第二章三話 旅路はつづく

文字数 4,850文字

 ――熊野の眷属ごときの卜占(うらない)に信をおき、ヨリモを同行させたこと、面白くないと思っておるな。
「左様でございます」
 ――稲荷神の判断に従い、民草(たみくさ)の言を受け入れたことも面白くないのだろう。
「左様でございます」
 ――ははは、言い淀むことなく、虚言を吐くこともない。そなたらしい。
(かたじけな)み奉ります」
 八幡神(はちまんしん)とその第一眷属であるマコモが御簾(みす)を挟んで向かい合っていた。社殿内には他には誰もいない。先ほどからずっと八幡神が問い、マコモがそれに率直に答えていた。その返答に気後れも気兼ねもなかった。ただ明確に思うところを即答するだけだった。それはいつものこと。それは、全幅の信頼を寄せ、すべてを任せられる存在である自身の第一眷属の率直な意見を聴きたいという八幡神の意向をマコモが汲んでのことだった。
 ――そなた、ヨリモのことを心配しておるのか。
「はい。ヨリモは言わずもがなの大切な身。その身に何かあれば誓約(うけい)(あかし)が立ちませぬ」
 ――それは、稲荷神も同じだ。先方がタマを寄越した手前、こちらがヨリモを行かせぬ訳にもいかぬだろう。
「それにヨリモは今まで一人で境内の外に出たことがありません。いくら武技に優れているといっても、きっと戸惑うことでしょう。身を危険に(さら)すことがあるかもしれません。誰か他の者を同行させた方が宜しいかと」
 ――きっかけは熊野の眷属の卜占だとはいえ、恐らく、稲荷神はこの際、我らが誓約の真の堅固さ、その意義を見定めようとしておるのだろう。
「誓約の意義……大神様たちの誓約は、幕末動乱の折り、乱れかけた神々の和を正すために結ばれたもの。それにより郷内の和は今に至るまで保たれております。そのことが誓約の存在する意義ではないかと存じておりますが」
 ――左様である。しかし、それは、誓約の子らが存在する前提でのものだ。稲荷神の力は強い。我でも手こずるかもしれぬ。それにあそこの眷属たちも数が多く力が強い。そなたたちともよい勝負をするだろう。そんな稲荷社の者たちが我の下に未来永劫何の疑問も持たずに甘んじているとは考えづらい。誓約を結んでいるために今は仕方なく大人しくしておるのかもしれぬ。だが、そこに熊野の卜占が舞い込んできた。渡りに舟とばかりに誓約の子を送り込んだ。今後の誓約の成り行きを時の定めに(ゆだ)ねたのかもしれぬ。それがどうなるのか、我も見定めてみたい。まあ、あやつらなら大丈夫だろう。我らが眷属に歯向かう者もこの郷にはおらぬだろうし。
「恐れながら、彼らが向かう先にある天神村(てんじんむら)は他からの入村を極度に嫌います。事前に報せておかないともめ事が起きることは必定かと」
 ――そうだな。しかしそれで頓挫するならそれまでだ。それに往来は我が許したことである。天満宮の眷属たちがそれをどの程度認めるのか、見定めることもできよう。
「……」珍しくマコモが言い淀んだ。ここ数日で、自分の経験や想像を超えた出来事が立て続けに起きている。解釈も判断も追いつかない現状、しかし、これからの解釈や判断一つ一つが確実に自分たち、引いてはこの郷の今後を左右することになるだろうことが予想され、さすがの彼もすぐには答えられなかった。
 ――民草と誓約の子らとの道中、どうなるものか。少しでもこの現状を変えてくれる旅路になってくれれば良いのだがな。
「左様に存じます」
 一瞬、八幡神が嘆息したように思えた。そしてすぐにその気配が遠のいた。マコモは低く頭を下げると静かに(きざはし)を降りていった。

 その頃、旅支度を終えたヨリモは社務所玄関を出ていった。予想はしていたが誰も見送りに来る気配がない。少し寂しい心情を抱えたが、それより、初めて仲間と離れて境内を出ることへの多少の不安と言い知れぬ解放感への期待が勝っており、境内の端で待っているタマとタカシに早く合流したくて思わず知らず早足に歩き出していた。が、ふと思い出して、逆に本殿の裏へと駆けるように、誰かに見られていないか周囲を警戒しつつも急ぎ向かった。
