第十章十二話 地を割り雷を落とす

文字数 4,130文字

“バカヤロー!”
 消え行くロクオンを見つめながら、カツミは叫んでいた。俺なんかのために、本当に馬鹿だ、馬鹿野郎だ。
「兄者」とナツミの声がする。振り返るとすぐそばにいた。何とかロクメイの脚力で水龍の包囲から逃れることができたのだった。
 カツミはすぐにロクメイの背から降りると周囲を見渡した。神鹿隊(しんろくたい)の隊員たちが社殿前に横並びに防衛線を張っている。そこに水龍たちの攻撃がひっきりなしに飛んでくる。何人かは負傷して倒れている。どの顔も必死の形相をしている。もう体力も限界を超えている。誰もが満身創痍の状態。カツミはどこかに突破口でもないか探ろうと敵に視線を向けた。
 水龍たちの群れが次々迫ってくる。水の(やり)や刃がこちらに向かって飛んでくる。その奥で、マコの身体が両手を横に広げて立っていた。
 マコの中にある、災厄の分御霊(わけみたま)はすでに悟っていた。周辺で唯一残っている建造物である春日神社社殿(かすがじんじゃしゃでん)の奥にある、小高い丘に神々の気が集まっている。集まり、まとまり、一つになっていく。()(しろ)に憑依しようとしている。依り代の民はあの丘の上にいる。それならそれ以外のものはすべて不要。
 マコの身体は念を込めると一気に、両手を前に振った。
 一瞬にして、周囲の気の流れが変わった。まだ残っていた眷属たちはみな、更なる何事かが起こる予感を抱いた。けっして自分たちには良い事ではない何かが起こる。確信に限りなく近い予感。そして、それは間もなく、地面を小刻みに揺らし、轟音を響かせながらやってきた。
 大きな水の壁。そうとしか見えなかった。地の上を滑るように湖の方から流れてくる。
 巨大な怒濤が迫りくる中、サホはただ苦渋の表情をていしたまま立ち尽くしていた。今日は朝から戦い続けだった。ずっと気を張り続けてきた。村を郷を仲間を助けるために、尋常ではないほどに。でも、もう、無理だ、と思った。思った途端に身体が動かなくなった。見るからに逃げられない、抗えない。偉大な前任者である如月(きさらぎ)に認められたい一心で、今まで身を粉にしてきた。気を張り続けてきた。しかし、もう、それもすべてが水泡に帰す。すべてが無駄だった。一気に力が抜けていく。もはや、ここまでか……
 近づくほどに見上げなければならない高さがある。すべてのものを呑み込み、破壊しながらただひたすらに近づいてくる。
 ああ、終わった。それを見た途端、弥生は諦めた。それまで身体中、水の刃や槍に襲われて傷だらけで腕も足もほとんど動かなかったが、それでもまだ抗う術がないか必死に考え、可能な限り動いていた。でも、こんなもの見せられては、もう諦めるしかない。もう終わりだ。この村も、この郷も、この国も……。弥生はそのまま崩れ落ちるようにへたり込んだ。もう、微塵も身体に力が入らなかった。我の最期はこんなものなのか……
 鹿姿のままでロクメイはそれを目にした。足が動かなくなった。とても目の前の場景が現実のものとは思えなかった。自分の常識も想像も遥かに超えた現象でしかなかった。とても思考が追いつかない。頭の中にはただ、ただ、疑問符が並ぶばかりだった。
 何よ、これ。こんなの聞いてないし。こんなの反則じゃない。いくらなんでもこれは、無理……ナツミは(ちぢ)こまった身体を細かく震わせながら、ただその巨大な力の固まりを見つめていた。
 そんな妹の手を取り、カツミは社殿裏に向かって走り出していた。せめて妹だけでも助ける、その一心で。
 そして、それは、彼らすべてを呑み込んだ。

