第十章五話 ただ救いたい一心で

文字数 4,561文字

 巨大な渦巻く水柱の中でタマとヨリモは、ただされるがままに流されていた。もう、どっちが上でどっちが下かなど少しも判別できず、どれだけの高さに自分たちがいるのかもまったく分からなかった。
 もし、今が昼間で二人が周囲の場景を見る余裕があったとしたら、その渦の中央が空洞となっていて、湖の下、遥か地中に続いていることを見出したであろう。そして、その底から災厄の身体を取り込み続け、巨大化した数えきれないほどの(まが)い者が渦に巻き込まれて上空へと運ばれていることにも気づいただろう。しかし、二人にはそんな視界も余裕もなかった。ただ、この巨大な渦に巻き込まれたことの結果として何が待ち構えているのか、その、ほんの少し先の未来に対する大きすぎる不安に(さいな)まれながら、ただそれが訪れるのを待つしかなかった。
 そして二人は雲の上に出た。ふと水流の力から解放された。渦の勢いそのままに雲上高く放り出された。その拍子にタマの腕の中からヨリモの身体が離れ出た。ヨリモ、とタマの叫ぶ声が聞こえる。ヨリモは精一杯タマに向かって手を伸ばした。キラキラと輝きながら落ちていくタマの姿、(はかま)(すそ)狩衣(かりぎぬ)(そで)が激しく波打っている。その中で視線は一点、ヨリモの瞳だけを見つめていた。
 二人の伸ばす手、指先が触れ、指が絡まり、手のひらが合わさった。再び互いの身体を引き寄せあい、一つの個体となって宙を落ちていく。
 眼下には分厚い雲の層が渦巻いている。自分たちが巻き上げられた渦の中心は遥か遠くに見える。どうやら二人してかなりの距離を飛ばされたらしい。それにしても雲に覆われているために自分がどちらの方角に向かっているのか分からない。タマはとっさに頭上に視線を向けた。明るい満月と(きら)めく星々が目に入る。自分たちが進んでいる方向の星々を確認する。柄杓(ひしゃく)の形に連なっている星々の上に一点の輝き、あれは北極星だ。偶然にも自分たちが八幡村(やはたむら)に向かって飛んでいることを察した。何とか、無事に、着地することができたなら、きっと八幡宮(はちまんぐう)にたどり着ける。タマは思わず、ほんのわずかながら希望を胸に抱いた。しかし、二人は落下していた。いくら眷属とはいえ空から落ちて身体を保っていることなどできない。やはり、我らは一緒にはいられないのか、そう心中呟くと、タマは繋いだ手を開いた。
 それまでヨリモは、空を飛べる者の余裕なのだろうか、このような状況にも関わらず至極、穏やかな顔つきをしていた。でも、タマが手を離した途端、とても不安気な表情を見せた。手をばたつかせて再びタマの手を取ろうともがいていた。
 そんな姿にタマはふと微笑んだ。どす黒い雲海が、もうすぐそこまで迫っていた。
 タマは身体中から輝きを発した。自分の細かい粒子が全身をおおっている。そのすべてを渾身の気を放つ思いで、自分たちを包み込んでくる分厚い雲に向かって放った。
 とてつもなく濃い灰色に染まった雲の一部にぽっかりと穴が空いていく。これでヨリモは激しい雨に邪魔をされず飛ぶことができるだろう。満足に飛べなくても、地に打ちつけられることは避けられるくらいには羽ばたけるだろう。そう思いながらタマは目を閉じた。もう、これ以上、ヨリモの姿を見て想念を働かせないように。未練を生じさせないように。これでいい、もう何も考えるな。胸の内に湧き起ってくる思いや記憶や感情を必死に抑えつけながらそう念じた。これでいい、これでいいんだ……