 ヨリモは、(すそ)(そで)が筒状になっている白い衣装を身にまとい、袖の手首の上とズボンの膝の下を紅く染められた紐で結んでいた。また胸腹部と背中には小さな鉄板を革紐で結合させ、漆で塗り固めた(よろい)を着け、頭には金色に輝く飾り彫りの施された額当(ぬかあ)てを巻いていた。そして、その手には身長よりも長い槍。走る度に鎧がかさかさと音を立てる。しかし鎧も槍も重くはない。かりに多少重かったとしても、動き回ることに支障がない程度には彼女の膂力(りょりょく)は鍛えられていた。
 彼女は鬱蒼とした大楠の枝葉の下に(たたず)んでいる石造りの(ほこら)の前に立ち止まると、二礼二拍手一拝の作法で拝礼し、すぐにその裏手の大楠の根元に回った。そして屈みながら肩に袈裟掛(けさが)けしていた風呂敷包みを下ろし腕の上で開くと、自分の旅の食料として荷物に入れていた干飯や干し魚を取り出した。途中の食料がなくなる、と思うと一瞬だけ躊躇(ちゅうちょ)したが、半紙を敷いた地面の上にそれらをそのまま置いた。
「豆吉、豆助、豆蔵、少ないけど我慢して。私、これから出掛けないといけないの。時間があまりなくて。タマ殿、あの八幡宮のタマ殿よ。彼と一緒に旅に出るの。だからしばらく帰ってこられないかもしれない。寂しいかもしれないけど待っててね」
 そう呟いていると祠の屋根の上に三匹のネズミがひょこっと顔を出した。豆吉がチュウチュウと鳴き声を上げる。ヨリモは立ち上がって少し三匹を見上げた。
「だめよ、遊びに行くんじゃないんだから、連れていくことはできないわ。いいコだから大人しく待っててね」
 豆蔵もチュウチュウと鳴く。
「すごく嬉しそうだって?いやね、お勤めよ。大神様の(めい)東野村(とうのむら)まで行くの。何日かかるか分からないけど、なるべく早く帰ってくるから」
 豆助もチュウチュウと鳴く。すると他の二匹も続けて鳴いた。
「だから一緒には連れていけないの、分かって。大人しく待ってて。他の眷属に見つからないように気をつけて。じゃ、もう時間がないから行くわね。お土産持って帰るから」
 風呂敷包みを再度肩に掛けながらそう言うが早いか、ヨリモは(きびす)を返して社殿正面に向かって駆け出した。その背が見えなくなるまで三匹は寂しそうな様子で見送ったが、見えなくなると干飯と干し魚を、大楠の根元に少し空いた(ほら)の中に運んでいった。
 ヨリモが社殿正面に回っていくと、そこにクレハの姿があった。
「遅いぞ。ひとを待たせるようなことをしてはならぬ」
 ヨリモは息も乱さず彼の前に至るとうつむきながらすぐさま返答した。
「申し訳ありません。準備に手間取ってしまって」
 クレハはいつ見ても不機嫌な顔つきをしている。長い年月ともに暮らしてきたが、ヨリモは一度も彼の笑った顔を見たことがない。今も仲間との惜別の念などおくびにも出さず、初めて旅立つ仲間の緊張を解きほぐそうとするそぶりすら見せず、普段通りの不機嫌そうな顔つきをして立っている。
「よいか、総社の眷属として、品性と威厳を忘れぬように。そなたがみっともない真似をすればそれは大神様の恥であり、我らの恥辱(ちじょく)である。けっして(あなど)られることなく、不様(ぶざま)な姿を晒すことのないように。心して勤めを果たせ」
「分かりました」
 ヨリモはじっと視線を下に向けている。早くこの場を離れたい思いが(あふ)れている。
「では行け。大神様はもう奥に下がられた。挨拶はせぬでよい」
「はい、行ってまいります」そう言うとヨリモは社殿に向かって深々と頭を下げた。急に、大神様と離れる、仲間たちと離れる、その不安が脳裏をよぎり胸をきゅっと締めつけた。が、即座にそんな雑念を振り払い、クレハにも一礼をした後、表参道の端で待っているはずのタカシとタマのもとへと向かった。

 ヨリモはすぐにタカシやタマと合流した。二人に満面の笑みを向けながら、さあ、行きましょう、と声を掛けた。
 出発した一行は間もなく南東に向かう御行幸道(みゆきみち)に入って進んだ。ヨリモが先頭を進みタカシとタマがその背を追った。その道中、度々(まが)い者が姿を現したが、それーっ、と言いつつヨリモが手に持った槍の穂先でそれを突いて消滅させた。
