第十章七話 睦月は見た

文字数 4,951文字

 リサは、タカシが受け身を取ることもなく、仰向けに倒れていく姿を目にして無意識に手を伸ばしていた。
 あたしは前にもこんな光景を見たことがある。とても昔のような気もするし、ごく最近のことのような気もする。それは彼の、この人の、凪瀬(なぎせ)さんの……タカシの……
 何か思い出せそうな気がする。大切な何か。大切な人の記憶……倒れ行くこの人を受け止めることができれば思い出せるかもしれない。きっと、そうしなければならない、そんな気が無性にする。
 最大限に手を伸ばす。どうにか間に合ってと願いながら。しかしタカシの身体はリサの指先を(かす)めて、床の上に崩れ落ちた。
「大前に()れ者を連れてまいりました我々の不徳のいたすところ。何卒(なにとぞ)、何卒、御心穏(みこころおだ)いに有らしめ給えと(つつし)(うやま)いて(もう)す」
タカシがどさっと音を立てながら床に倒れるとほぼ同時に、如月(きさらぎ)幣殿(へいでん)中央に進み出て深々と頭を垂れながら本殿(ほんでん)に向かって奏上した。ふっと社殿内に充満していた圧力が弱まった。
「凪瀬さん!」倒れてピクリとも動かない身体の上に、おおい被さるようにして名を呼んだ。反応がない。肩を掴んで揺すってみる。やはり反応はない。心が激しく痛む。サッと首を巡らして鋭く如月を見ながら言い放つ。
「凪瀬さんに、何をしたの」
 如月は平伏していた姿勢からすうっと上体を起こしながら身体ごとくるりと回ると、人が変わったような様子を見せるリサを、感情の色が消えた目でじっと見た。
「その者は大神様の勘気(かんき)に触れたからなあ。仕方のないことだえ。しかし、大神様の寛容なる大御心(おおみごころ)により命に別状はない。安心しい。それより、そなた、そろそろ、参ろうかあ。そなたは、そなたがせねばならないことを粛々と行うのだえ」
「いや、凪瀬さんをこのままになんてして行けない。凪瀬さんを助けて。お願い」
「それは無理じゃ。大神様の勘気をこうむってしまっては、もう我らではどうしようもない。その者自らが立ち直るしかないのだえ。時間が掛かることなんやあ。まあ、どだい民草(たみくさ)には難しいかもしれぬがなあ」
「そんな、大神様にお願いしてください。凪瀬さんが目を覚ますように」
「そんな不敬なことはできんなあ。その者は大神様の勘気に触れ、それなりの結果を得たからなあ。それからどうなるかはその者次第だ。それより、急がねばそなたの身内の者ももうすぐそこまで来ておるえ。遺憾なく()(しろ)としての力を見せねば、この郷もろともそなたの身内の者も助からぬかもしれぬぞえ」
 リサはグッと言葉を呑み込んだ。言いたいことはたくさんある。しかし何を言えばいいのか分からない。何を言えばすべてがうまくいくの?
 そんなリサとタカシのかたわらで、第三者的な立場からマサルは種々思考を巡らせていた。
 男は大神様に気を封じられた。このままでは目覚めることはないだろう。依り代の娘をどうにか依り代と成してこの郷の置かれた状況を打開せねばならない。そのためには春日(かすが)の大神や眷属の言うことは理に適っている。我もそのためにここまでついてきている。しかし、依り代の娘は男の存在があるために混乱し、逡巡(しゅんじゅん)している。このままでは気持ちの整理がおぼつかなくまっとうな依り代となれないだろう。それなら、と思い定めてマサルはリサに向き直った。
「娘よ、その男は我が預かりましょう。我の里ならその者を助けることができるかもしれません。そなたがこの雨を降らしている災厄の御霊をどうにか鎮めることができれば、我は里にこの男を連れ帰り、助けましょう。約束します。だから、今はどうか依り代となり、この郷を救ってはくれませんか」
 リサは更に逡巡した。本当にどうすることが最良なのか分からない。タカシの様子をジッと見る。激しい雨音が響いている中では呼吸をしているのかどうかさえ分からない。とても、命の色が、薄くなっているように見える。
 思い出したい、この人との記憶を。
 リサの胸の内に急激に込み上げる思いがあった。どうすればいいか、何て分からない。でも自分が動かないと何も変わらない、それだけは間違いない気がする。
