第四章七話 過去世界の少女

文字数 4,584文字

 考えるより先に身体が動き出していた。黒い煙に向かって突っ込み、拳を振り上げ、何のためらいもなく、そこにある顔を殴りつけた。
 憎悪が凝り固まったような表情。こちらを睨みつけているその顔が一転、苦悶の表情をていし、怨嗟(えんさ)の念にしか聞こえない呻き声を上げながら、拳が当たった部分から風に吹かれるように消えていった。それにつれて周囲の黒い煙も霧散して、消えていった。
 無我夢中で突っ込んで、図らずも相手を退散させることができた。前の世界にいた人型のケガレと同じ類のものなのだろう。前の世界でケガレはリサの負の感情が具現化したものだった。恐らく今回も同様なのだろう。きっと、さっきの男がリサの自我世界に繰り返し現れてくるのは、現実でも彼女に負の感情を想起させる存在だから、そう思いつつ視線を部屋の中央に移す。少女が首を押さえながら激しく咳き込んでいた。
「リサ?」タカシは目を見開いた。そこにいるのはリサによく似た少女だった。いや、どう見てもリサに見える。ただ、とても幼い。恐らく小学生くらい。
「大丈夫かい?」とりあえず声を掛けてみた。少女はしばらく咳き込んだあと、ぜえぜえと激しく息を繰り返していたが、少し落ち着くと、ゆっくりと視線を上げた。タカシの視線と重なった。その瞳には恐れと戸惑いの色。彼に会えた喜びは微塵(みじん)も浮かんでいなかった。
「もう大丈夫だ。もう変な生き物はいない」その場にひざを着きながら、なるべく優しい声で彼は言った。

 微かに土間まで伝わってくる声を聞いて、マコは、お姉ちゃん?と言いつつ、かまちを上がろうとした。それをナミが肩に手を掛けて止めた。いったい何が起きているのか分からない状況。危険があるかもしれない。
「ここで待ってて。私が見てくるから」
 そう言って靴を脱ぐと、トンと畳の上に飛んで、そのまま奥に向かった。開いた障子戸の横で眷属たちと一緒にルイス・バーネットが中の様子を眺めていた。
「ヒフミ、マコちゃんと一緒にいてあげて、ここは私に任せて」
 ルイス・バーネットは微笑んで、分かった、と言い、土間に向かった。
「みんなもここは私が面倒看るから、ちょっと外に出てて」
 眷属たちもみな、玄関に戻った。
 ナミは続いて部屋に入り、タカシと少女の姿を見た。状況がいまいち掴めない。でも、他人の自我の中なんてそんなことの方が多いのだ。こんな時は、無理に現状を把握しようとせず、場の流れに身を委ねた方がうまくいく、ことが多い。
「ねえ、ここは女同士の方がいいんじゃない。あなた、ちょっと外に出てて」
 タカシがナミに視線を向けた。困惑の色が濃く表れていた。たぶんリサだろう少女のことが心配でたまらない。しかし、どうしてこんな姿になっているのか、どう対処したらいいのか分からない、といった表情。
「大丈夫。私に任せて」そう言われてしぶしぶタカシは部屋を出ていった。
「もう、誰もいないわ。泣きたいなら遠慮なく泣きなさい。少し話をしているから、応えなくていいから聞いていて」
 少女は荒い呼吸を繰り返しながら、黙ってうつむいている。
「私はナミ。あなたを担当する送り霊よ。だからあなたのことは恐らく誰よりもよく知っている。だから私に気兼ねする必要は微塵もないわ」
 少女は動かない。ナミは少し間を空けて続けた。
「ここはあなたの魂の中の世界。現実世界ではないわ。それを信じるかどうかはあなた次第だけど、あなたを助けるためにさっきの男の人と私はここに来たの」
 少女の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
「あなた、山崎リサね。山崎マコのお姉さん」
 マコの名前が出た途端、リサの身体がピクリと反応した。ゆっくりとナミに顔を向けた。
「さっきの男の人は、凪瀬タカシ、覚えている?」
 リサはゆっくりと首を横に振った。