 その時、ふと白衣の(えり)に違和感を感じた。引っ張られているような感覚。激しく繰り返し羽ばたいている音も。振り返らなくても分かる。ヨリモが小鳩(こばと)変化(へんげ)して彼の落下を喰い止めようとしている。でも、しかし、その翼はあまりにも小さい。自分の身体を浮かす以上のことなんてできやしない。我など見捨てるんだ。そんなことをしても二人とも落ちるだけ。やめろ、ヨリモ、そんなバカなことは。その声はすぐさま叩きつけるような雨音と風音に飛ばされた。ただ羽ばたく音だけがやむことなく彼の耳朶(じだ)に繰り返し繰り返し聞こえてくる。もう、すぐそこに地表がある。木々の緑が漆黒に染まって不気味に(たたず)んでいる。
 ヨリモは必死に羽根を広げた。怖れを振り払い、少しでも浮上できるように、頭上の雲の層に視線を向けてただ、羽ばたいた。羽が(きし)む。細い足が身体から抜けてしまいそうに思える。足先の爪が折れてしまいそう。でも、諦めることなど考えられない、少しでも上へ。
 その羽音が諦めかけたタマの胸の内を震わせる。どうにか二人で助かりたい、そんな思いが急速に湧いてきて、再びタマの身体を光らせた。ヨリモの身体の周りにもその煌めく粒子が舞っていた。ダメ、もう充分、力を使っている。これ以上、力を使ったら消えてしまう。もう、やめて……
 タマには、自らの身体を粒子に変えることで目前に迫った地表に衝突する際、それをクッションにして少しでも衝撃を緩和できればという思いがあった。それに少しだけでも重量を減らすことができるかもしれない。自分の身体を粒子にしつつ、その一粒々々が離れていかないように自分とヨリモの身体を取り巻き、包み込むように何とかコントロールを試みていた。やがて二人の身体が光に包まれて、外からはその姿を視認することができなくなった頃、無数の枝葉が二人の身体を衝撃音を響かせながら連続して打ちつけた。数えきれないほどの枝を折りながら二人を包んだ光りは落下を続け、そのままぬかるんだ地表を大きくえぐりながら着地した。
 二人を包んでいた光がパンッと割れて粉々に飛び散った。その拍子にヨリモは小鳩姿のままで放り出された。意識して身体を丸め、そのまま少し離れた場所に横倒しになった。とっさに起き上がると自身も光を発しながら人型に変化し、充分に変化し終わる前にタマがいるだろう場所に向けて、まだ身体に残っている光を頼りに駆け出した。
 二人が着地した衝撃でえぐれたくぼ地にたどり着くと両(ひざ)を着いて、その時にはすっかり光が消えていたので両手を広げて辺りを探った。ここにいるはず、絶対にここにいる。全神経を両手に集中させ、祈るような気持ちで探り続けた。
 指先に触れる冷たく濡れた布の感触。その下にある弾力のない固い身体の感触。
「大丈夫ですか!?」ヨリモはそのまま手のひらで少しずつ、タマの全身がそこにあることを確認していった。
「ねえ、大丈夫なんですか?答えてください。ねえ!」必死の思いでタマの身体を揺すって声を掛ける。その声に、タマの身体が微かに動いた。
「そんな、ところを、触られると……くすぐったい、のだが……」
 か細く、弱々しい声だった。ヨリモは地面の方から聞こえてくるその声にほっとした。そして急に恥ずかしくなって手を引いた。いったい自分がタマの身体のどの部分を触っていたのか分からないがどうしようもなく顔が上気していることを感じた。きっとこの暗闇ではタマも自分の顔を見ることができないと思うと、それだけが救いだった。
 雨は降り続いている。激しく枝葉を打ちつけかまびすしい。ただ、雨水を浴びているには違いなかったが、木々の樹冠におおわれているお蔭で多少緩和されており、身体の動きを制限されるほどではなかった。雨がやむまでしばらくこのままここにいた方がいいわよね、ヨリモは暗中で身動きがとれない状況を(かんが)み、そう独り()ちた。その時、ふと地面付近からタマの発するごく小さな声を聞いた。それは言葉ではなく、小刻みに震える(うめ)き声。
「どうしました?」そう言いながらヨリモは、少しためらいながらも再度、タマの身体を指先で触れた。その身体は激しく震えていた。