「分かりました。すぐにでも出発してくれるのなら、凪瀬さんを一秒でも早く助けると約束してくれるのなら、私は依り代になります」
 マサルの目に、リサの顔立ちから、姿勢から、少し幼さが抜けたように見えた。

 ――――――――――

 睦月(むつき)御行幸道(みゆきみち)を捜して林の中をさまよっていた。
 真っ暗闇の中、はっきりとした方向を知ることはできない。ただ、今いる熊野村は、郷中心部に近い東側から山々の連なる西側に向けて、場所により緩急はあれど、おおむね上向きに傾斜している。だから周囲の傾きを頼りに西方向へ、山の麓付近にあるはずの御行幸道を目指して進んでいた。
 それにしても草木の生い茂り具合が(いちじる)しい。苔むした倒木が至る所で行く手を塞ぐ。ツタやつる植物が縦横無尽に繁茂して足はおろか身体中に絡まってくる。歩きづらいなんてものではない。まるで立ち入りを意図的に拒んでいるかのように思えるほど。
 もちろん、郷内の他の村に行っても山中深く立ち入ればこのような歩行困難な空間はいくらでもある。しかし、里の近くの山や林はある程度、生活スペースの一部として人や眷属たちの手が入っていた。そしてここは熊野村の中では断然、里に近い林の中だった。
 八幡村や我が春日村に比べて、この村に民草が少ないのは承知しているが、それでもこれだけ荒れ果てているということはここの眷属たちが何の手入れもしていないということだろう。まったくここのカラスたちはいったい何をしているのだろうか?
 睦月の脳裏に、いくら援軍要請してもまったく動こうとしなかった熊野の眷属たちへの憎々しさが渦巻いていた。
 激しい雨が、高木の枝や葉にあたり、砕かれて飛沫(しぶき)となって辺り一面に無数に跳ね飛んでいる。それに混ざって時折、樹々の枝葉を打つ音、ドスンと地を揺るがす音が辺りに響く。
 それは不定期に何度も聞こえてきた。その度に睦月の身体がビクンと揺れる。音のした方へと視線を向けるが暗くて何も見えない。じわりじわりと心細さが忍び寄ってくる。特に今まで気にしたことがなかったが、彼女は基本的に一人で行動することがほぼなかった。隊で行動する時はもちろん誰かと行動をともにするし、プライベートではちょくちょくミヅキが寄ってきて行動をともにしようとした。こんなに一人を感じたことなんて、いつ以来だろう……
 弱気になる自分を振り払うように、自分の身長と変わらぬ高さの茂みを掻き分けていく。右手に持った剣で斬り払っていく。茂みの枝葉がその拍子に飛んでくる。飛沫が全身に掛かる。左手を上げて額から(したた)り落ちている雨を拭う。と思うがその通りに動いてくれない。ゆっくりゆっくりと左腕は動いていく。やっと慣れて、動いてくれるようになったけど、まだ動きが鈍い。
 睦月はじっと左腕を見つめた。最初は白っぽかった色もだいぶ自分の肌や装束(しょうぞく)の色に近づいてきた。そして、言い知れぬ力を、その波動をじわりじわりと感じる。きっと宝珠(ほうじゅ)殿は我にかなりの力を与えてくれたのだろう。その最期を見た訳ではないが、きっと宝珠殿はもうおられぬ。我など見捨てて、力を温存しておれば対抗のしようもあったのかもしれない……
 ぐっと睦月は歯を喰いしばった。いらぬことを考える前に我はすることをせねば。稲荷村に行かねばならない。それが宝珠殿の望みなのだ。ただ前だけを見て、茂みを掻き分けて進む。ただひたすらに。
 そんな睦月の足が何かを踏んだ。ぬるりとした感触。とっさに足を引き、目を()らしてみる。動く気配がする。これは、(まが)い者か、と思う間もなく飛び掛かってくる気配。禍い者は地中深くに存在していたせいか基本的に暗中を苦にしない。元から視力などなく嗅覚やその他の感覚で動いているのかもしれない。まったくためらうことなく飛び掛かってくる。
 睦月は剣を盾にして防ぐべく右腕を上げようとした。しかしその先につる草が引っ掛かる。あっと思った次の瞬間、彼女の左腕が強く輝いた。そして、彼女の身体の前面にぶわっと広がった。それは、まるで宝珠の尾のように。
