第九章十二話 睦月は闇に包まれる

文字数 4,536文字

 朝までまだだいぶ時間がある。交代で見張りを立てて、他の者は林の中で休ませよう。どの隊員も昨日からの禍津神(まがつかみ)との戦闘で、かなり疲労の度合いが強く見られる。少しでも休ませてやらないと、そう睦月(むつき)が考え、そう指示を出そうとした矢先だった。それまで凪いでいた湖面に突如、大きな渦が現れた。
「睦月殿、あれを」気づいた隊員がとっさに叫んだ。睦月ほか隊員が目を向ける。
 かなり悪い予感がする。また何か良くないものが出てくる予感。
「総員、射撃用意。目標、渦の中心。何が出てくるか見定めてから攻撃する。勝手に撃つなよ」
 隊員は岸に並んで弓に矢をつがえ、いつでも引ける態勢で待機した。その頃には稲荷の眷属たちも天満宮の眷属たちも、異変を察したようで、ざわざわと動きはじめていた。
 そんな眷属たちの視線の先で、渦がその回転速度を次第に上げていく。やがてその中心が徐々に盛り上がってきた。次第に高く、上へ。やがてその先端に民草(たみくさ)の女の姿が現れた。
 その女はまったく力む様子を見せず、周囲を気にする様子もなく、顔を伏せたまま、裸足の足を前に出して盛り上がった渦の表面をふらふらと下りていく。首が、腰が、腕が、ゆらゆらと揺れている。まるで半分眠っているかのように。目も口も半開き、どこを見るでもなく、歩き続けている。
「我は稲荷大明神が眷属である。現在、この一帯を警護しておる。そなたは何者か」
 ざうざうと水の音が立っている湖面に宝珠(ほうじゅ)の野太い声が響き渡った。しかし、湖面を歩く女は聞こえていないのか足を止めることなく、そのまま歩いていく。
「止まれ。そして答えよ。答えぬのならば、攻撃を加える」
 その声にも女は足を止めようとはしなかった。代わりに伏せていた顔をおもむろに上げ、ゆっくりと首を巡らせた。稲荷の眷属たちの目に、女の赤く輝く瞳が見えた。
 突如、湖面から、先端の鋭く尖った一筋の(やり)と化した水が宝珠に向けて飛んでいった。そしてあっと言う間もなく、宝珠の横に立っていた眷属の腹部を貫き、その眷属を後方へ弾き飛ばした。
 まだ感覚が鈍い。狙いが狂う。マコの身体は湖面を歩き続けた。その視線の先には小さな(ほこら)。思わずニヤリと笑った。
「射撃用意。目標、前方、約一町半、水面の民草。撃て」その宝珠の掛け声に続き、睦月や天満宮の眷属からも指示が飛び、一斉に大量の矢がマコの身体に向かって放たれた。
 まだ動きが鈍い。意思の伝達が遅い。そう思う反面、マコの身体の中にある災厄の意識は確かな手応えを感じていた。(せん)だって憑依した際にはこの身体の宿主であった女の意識がどこかで抵抗していた。だから、力を発揮しきれなかった部分が多々あった。しかし今回はすでに女の意識を排除している。魂そのものをこの身体から追い出している。それがため、先ほどより格段に自分の意識を行動に反映することができた。確かに、この女は完全なる()(しろ)にはなりきれなかった。それでも尾の(くさび)を消し去り、真の依り代を見つけるためには充分な力を発揮することができそうだ。
 背中に矢が突き立った。水の壁を造りその大半を防いでいたとはいえ、まだ力の制御が完全ではなかったことと、それほどこの肉体自体を大切に使う気がないのとで、防ぎきれなかった矢が突き刺さっていた。
 五月蠅(さばえ)なす眷属たちの集団を(わずら)わしく思ったものの、奴らは矢を撃つしか能がないようだ。他に大した攻撃もしてこない、とマコの身体の中で災厄は思った。だから、眷属たちのことは無視してただ、尾の楔に向かって水面を歩いていった。
 その姿を見て宝珠は焦りを覚えた。この相手には矢は利かない。剣で斬りかかるにしても、相手は水を操るようだし舟もない現状、水上では対抗が難しい。では、残された方法はこれしかない。
「総員、変化(へんげ)。湖面を駆け、あの女の息の根を止めろ。突撃」
 その掛け声に稲荷の眷属は全員、弓矢を地に置き、神狐の姿に変化して、湖面を駆け出した。
 眷属たちの身体は軽い。特に稲荷の眷属は、変化した姿では、天満宮や春日神社の眷属に比べて軽く、水面も足さえ止めなければ沈まずに走ることができた。稲荷の眷属たちが次々に湖面を走り、群れ成してマコに向かって突進していった。