「どうしたんですか?」応えはない。タマはただ震えるばかり。きっと身体を構成していた力を放出しすぎたのだろう。「寒いんですか?」
 タマは答えない。ただ、ゆっくりと頷いた気がした。身体はずぶ濡れだったが、周囲は飽和水蒸気量を超えた湿度におおわれ、気温も低い訳ではない。しかし、人が多量の血を体外に放出すると寒気を感じるのと同じようにタマも身体の構成要素が極端に減った分、言い知れぬ寒気を感じていた。
 ヨリモはとっさにタマの上体を起こし、そして両腕でしっかりと抱き寄せた。しかしタマの震えは止まらない。私にタマ殿のような力があれば、ヨリモは(ほぞ)を噛む思いを抱いた。自分ではどうしようもできない。自分の全身にタマの震えが伝染してくる。その震えを感じれば感じるほど、激しい思いが胸に込み上げ言いようもなく熱くさせる。どうにもできなくても、どうにかしないと……
 ヨリモは目を見開いた。何も見えはしないが、しっかりと眼前の闇を睨み()えた。そして手探りでえぐれた地面の形を確認した。自分たちは北の方向に投げ出された。この地面の形からすると自分たちが来た南は向こうの方。それならそっちに向かえばきっとお社にたどり着ける。大神様やマコモ殿に頼めばきっとどうにかしてくれるはず。行かなくては。
 意を決してヨリモはタマの身体を背に負った。驚くほど軽い身体だった。意識があるのが不思議なくらいに。そして立ち上がり、背中にタマの息吹と震えを感じながら南に向かって歩きはじめた。何も見えない暗闇で。ただ、一人の眷属を救いたい一心で。

 ――――――――――

 その頃、春日神社の境内で、ミヅキは重い雨に打たれながらも立ち上がり、遥か先から近づいてくる民草(たみくさ)の女を睨みつけ、剣を抜き放ち、待ち構えていた。
 絶対に許さない、絶対に。あいつが、睦月(むつき)ちゃんを……もしかしたら、もう、二度と会えないのかも……。そう思うと耐えがたい思いが胸内をもの凄い勢いで渦巻いていく。これまでの人生の中で感じたことのないほどの、抑制することさえ忘れてしまうほどの濃密な悲哀と(いきどお)り。
 これまでの人生で怒りなど感じたことはなかった。不快に思ったことは数限りなくある。しかし、そのどれもが、怒りに変貌していく前に、切なさだったり諦めだったり別のものに変化していった。そしていつも一人で落ち込んでいた。やっぱり、自分は……決まってそんな台詞(せりふ)を吐きながら。そんな時に限って睦月ちゃんは勝負を挑んできた。他愛のない勝負を、自分が勝てるまで何度でも挑んでくる。
 睦月ちゃんはいつも本気。どんな時でも手を抜かない。つられて私も頑張る。勝負に集中する。段々、楽しくなってくる。不快に思っていたことが何だったのか、忘れてしまうくらい。
 でも、ここに睦月ちゃんはいない。このどうしようもなく巨大な不快がたちまちの内に憤りへと変貌していく。もう抑えられない。初めての感情に戸惑う間もなく、熱く(たぎ)る怒りが全身くまなく行き渡ってあふれてくる。
 冷静になってみれば、眼前の敵は、三番、四番隊や他の社の眷属たちの群れを(またた)く間に殲滅(せんめつ)してしまった相手だ。自分ひとりでは到底勝ち目はない。このように災害が起きている状態で隊として迎撃することも難しい、このままでは自分もやられる、睦月の二の舞になってしまう、ことに思いいたったのだろうが、そんな思考などどうでもよく思えるほどの激しい感情にミヅキは包まれていた。もう、自分の存在も村のことも仲間のことも、すべて忘れるほどの感情の奔出だった。
 絶対に許さない。あたしが、あいつを消す、絶対に。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み