 しばらくしてナミが一人で奥の部屋から土間へと戻ってきた。土間を上がってすぐ左横に、食卓として使用しているのだろう大きな座卓があった。土間から離れた部屋の奥には大きな漆塗りの黒光りする仏壇もある。
「お姉ちゃんは?」ナミが畳の部屋に入るとすぐにマコが声を掛けた。
「だいぶ落ち着いたわ。ちょっとみんな外に出て」
 全員が玄関から外に出たところで、ナミが淡々と状況説明をはじめた。
「中にいたコは山崎リサ。この世界そのものの存在。この世界の崩壊を止める唯一の鍵になる存在。そして彼女はさっき何かに襲われていた。もう、その何かは消えてしまっているけど、しばらく立ち直れないかもしれない」
 眷属たちは事前にタカシから聞かされていたものの、いまだ彼らの言う世界観に実感が湧かず、ただ黙って聞いていた。
「俺が一緒にいる。そばにいたい」眷属たちの間からタカシが声を発した。
「それは、今はやめた方がいいわ。彼女はあなたのことを覚えていない」
「それは、どういう、ことだ?」露骨に戸惑いの乗った声。
「彼女は過去の山崎リサなの。恐らくこの世界自体が山崎リサの過去をもとに創造されている。過去の彼女だからあなたのことを知らなくて当然でしょ」
 タカシは、今度はあからさまに落胆し、寂しげな表情を見せた。
「だったら、あたしが」というマコに、即座にナミが言った。
「あなたも今はやめておいてあげて。もう少し落ち着くまで」
 マコも戸惑いの表情を見せた。
 そんな人間たちを横目に玉兎(ぎょくと)が唐突に声を発した。
「つまり中の女の子を慰めて落ち着かせたらいいんだろ?そりゃ俺の出番じゃないか」そう言うと玉兎は玄関に向かった。
「あなた何するつもり?」
「いいから任せろって」そう言うなり玄関を入りかまちを上がった所でシュンと姿を替えて一羽の白兎(しろうさぎ)になった。そしてそのままとってん、とってんと廊下を進んでいき、リサのもとに向かった。
 リサは部屋の真ん中で座り込んでいた。そのひざ元に白兎は進んでいき、辿り着くとその場で丸みを帯びた姿でとどまった。
 突然、現れた白兎にリサは驚いたが、そのまま動こうとしないその姿を眺めていると思わず手を上げて、その頭に触れた。白兎は赤い鼻をひくひくさせているだけで逃げようともしない。そのまま頭から身体にかけて撫でてやった。
 何度か白い毛を撫でているうちに、ふとリサは微笑んだ。すると今度は光り輝くような毛並みの子ギツネが開いた障子戸から現れた。それはそのままリサのひざ元に行き、その上に前足を置くと視線をリサの顔に向けた。これまた突然現れた子ギツネにリサは驚きの表情を見せたが、毛並みがすごくきれいだし、すごく人懐こそうだったので、思わず空いた手でその頭から身体を撫でてやった。
 これが動物セラピーってやつね、と部屋の中に入りながらナミは思った。
「落ち着いたら玄関に来て。みんな心配しているから」それだけ言うとナミは退室していった。

