第十一章十二話 神隠す山の頂
文字数 5,142文字
山王日枝神社の祭神は、今までタカシが出会った神々と違い、
――そうか。
――よかろう。
――精進せよ。
と答えただけだった。ただ、その言葉にタカシは重さを感じた。頭上からズシンと落ちてくるかのように、下げた頭を上げられないような。
結局、祭神との面会は短時間で終了した。早々に社殿を退出したタカシとマサルとクロウは、本殿の背後からうねりつつ山頂へと伸びる登山道の入り口に向かった。
別れ際、口
「数日前から、郷外の土地が消滅しておる。何も聞こえんし、何も見えん。まったくの無になっておる。今、その無がこちらに近づいておる。ゆっくりとだがとても静かにとどまることなく地が消えている。神々も我々眷属も個々ではもう太刀打ちできぬ。和を以て対抗せねばならぬ現状だが、和が乱れ、混沌が大地をおおっておる。たかが
「分かりました」とマサルが答える。ただ実際、ただの民草を峰に入れることには不安しかない。ここまでは、タカシのこれまでの行動から、過酷な
眷属や人々が日々通っているためにむき出しになっている地面が、樹々の間を縫うように、山の斜面に道の存在を描いている。平坦な箇所などほとんどなく、基本的に急な登り坂だったが、階段状になっている訳でもなく、手すりがある訳でもない。登りやすさなどまったく考えられていない、逆に登りにくくされているかのような坂の連なりが続く。現状、東の空が薄っすらと白んできたばかりで、周囲を樹々で覆われた山中では、まだ足元は濃い闇を残している。おまけに夜間に降った大雨で所々ぬかるんで滑りやすい。そんな中、マサルもクロウもひょいひょいと登っていく。特にマサルは、けっして駆けている訳ではないが、それに近い速さで、まったく急坂も地面の凹凸も影響ないと言わんばかりに、ほとんど上体を傾けずに一定の速度で登っていく。当然のことながらタカシは見る見る置いてけぼりにされた。彼はずっと四つん這いの状態で、ほぼ見えない坂道をじわりじわりと登っていた。下に向けていた視線をふと上げるとマサルやクロウの姿が見えない。どうやら一本道のようで迷う可能性は低そうだったが、彼としてはまたかと思う。先が思いやられる。
すると道の先でボウっと灯りが
「すまぬな。民草の目があまり良くないことを忘れておった。ほら、我が照らしてやるから、
クロウが火を入れた
「ありがとうございます。助かります」そう言いつつ前方を見つめる。道の先で立ち止まっているマサルの姿。どうやら自分の到着を待ってくれているようだ。タカシは再び登りはじめた。
ぼんやりと山全体に朝の気が漂ってきた。森閑とした中、突然けたたましく鳥が鳴く。近くで
周囲を埋め尽くす、人の手がほとんど入っていない森の中は、人の侵入を
それでも彼は坂を登っていった。マサルは待ち、クロウは足元を照らし、声を掛けてやった。しかし二人とも決して手を貸そうとはしない。それがもう、修行がはじまっていることをタカシに実感させた。徹頭徹尾、自分で登り切らなければ意味がないのだ、きっと。
それから長い時間を掛けて登り続け、中腹辺りで長い石段に辿り着いた。よく見ると来た道の他にまっすぐ麓まで石段が続いている。
「この上に
マサルはそう言うとさっさと石段を登っていった。タカシは後に続きながら、麓から石段で来たらこんなに苦労はしなかったのに、と心中呟いた。それを察したのか、クロウが、
「この石段は寺院に参拝をする者たちの道。
石段を上がりきると、そこには開けた
そんな建物群の前に山王日枝神社の僧兵然とした眷属たちが固まって立っていた。そしてその者たちと正対するようにマサルがいる。僧兵たちの顔つきは一律に不機嫌そうだった。