 その様子を、リサは呆然と眺めていた。
 自分の身体がいつもの倍、いやそれ以上の速さで移動していることも、前方から巨大な水の壁がこちらに迫っていることも、見えていたし、感じることができていた。しかし、自分が身体を動かしている訳ではないので、どこか客観的な視点で物事を見ていた。
 眼前に春日神社の境内(けいだい)が広がっている。そしてそれを上回る大きさの水の固まりが正面から迫っている。一息に境内はおろかこの村そのものも呑み込んでしまいそうなほどの大量の水。きっと、あれに呑み込まれたら助からない。誰でも、どんな存在でも。そう思えるほどに人智を超えた威圧感で迫ってくる。
 城壁のようにそそり立つ巨大な怒濤、ふと気づくと、前にマコの姿があった。
 マコ、逃げて、速く!リサは叫んだつもりだったが、実際の口からは何ら声は出なかった。
 大木はひと押しでへし折られ、家屋は呑み込まれたとたんに粉微塵に粉砕された。物の大きさや重さに関係なくすべてを呑み込み、すべてを破壊していく、その一環として水の固まりはマコの身体を呑み込んだ。そしてそこにいた眷属たちも社殿も周辺の家屋も人々もその生活も一緒くたに呑み込んだ。
 マコの姿が消えたことにリサが目を見開いた瞬間、身体が大きく息を吸い込んだ。それは突風が何の予告もなく吹いてきたように一気に内に入り込んできた。こんなにも吸い込めるはずがない、とリサが思うほどに。そして次の瞬間にそれは一気に吐き出された。
 風が飛んだ。鋭く、強く、すべてを圧するように。
 それは水の壁にぶつかると巨大な穴をそこに開け、そのまま突き進んだ。
 その巨大な穴の、その先にマコが姿を表した。気体の膜の中に渦巻く水の衣をまとって立っていた。
 リサは、マコがなぜそんな状態でいるのか理解できなかった。だからこれからどうなってしまうのかまったく予想ができない。心配でしかない。
 リサの身体は境内に到達する少し手前にいる。そこで急に両手を横に広げた。もう目の前には水の壁が迫っている。上げた両手を急に地面に向けて叩きつけるように振り下ろした。瞬間的に地が揺れはじめた。それもかなり大きく。水の壁が大きく揺らぐ。
 一際(ひときわ)大きく地鳴りが轟いたかと思うとリサの足元から地面が大きく割れた。割れ続けながら左右の遥か先までとどまることなく進んでいった。リサは自分の足元を見る。こんな闇夜でも分かる、計り知れないほどのその底深さ。
 襲い掛かってきた水の壁は急に開いた地の溝に呑み込まれていった。自分が身の内に取り込んでいたものとともに止め()もなく。どんな瀑布も敵わないだろうほどの轟音を残しながら壁は崩れ落ちていった。いつやむともしれぬ轟音の中、リサの顔が上空を向いた。
 マコの頭上に黒い雲が渦巻きはじめた。マコの中の意識はとっさに周囲に流れる水を操りリサに向かって攻撃を繰り出した。
 水の固まりの中からそれこそ無数の槍と化した水がリサの身体に襲い掛かってくる。しかし、そのどれもがリサの身体に触れる前にパンっと弾けて水滴になって消えた。更に無数の水の刃も飛んできた。しかし、それも同じく水滴になるばかりだった。
 マコの頭上の黒雲は、中で小さな稲光を発生させながら、もくもくと急速に育っていった。
 急にマコの身体が周囲の水を操って、そこら辺中にある折れ、倒れ、流れている大木の幹を上空に持ち上げた。巨大な柱が急速に上空に昇っていった。それはまるで木々をくわえた龍が空に立ち昇っている姿のようだった。
 突然、辺りが光に包まれた。衝撃音に周囲のすべてのものが激しく揺すぶられた。
 黒雲から生じた雷が昇竜を貫いていた。頂点にあった木々を粉々に粉砕し、その身の中を走り落ちて真下にいたマコの身体に達する。
 マコの身体はとっさに頭上にあった分厚い水の層を分散させて避雷しようとした。しかし、ある程度、雷は枝分かれしたもののその衝撃は凄まじく、その枝に貫かれた途端、身体は瞬間的に硬直し、中にある意識は危うく器から弾き出されそうになった。何とかマコの身体の中にとどまったが、しばらく身体を動かすことができなかった。足先から雷は抜けていったために、見た目、マコの身体は異常がないように見えた。しかし、その硬直はなかなか解けず、いくら意識が命じても伝達が各所で滞っていた。
 ちょ、ちょっと、何しているの?マコ、大丈夫なの?ねえ、マコ。リサは思わず声を上げていた。張り上げるほどの声を発しているつもりだったが、大して響いていない。ぼそぼそとしか聞こえてこない。自分の声なのにちょっと聞き取りづらい。
 困惑する。それまで神任せで安心しきっていた。何せ、神様に任せるのだ。けっして悪いようにはしないだろう。自分の予想とは全然違う結果になるかもしれないけれど、きっと良い結果にしてくれるはずだ、と漫然と信用していた。それがとても自分に都合がいいように解釈した予想だと、今、気づいた。そうか、この神様たちはマコのことなんか考えていない。この村を、自分たちの村を守ることしか考えていない。そして相手を倒すことしか。
 自分の身体が更に頭上の黒雲を眺めている。また、稲光がところどころで黒雲の内部を点滅させていた。次第に点滅の間隔が狭まってきた。このままじゃ、マコが……。
「やめてください。お願いします。あのコは私の妹なんです。絶対に何かに操られています。あのコは悪くないんです。だからあのコのことを助けてください。お願いします」
 努めてはっきりと発言したつもりだった。しかし周囲には、また、ぼそぼそとしか響かない。そのせいか誰にもその声は届いていないようだった。そのままリサの身体はただ、成長を続ける稲光を見つめていた。
 まったくの無視。自分の存在など影も形もないかのように。普段だったらそんなこと気にもしない。ある意味、慣れているから。でも、このままではマコがどうなるか分からない。
 何をもって仲が良いと断じていいのか分からなかったが、たぶん普通に仲の良い姉妹だったと思う。その存在がありがたいと思ったこともあったし、うとましく感じたこともあった。でも、身近すぎて、それが掛け替えのない存在だなんて考えたこともなかった。あたしが高校に入ってからは別々の道を歩むようになって、そんなに一緒にいる時間もなくなった。だからマコがいないと困ることもほとんどないし、寂しいと思うこともめったにない。でも、目の前で妹が傷つけられるのを見るのは絶対にイヤだ。そんなこと耐えられない。だから叫ぶ。絶対に聞こえるように感情を解き放って自分の気持ちのありったけを込めて。
 イヤーッ!
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