 その様子を見て、睦月もとっさに覚悟を決めた。すぐに脇にいた女眷属を、増援を要請するため春日村へと走らせると、四名いた男眷属を変化させて水面を泳がせ、女眷属たちは手に剣を抜き放ってその背に乗った。今、ちょうど男眷属と女眷属は四名ずつの同数。男眷属があまりいないので八艘(はっそう)の陣形は展開できない。このまま騎乗して一撃必殺の攻撃を各自加えるしかない。普段、ともに行動することがない他の社の眷属との合同作戦だけに不安は拭いきれなかったが、それでも尾の楔を守護するしかない。それに、稲荷の眷属が動きはじめたのだ。この郷一の武勇を誇る神鹿隊(しんろくたい)が後れを取ることなどあってはならない。
 対岸の天満宮の眷属たちは弓に矢をつがえて立て続けに引き絞り、放った。彼らは自分たちが水面ではまったく攻撃能力がないことを自覚していた。だから他の眷属たちの援護支援を行うつもりだった。
 ひとしきり降り注いだ矢がやむと、眷属たちが身体を変化させて湖面を駆けてくる。稲荷の眷属が(またた)く間に近づいて牙を光らせながら、口を大きく開いて飛び掛かってくる。
 やれやれ、大人しくしていれば、まだもう少しは消滅せずに済んだものを、災厄の意識は呟いた。
 神狐に変化している先頭の眷属は、跳びながら狙いを定めた。目の前には民草の女の細い首、一気に噛みつき、喉笛を砕いて窒息させる。しかし次の瞬間、彼は空中で停止し、そして勢いよく空高く持ち上げられた。湖面から、周囲の場景を一変させるほどの大量の水の槍が天空に向かって突き出していた。
 同時に、湖面にいた眷属たちのほとんどは空高く持ち上げられた。身体のどこかを鋭利な水に突き刺されて。天満宮の眷属たちが呆然と眺めている中、槍が崩れ、湖面に戻っていった。それにつれて空中に持ち上げられていた眷属たちの身体が水面に叩きつけられた。瞬時にして静寂が戻る。湖面にある眷属たちの身体はほぼ動くことなく、ただ緩やかに湖面の波に揺れているだけだった。
「放て!」とっさに我に返った派遣部隊の長の言葉に天満宮の眷属たちはみな、再び尾の楔に向かって歩きはじめたマコの身体に向けて矢を放った。マコの身体は一息短く吐くと、少しそちらに首を巡らせた。その途端、再度、鋭利な水の槍が湖面から出現し、天満宮の眷属たちに向かって伸びていった。
 その数本の水の槍はそれ自体意思を持っているかのように身体をくねらせながら、木々をなぎ倒し、地をえぐり、とっさに逃げ惑う天満宮の眷属たちに、考えられないような圧力で迫り、襲い掛かった。ほぼ全員がその場に動けなくなるほどの傷を負った。
 その有り様を、湖面に浮かぶ男眷属の身体にしがみついた状態で、睦月は眺めていた。
 何という、無力。昨日、襲来してきた禍津神の時も思ったが、自分たちでは歯が立たない。しかし、禍津神の時は何とか一矢報いる、気を逸らす、多少なりとも苦しめる、そんな手応えはわずかなりとも感じることができた。しかし、この敵は違う。圧倒的な力の差を感じる。いや、力の差というのもおこがましい気がする。言うなれば、そんなことを超越した存在としての質の違い。
 この娘は“神”なのだろうか。しかし、外見はまったくの民草にしか見えない。稀に神が人型に姿を変えて里に顕現することもないことはないが、それでも彼ら眷属には気配で民草でないことは分かる。目前にいる娘は、器は民草そのもの、しかし中身が、存在感がまるで違う。考えられることと言ったら、あの娘の中に何かが憑依している。その何かは疑うべくもない。このような強大な力を有し、水を自在に操っている。間違いなく災厄があの娘に憑依している。
 自分たち眷属は神に準ずる存在、神に次いで尊い存在だと、疑うこともなく信じてきた。しかし、それがどうだ、あの敵の前では無力でしかない。塵芥(ちりあくた)も同様な存在でしかない。口惜しい、我らがこんなにも小さな存在だったとは……。睦月はぐっと歯を喰いしばった。そんなことは認められない、認めない。どうにか一太刀喰らわせてやる。
 睦月は自分がしがみついている雄鹿の様子を確認した。ピクリとも動かない。更に歯を喰いしばりながらも周囲を確認した。あそことあそことあそこにも浮かんでいる。自分も左肩を貫かれている。感覚がない。ただ、雄鹿の身体が盾になってかろうじて助かった。他に動ける眷属は見渡す限り一人もいない。それどころか苦しんでいる様子を見せる者もいない。湖面上に鹿姿や狐姿の眷属が点在して静かに浮いている。我がやるしかない。睦月は不気味な光を目に宿しながら、静かにゆっくりと前方を行くマコの背に向かって、雄鹿の身体ごと泳ぎはじめた。