 自分の左腕が発する光で、大きな禍い者がそれに触れた瞬間、弾かれて地に落ちていく様子が見えた。すぐさま睦月は剣の(いまし)めを斬り払い、その禍い者に突き立てた。 
 どうやら先ほどからの落下音と衝撃は禍い者たちが空から降ってきた音なのだろう、と睦月は察した。湖から巻き上げられ方々(ほうぼう)に飛ばされた禍い者たち。これはまた厄介なことだ……
 それにしても、この腕、宝珠殿の能力が備わっている。そう驚愕の思いを抱きながら、まだ白く光っている腕を眺める。自分は今、一人ではない。宝珠殿とともにいる。そんな心強さに胸中まで照らされている気がした。
 睦月は再び歩きはじめた。迷いなく、弱気になることもなく、腕から発せられる光を頼りに。
 しばらく行くと、腕の光が消えた。また、暗中模索の道のりとなったが、とどまることなく、ためらうことなく進んで行く。そんな彼女の耳に突如、雨音に交じって、ズシン、ズシン、ギギギギ、バサバサバサバサ、ドシーン、という異常な音が聞こえてきた。音とともに地も小刻みに揺れる。何事?と思っていると、それから続けて何度も同じような音が周囲に響く。そして、うおおお――んと吠えるような声。西の方から何かが次第に近づいてくる。
 睦月の肌にただならぬ不穏さが伝わってくる。思わず、考えるより先に屈み込んで茂みに身を隠した。音はまだ止まない。茂みの間からそちらを(うかが)う。すると(ほの)かな灯りが二つ、目に映った。ふらふらと揺らぎながら衝撃音とともにこちらに近づいてくる。
 睦月が視線を向けている先に立っている高木が、音を立てながら何本も倒れていく。いったい何?と思っていると急に音が止まった。それに連れて灯りも止まった。そして人の声がした。何かを話しているよう。しかし、周囲に充満している雨音で何を話しているのか聞こえない。それらの正体が何なのか、そして何を話しているのか気になって、睦月は雨音に紛れてそちらの方向へ近づいていった。
中宮(なかみや)様、どうかお鎮まりください。このようなこと知られたら里宮(さとみや)様に叱責されますぞ」
 かなり近づいたところで、そんな声が聞こえてきた。
 ――父上など関係ない。我は母上に会いにいく。
 地の底から聞こえてくるような野太く激しい声。聞く者の身を縮こませるに充分な威圧感を含んだ声。
奥宮(おくみや)は反対方向です。こちらに行かれても奥宮様はおられません。それに、奥宮に行かれてもお会いすることはまだ、叶いません。どうか御心(みこころ)お鎮まりになられてお社へお戻りください」
 ジッと目を凝らして見ているとぼんやりと会話をしている者たちの様子が見て取れる。何か巨大な存在。それが樹々をなぎ倒し、地を揺らしていた存在であることは明白だった。それは漆黒の闇夜に更に黒く浮かび上がっている。そしてその両脇に行燈(あんどん)を手に持つ、背に黒い羽根を生やした熊野の眷属。宙に浮かびながら話をしている。
 ――いつになったら我は母上に会えるのだ。このような雨の中、母上が難儀されているのではないかと心配でたまらんのだ。どうにかしろ。
「しばし、しばしお待ちください。間もなく、間もなくでございます。ただいまエボシ殿が尽力されておられます。もうすぐ奥宮様が黄泉(よみ)よりお出になられるほどに、この郷にケガレが満ちることでしょう。されば、どうか、もうしばらくお待ちください」
 ――もう、待つのは飽きた。いい加減、我慢も限界だ。これ以上、待たすようなら我は我の力によって(さわ)りを除くのみ。心得ておけ。
「それは、けっして里宮様が許されぬかと……」
 ――父など、関係ない。我は我のしたいようにする。それだけだ、よいな。
「はっ、御心のままに」
 再びズシン、ズシンと地を揺らしながら、その巨大な存在は来た道を戻っていった。熊野の眷属たちも付き添いながら去っていく。
 睦月はそのままじっと身を隠したままで、たった今、聞いた不穏にしか感じられない会話を反芻(はんすう)していた。何の話?この郷がケガレで満ちる?
 無意識に身も心も激しく揺れていた。何かとても恐ろしいことが起きている予感に……
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