺影。伯母さん、あなたはどうして死んだの?
 間違いなく知っていた気がする。でも思い出せない。なぜ?とても大切なことだった気がするのに。
 とても元気だった。とても陽気で、優しくて、大好きだった伯母さん。
 遺影をじっと見つめていると、ふと記憶が蘇った。
 誰かが泣いている。声を上げて泣いている。すぐ横で背中に手を置いて慰めている人、お母さん。じゃ、泣いている人は伯母さん?
「お母さん」私が声を掛けると母がこっちを見た。とても厳しい目をしていた。私を責めているの?私が悪いの?私のせい?
 遺影の顔つきが変化していく。とても悲しそうな、とても苦しそうな、とても私を責めているような表情に、次々と。
 とっさに周囲を見渡した。みんなこっちを見ていない。でも誰もが私に向けて声に出さずに言葉を発している気がする。
“お前のせいだ”
“お前のせいで死んだ”
“お前が殺した”
“人殺し、お前は人殺しだ”
 私はいったい何をしたの?思い出せない。でも思い出さないといけない。私はとても悪いことをしたんじゃないの?罰を受けないといけないほどの……
 怖い、寂しい、誰か……助けて……
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 すぐ横で声がした。マコがいた。いつも明るい色の服を着ていたから黒っぽい服がイメージにあっていない。このコの無邪気な表情を見るとほっとする。とてもあたたかさを感じる。このコには言ってはいけない。このコには気づかれてはいけない。私は、この無邪気な表情を守らないといけない。哀しみや不安で曇らせてはいけない。私だけで思い出して、知られずに罰を受けて、自分の中に仕舞い込んでしまわないといけない。このコには秘密にしないと……
 さあ、思い出して。伯母さんは何で泣いていたの?伯母さんは何で死んだの?いったい私が何をしたの?

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 ここはどこ?
 どこかしら見覚えがある。白い壁紙についた傷。物置になっていた屋根裏に上るための梯子(はしご)
 ああ、ここは以前、家族で住んでいた二階建ての家。今、二階にいる。自分と妹の部屋がある。
 自分用だった南東側の部屋の扉を開ける。妹の部屋は北西側。冬は寒いし、夏は湿気が籠ってあまり居心地は良くない部屋だったみたい。だからよく妹は私の部屋に来て遊んでいた。よく一緒にゲームや人形遊びをしていた。私が勉強している時でもよくベッドに寝転んで本や漫画を読んでいた。
 この家にはいつまで住んでいたんだっけ?えっと、そう、確か私が小学校に上がる時から中学二年の時まで住んでいた。以前、母がけっこうな住宅ローンを組んで購入したと言っていた気がする。そんな家にどうして今、住んでいないの?特別なことなんて何もないけど、穏やかな、家族の幸せの詰まったこの家に、なぜ住めなくなったの?
 原因は、確か、私。私があんなことを言ったから……
 一階から話し声が聞こえる。内容は分からない。でもその声がお母さんと伯母さんの声だってことは分かる。伯母さんの声は少し鼻に掛かった涙声のようだ。何の話をしているの?なぜ伯母さんは泣いているの?
 気になって階段を下りていく。気づかれないように、足音を立てないように、そっと一歩ずつゆっくりと降りていく。すると次第に話す内容が聞こえてきた。
「あのコがあんなことをするなんて……もう、どうしていいか分からない……」
 伯母さんの声だ。とても疲れ切っているような声。とても悲しそうな声。
「しっかりして。まだショウタくんの罪が決まったわけじゃないわ。裁判がはじまったら、忙しくなるだろうし、お姉さんはしばらくここにいてゆっくりと休んで。とりあえず何も考えずに眠れるだけ眠ってちょうだい」
 お母さんの相手をいたわる優しい声が聞こえる。伯母さんはお父さんの姉だ。だからお母さんとは血の繋がりはない。でも本当の姉妹のように二人は仲が良かった。だから伯母さんはうちに逃げてきた。あの事件が起こって、ショウタ兄ちゃんが捕まって、テレビや新聞で報道されてしまうと、我が家に逃げてきた。
 そうだ、思い出した。これは伯母さんがうちに突然やってきたあの日、お母さんとしていた話だ。
 私は学校から帰ってきて偶然、その話を聞いた。その日、私は学校で、同級生に前髪を切られていた。トイレで、何人かに囲まれて。彼女たちにすれば遊びの一環でしかなかったのだろう。でも、前髪には段差ができていた。どう見ても変だった。恥ずかしくて私は気分が悪いと嘘を()いて早退した。バレないようにそっと家に入った。だから二人は私が帰ってきたことに気づかなかったみたいだった。色々と事件の話を続けていた。
「相手の女の子はどう?ケガの具合は?」
 お母さんが遠慮がちに訊いた。しばらく伯母さんの応えはなかった。お母さんも訊きづらかったみたいで、伯母さんが口を開くまでそのまま黙っていた。
「分からない……。まだ入院しているみたい」