 目前に小さな祠。禍津神は消滅してしまったようだが、結界を破り、この楔の姿を見えるようにした。よくやったと言ってやりたいが、もう言うこともできない。しかし、それもしょうがない。所詮、奴は道具でしかない。我が復活してまたこの国に君臨することになれば奴も報われるであろう。そう思いながらマコの中の意識はじっとその祠を赤い目で見つめた。一気に葬ってやる。赤い目の光が強くなった。その時、背後に接近してくる気配を感じた。
 睦月はしがみついていた雄鹿の身体に飛び乗ると剣を抜き放ち、他の浮かんでいる眷属たちの身体の上を跳びながらマコの背後へと迫った。倒すことはできなくても、少しでも時間稼ぎができれば。すぐに隊長たちが来てくれる。それまでわずかでも……そのまま右手を差し出して剣先をマコに向けたまま突っ込んでいった。しかし、その剣先が伸びていくより早く、睦月の身体に無数の水の槍が伸びてきた。次の瞬間には、どれだけの槍が身体を貫いているのか予想することも不可能なほどの数。もう、どこにも逃げられない。ああ、だめだ、我はもう、消滅する。
 そう悟っても特に何の感情も湧いてこなかった。ただ、ミヅキに仕返しするの忘れてた、とふと思った。
 そして彼女のすべてが闇に包まれた。

 ――――――――――

 ミヅキは明朝、尾の楔の警護に向かう準備をしていた。彼女も傷を負っていたが戦闘不能なほどでもなく、疲れてはいたがそれを言える立場でもなかったので、休む間もなく立ち働いていた。
 弥生(やよい)は戦闘不能者が多く出たために部隊再編している。明日からの尾の楔とこの村の警護の担当決めをせねばならず、少しも手が空かない。他の隊員たちには少しでも休んでもらいたい、そう思うと細々したことはミヅキがするしかなかった。
 深夜になり、武具装備の在庫や糧食の数量などの点検を済ませて、ミヅキは一息吐いた。もう、これで準備はいいかしら。もう、そろそろ私も休もうかな、そう思った矢先、ふと、鼻先に芳香が漂ってきた。夕刻、如月(きさらぎ)殿が客人をもてなすために花を咲かせていたけれど、その残り香だろうか、と思った。そして、ふと睦月のことを思い出した。
 睦月がいるだろう北の方に視線を向けた。上空で無数の星々が(きら)めいていた。
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