「いいよな、あいつら」土間で蝸牛(かぎゅう)が呟いた。
「何がです?」その横でヨリモが訊いた。
「いや、我々では、あんまり癒しにならないな、と思って。我の牛姿では逆に怖がらせてしまうかもしれぬし、そなたでは、あまりに」
「あまりに何ですか。一緒にしてほしくないのですが」
「いや、(はと)はあまりにありふれていて、そこら辺中にいるから。嫌いな人も多いし」
「何ですって?私は普通の鳩ではないのです。特別な鳩なんです」
民草(たみくさ)にはその違いは分からんだろうな」
 くっ、と言ったきりヨリモは返答できなかった。確かにウサギやキツネに比べればフワフワな毛並みはないかもしれないけど、よく見れば鳩だってかわいいのよ。
 そんな二人の横をナミは靴を履いて外に出ていった。玄関を出てすぐにタカシとルイス・バーネットとマコがいた。マコが心配そうな顔をして歩み寄ってきた。
「お姉ちゃんにいったい何があったんですか?何に襲われたんですか?」
「大丈夫よ。心配ないわ」意識的にか、感情の籠っていない声。
「教えてください。何があったんですか?」
 ナミはしょうがないわね、というように短く息を吐いた。タカシもリサに何が起こったのか訊きたくてしょうがなかったが、マコの手前、あまり根掘り葉掘り訊くべきではない気がして自制していた。
「そういえば、この家には他に人はいないのかい?」
 話を逸らそうと思ったのか、ルイス・バーネットがマコに向かって訊いた。
「いえ、お婆ちゃんがいます。ここはお婆ちゃんの家ですから」マコは平静を装って答えていたが、その実、姉の状態が気になっている様子が見て取れた。仕方なしにナミが近寄ってマコの肩に手を置くと言った。
「心配しなくても大丈夫よ。お姉さんはただ、この世のものではない変な生き物に出会って、襲われかけてショックを受けただけ。その変な生き物もお姉さんの彼氏が退治してくれたから、もう大丈夫。何も心配ないわ」
「そうですか。分かりました」マコは心の底から安心した訳ではなさそうだったが、一応納得はした感じだった。
 さて、これからどうしよう。ナミが考えはじめた時、砂利道の方から人が近寄ってくる気配を感じた。誰かくる、そうみんなに小声で言った。少ししてその気配の主が現れた。
「あなたたちは、どなた?何か御用かしら?」
 少し音程の低い、掠れた声が聞こえた。みんなの視線の先には、やや前屈みになっている老齢の女性がいた。野良着を着て、サンダル履きの姿。
「お婆ちゃん」マコが祖母の前に進み出た。
「おお、マコ。どこまで遊びにいってたんだ?この人たちは誰だい?」
「うん、私とお姉ちゃんの知り合い」快活にマコが言う。
 孫の知り合い?老齢の女性の顔には怪訝(けげん)な色が浮かんでいた。その表情に、無理もない、とルイス・バーネットは内心呟いた。すでに、タカシの関係からリサのざっくりとした個人情報は入手済みだった。現時点で、山崎リサは齢二十三歳、立派に社会人として自立している存在だ。しかし、先ほど屋内で見た少女がこの世界の山崎リサだとしたら、そんな幼い少女を大の大人が三人も、何の前触れもなく、知り合いだと訪ねてきたら誰だって不審に思うだろう。
「それで、あなたたちはこのコたちとどういったご関係?どこでお知り合いに?」
 穏やかだか、ほんのりと詰問する口調。このひとはけっこう勘が鋭い気がする。ふと、ルイス・バーネットは感じ、ヘタにごまかさない方が良さそうな気がしてきた。
「ねえ、お婆ちゃん。この人たちは心配しなくても大丈夫よ」マコが横から口を出した。
「マコ、あんたも少し見ないうちにすっかり大きくなっているじゃないか。本当にマコだよね。声はマコみたいだけど、あいにく今、眼鏡を忘れて出たもんで、はっきりと見えてないんだよ」
 ルイス・バーネットは首を巡らせてタカシに視線を送った。目が合うとタカシは察した。この際、理解してもらうのは難しいにしてもきちんと状況説明をした方がいいだろう。そう目で申し合わせた。
「すいません。お婆さん。私たちが来た経緯をお話しさせていいただきたいと思います。少し長くなると思いますが、よろしいですか?」
 その声に、老齢の女性は少しの間、タカシの目をジッと見つめた。そして短く息を吐き軽く頷いた。
「狭い家だけど、どうぞ。お茶でも()れますから」言いつつ全員を家の中に招き入れた。
 老齢の女性が玄関を潜ると小さな声が聞こえた。
「お婆ちゃん、お帰り」土間を上がった畳の上にリサが白兎(しろうさぎ)を腕に抱き、脇に子ギツネを従えて立っていた。
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