「とりあえず、命に別状はないのよね?」
「ええ、たぶん……」
 それからしばらく伯母さんのしゃくり上げる声が断続的に聞こえた。お母さんが時々、大丈夫、大丈夫よ、と言って慰めていた。
「あのコがあんなことをするなんて、まだ信じられない。女の子を誘拐して、毒を飲ませて……」
「もう、いいのよ。済んでしまったことよ。今は落ち着いて、休んでちょうだい」
 テレビや新聞の報道は、なるべく私たちの目に触れないように意識的に両親によって隠されていたのだろう。だから、いとこのショウタ兄ちゃんが何か悪いことをして捕まったことは知っていたけど、何をしたのかは分からなかった。でも、その時の母と伯母さんの話を聞いているうちに、一つの記憶が蘇ってきた。四年前、小学四年生の時の記憶。お婆ちゃん家での記憶。私は察した。きっと私にしたようなことをあの人は他の人にもしたんだ。
 だから、お母さんの憐憫(れんびん)の声を聞きながら、怒りが込み上げてきた。
“このことは絶対にひとに言うな。言えばお父さんやお母さんが悲しむから、絶対に言うな。分かったな”
 あの人はそう私に言った。イヤな気分、イヤな気持ち、イヤな体験、それらを私は人に言えずにただ自分の中で溜め込んだ。そうしないと穏やかな家族の生活が壊れてしまいそうな気がしたから。
 その頃、私は学校生活に不満を持っていた。慢性的にみんなから無視をされていたし、部活も訳があって途中で辞めていたし、特に楽しいと感じることもなく、ただ惰性で通っているだけだった。たぶんそんな鬱屈も手伝って、あたしは二人のいる居間に駆け込んだ。
「私も、私も、ショウタ兄ちゃんにひどいことをされた!」
 お母さんも伯母さんも私が突然部屋に入ってきたことにも、私が言ったことにも当然ながら驚いた。
「四年生の時、お婆ちゃんの家で、叩かれたり、殴られたり、首を絞められたり……怖かった。言うことを聞かないと殺されそうだった。すごく怖くて、つらかった」
 その時されたことを思い出すと今でも息苦しくなる。生まれて初めて死を感じた。自分が死んでしまう予感が脳裏をよぎった。思い出すほどに気分が悪くなる。それを吐き出すように目の前の二人に言葉を、事実を投げ掛ける。そうよ、ショウタ兄ちゃんは捕まった。悪いことをしたから捕まった。あの日、ショウタ兄ちゃんがしたことは悪いこと。私が悪いわけじゃない。私が我慢して黙っていなければならないことじゃない。きっと、きっと、お母さんも伯母さんも私を哀れんで優しく慰めてくれる。きっと……
 突然、伯母さんが声を上げて泣き出した。
「ごめんね。ごめんね。リサちゃん、ごめんね。あなたにまで、あのコは……。全部、私のせい、私が悪いの、ごめんなさい」そんなことを言いながら。
 伯母さんの泣いている姿に心を動かされる余裕が、その時の私にはもうなかった。それまで溜め込んでいた言葉たち、いったん外に出してしまうともう歯止めがきかなかった。
「すごく怖い。本当に恐ろしいの。もう顔を見るのもイヤ。私はお婆ちゃんの家に行くのが楽しみだった。あそこがすごく好きだった。でも、もう行けない。あそこに行くとショウタ兄ちゃんが出てきそうですごく怖い。もう、もう二度と行けない……」
 伯母さんの泣き声が更に大きくなった。でも哀れには思えなかった。哀れんでほしいのはこっちの方なのだから。だから欲求のままに更に声を上げようとした。するとお母さんが突然、声を上げた。
「やめなさい。もういいから。もう、やめて」
 お母さんの抑えてはいるが厳しい声が聞こえた。伯母さんの背中を優しくさすりながら私には目も向けていない。特に私が言ったことで何かの反応が返ってくるとは考えていなかったが、叱責されるとはまったく予想していなかった。
「でも……」
「いいから、今は、やめなさい」
 母がこちらに視線を向けた。その目は濃く困惑の色に染められていた。私の口から言葉が消えた。
 ごめんね、ごめんね、と言いつつ伯母さんはいつまでも泣き続けていた。
 
 次の日の朝、伯母さんはいなくなっていた。伯母さんが持ってきていた少ない荷物は客間に置いたままになっていた。だから、お母さんもお父さんも心配していたけれど、伯母さんはすぐに戻ってくるものだと思っていた。私もマコもいつも通り学校へ行った。でも、学校から帰ってきても伯母さんは戻っていなかった。お母さんはその日、仕事を休んで伯母さんを捜していたみたいだった。伯母さんは心臓に持病があった。発作が出たら薬を飲まないと卒倒してしまうらしかった。その薬が伯母さんの荷物の中に残されていた。お母さんは場合が場合だけに、そのことも加えてとても心配して、いたる所を捜したようだった。でも、どこにもいなかった。すでに警察にも捜索願いを出したと言っていた。
 三日後、伯母さんは見つかった。
 家から歩いて十分くらいの所にある、大きな川の河口付近で浮いているのが見つかった。
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