「よろしいですか。これは大神様や婆たちや猿山殿もすでに了解済みのことです。我も第一眷属として許可を出し、同行しています。異論反論は受け付けません」
マサルは極力断固とした口調で言い放った。僧兵たちは更に不機嫌な顔つきだったが、神や婆たちや爺の名を出されて言い返すこともできなかった。そんな眷属たちの様子を
「ここの眷属たちにとってお山を管理していることは誇りでもあり、特権でもある。入山料を徴収して利益を得ておるし、自分たちの気にくわない者は入山を許さぬでもよい。恐らく民草であるそなたを峰入りさせることが自分たちの利益にならぬばかりか、前例のないことなので反対しておるのだろう。マサル殿が説得したようではあるが」
すぐにマサルが戻ってきて、さあこちらへ、と言いつつ本堂の前まで先導した。タカシは僧兵たちの冷たい視線を感じつつも従った。
静かだな、と本堂の前に立ちタカシは思った。これまで回った神社社殿の前では、何か内部から気が発せられているような、じっと見られているような、そんな感覚を覚えたが、ここでは少し異質な感じがする。はっきりと言い表すことは難しいが、それは気というより念が、お堂の奥深くにどしりと鎮座している感じ。
森閑とした中、三人はお堂前で礼拝した。特に何の応答もなく、そのまますぐにお堂の裏手へと三人は向かった。そしてまた地面むき出しの山道を登っていった。
その頃にはクロウの行燈はすでに消されていたが、東の空に陽が顔を出し、足元が見やすくなっていた。と同時に薄っすらと霧が辺りを包みはじめていた。それでもしばらく進むうちに三人は周囲を樹々におおわれた高台に出た。標高七、八百メートルほどだろうか、ここまで急斜面ばかりでかなり難儀な道のりで苦しくはあったが、何とか頂上まで登りきることができた、とタカシは一人安堵していた。
周囲には濃い霧が立ち込め、視界が悪い。ただ、ぼんやりと東の空がほの明るくなっているのが分かるだけ。
「こちらへ」とマサルが呼ぶ。タカシがその方へ視線を向けると霧で隠れていて今の今まで気づかなかったが小さなお堂が見えた。マサルとクロウがそちらに向かう後ろからついていく。少しの石段を上がった所に観音開きの扉。
「猿山殿、入りますぞ」と言いながらマサルが、ギギギギと
中には二つの
タカシはマサルたちの背後から内部を覗き見て、一瞬目を見開いた。お堂内部の中心に頭巾を被り、僧衣に袈裟を着て座禅を組んでいる小さな人の姿。その肌は痩せこけ、深い
「猿山殿、峰入りさせる民草を連れてまいりましたぞ。どうかお手引きお願いします」ミイラ化した座禅僧にクロウが声を掛けた。しかし
「クソ爺。民草を連れてまいりました。起きて下され」
その途端、それまでただの
「民草、見えるか」マサルとクロウの肩越しにタカシの目を凝視しながら、その僧がひび割れた唇を細く開きながら声を出した。
「何が、でしょうか」タカシは慎重に言葉を選びながら答えた。
「外に出て見渡せ。見えたらまたここへ」
言葉はそこで終わった。仕方なくタカシはお堂を出て石段を降り、周囲を見渡した。霧と近場に立つ樹木のぼんやりとした姿があるばかり。
その三つの峰を眷属たちは、
マサルの目にはもちろんその連峰の姿が映っている。しかしその
タカシとしては、いったい何を見るのか、それさえ分からずただ辺りを見渡すばかり。霧と樹々しか見えない。もしかしてこの場景のこと?と思ったが、何か違う気がする。恐らく、もっと、これだ、というものに違いない。この世界は神々や眷属たちが
タカシは意識して、うつむき加減になる顔を上げ、胸を張った。自分を信じる。きっと俺はできる。なりたい自分になれる。自分の力でそうなる。
決意を込めた視線が霧を貫いた。そこにぼんやりと影が浮かび上がってきた。そしてたちまちその部分の霧が晴れていった。朝日に輝く急峻な三つの峰の姿が、そこにはあった。