「まったく今日は、異常なほど禍い者が湧いていますわね。でも、私がいればお二人に危害が及ぶことはありませんので、ご安心ください」
 振り返りつつ言うヨリモの顔はどことなく楽しそうだった。その歩みも軽やかだった。その理由はたぶんタマと同じなのだろうと思い、特にタカシはそのことに触れなかった。
「禍い者相手に武装してくるなんて大袈裟なことだな」タマがぽつりと言った。
 初めての旅に興奮冷めやらぬヨリモは、タマに向かって積もる話もたくさんあり、もう話したくて(たま)らないところを、あまり興奮した状態で堰切(せきき)って話すのも品がないと思い、そう思うとなかなか話すきっかけを掴めずにいたので、渡りに船とばかりにその言に応じた。
「我が国最高の武神である八幡大神様の眷属として、人に災い成す者どもを成敗するのに、万が一取り逃すことがあってもいけませんからね。だから最大限の能力が発揮できるこの鎧を着ているのです。ちなみにこの鎧は神功皇后(じんぐうこうごう)様が、かつてまつろわぬ熊襲(くまそ)を成敗する時に身にまとっておられたものを模しておるのです。どうです?けっこう似合っているでしょう?」
 タカシにはただ女児がコスプレしているようにしか見えなかったがとりあえず、うん、似合っているよ、と答えておいた。はいはい、似合っているよ、とタマが適当に答えていた。
「その神功皇后様が、さっき会ってくれた神様なのかい?」
 突然発せられたタカシのその言葉に、似合っている、と言われて嬉しそうにしていたヨリモの表情が固まった。
「確かに神功皇后様も鎮座されておられますが、先ほどは八幡大神様がご宣下(せんげ)遊ばされました。というか、もしかしてあなた、神功皇后様のこと、知らないのですか?」
「ああ、聞いたことがあるような気もするけど、あいにく、はっきりとは……」
 ヨリモの顔は驚きの表情のまま固まっていた。その表情のままタマに向けて呟くように言った。
「どうして、お稲荷様はこんな、こんな非常識な男を信用されたのです?」
「なぜって、この男は我が大神様のことはご存じだったからな」
 ニヤリとタマは笑っていた。ヨリモは急に不機嫌な表情をした。
「神功皇后様は、八幡大神様の母神様であり、この日の本の国、隋一の女傑として知られています。御子(みこ)であられる八幡大神様のために、まつろわぬ者どもを打ち滅ぼし、果ては海を渡って()つ国に攻め入り、服従させて、この国に平穏をもたらした大神様であられます」
「へえ、そうなんだ」と言うタカシの(かしこ)みの欠片もない様子にヨリモは更にむっとした。
「そもそも八幡宮はこの国の津々浦々で尊崇を受けているお宮ですの。時の権力者は必ず八幡宮を(まつ)っておりました。この国に住む者としては、最低限、八幡宮のこと、祀られている神様のことは知っておかなければ恥ずかしゅうございます」
 確か、源氏の氏神様が八幡宮だったと何かで習ったような気がする。鎌倉にある鶴岡八幡宮だったっけ?
「もともとは九州宇佐の地主神(じぬししん)じゃなかったか?確かに政治力は群を抜いているよな。時の権力者に取り入ることは数多(あまた)おられる神々の中でも抜群にうまい」
 まだニヤけながらそう言うタマにヨリモが鋭い視線を向けた。
「何を仰いますやら。そちらこそ秦氏(はたし)の氏神様だったのに。いつの間にか純真無垢な民衆に取り入ってうまいこと注目を集めておられるようです」
 タマもムッとした顔つきになった。
「別に取り入ったわけではない。大神様の広大無辺な御神徳(ごしんとく)が自然と民衆の崇敬を集めたにすぎん」
 急に険悪な雰囲気になってきた。初詣や葬儀への参列など慣習的に宗教行事に参加することはあっても積極的に特定の何かへ信仰を向ける機会のなかったタカシにとっては、この二人の信仰心による対立は、彼の人生からかなり異質で、面倒くさそうに思えた。
 やれやれ先が思いやられる……タカシは思わず嘆息した。
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