第十一章十二話 神隠す山の頂

文字数 5,142文字

 権現造(ごんげんづく)りの山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)社殿は木造瓦葺(かわらぶ)き、小振りかつ装飾などあまりない簡素な構えだった。ただ、樹木に囲まれ、どんとそこだけ重力が増したかのような一種異様な厳然(げんぜん)さを(かも)している。
 灯籠(とうろう)がほのかに照らす、薄暗い社殿内に全員が座し、挨拶の後、マサルが経緯を説明し、クロウが補足説明していると、すぐ目の前の本殿、御簾(みす)の奥から時折、そうか、と声が聞こえた。
 山王日枝神社の祭神は、今までタカシが出会った神々と違い、相槌(あいづち)以外の言葉をほとんど発しない。タカシが挨拶して、入山の許しを願い出た時も、
 ――そうか。
 ――よかろう。
 ――精進せよ。
 と答えただけだった。ただ、その言葉にタカシは重さを感じた。頭上からズシンと落ちてくるかのように、下げた頭を上げられないような。
 結局、祭神との面会は短時間で終了した。早々に社殿を退出したタカシとマサルとクロウは、本殿の背後からうねりつつ山頂へと伸びる登山道の入り口に向かった。
 別れ際、口(ばあ)が、目婆と耳婆が見聞きしたこと、感じたことを代表して告げた。
「数日前から、郷外の土地が消滅しておる。何も聞こえんし、何も見えん。まったくの無になっておる。今、その無がこちらに近づいておる。ゆっくりとだがとても静かにとどまることなく地が消えている。神々も我々眷属も個々ではもう太刀打ちできぬ。和を以て対抗せねばならぬ現状だが、和が乱れ、混沌が大地をおおっておる。たかが民草(たみくさ)ごときに期待するのは酷かもしれぬが、我らも熊野の卜占(うらない)を信用してみたくなった。民草よ、必ず戻ってまいれ。マサルよ、(ふもと)のことは我らに任せて、そなたはこの民草の杖となり必ず満願(まんがん)させよ」
「分かりました」とマサルが答える。ただ実際、ただの民草を峰に入れることには不安しかない。ここまでは、タカシのこれまでの行動から、過酷な(ぎょう)であっても成し遂げてくれるのではないかと、微かな希望を抱いていた。しかし、実際、登山口に立ち、まさにこれから入山する段になると、やはりどう考えてもできそうな気がしない。微かな希望が更にしぼんでいく気がする。まあ、こんな所で躊躇(ちゅうちょ)しても仕方ない。後は猿山(えんざん)殿に判断してもらおう。実際問題、この民草に峰入りの資格がなければ峰も姿を現さぬだろうし。
 眷属や人々が日々通っているためにむき出しになっている地面が、樹々の間を縫うように、山の斜面に道の存在を描いている。平坦な箇所などほとんどなく、基本的に急な登り坂だったが、階段状になっている訳でもなく、手すりがある訳でもない。登りやすさなどまったく考えられていない、逆に登りにくくされているかのような坂の連なりが続く。現状、東の空が薄っすらと白んできたばかりで、周囲を樹々で覆われた山中では、まだ足元は濃い闇を残している。おまけに夜間に降った大雨で所々ぬかるんで滑りやすい。そんな中、マサルもクロウもひょいひょいと登っていく。特にマサルは、けっして駆けている訳ではないが、それに近い速さで、まったく急坂も地面の凹凸も影響ないと言わんばかりに、ほとんど上体を傾けずに一定の速度で登っていく。当然のことながらタカシは見る見る置いてけぼりにされた。彼はずっと四つん這いの状態で、ほぼ見えない坂道をじわりじわりと登っていた。下に向けていた視線をふと上げるとマサルやクロウの姿が見えない。どうやら一本道のようで迷う可能性は低そうだったが、彼としてはまたかと思う。先が思いやられる。
 すると道の先でボウっと灯りが(とも)った。そしてふわりと浮いたかと思うとすーっと近づいてきた。
「すまぬな。民草の目があまり良くないことを忘れておった。ほら、我が照らしてやるから、(たゆ)まず歩め」
 クロウが火を入れた行燈(あんどん)を手に彼の頭上を飛びながら周囲を照らしてくれていた。
「ありがとうございます。助かります」そう言いつつ前方を見つめる。道の先で立ち止まっているマサルの姿。どうやら自分の到着を待ってくれているようだ。タカシは再び登りはじめた。
 ぼんやりと山全体に朝の気が漂ってきた。森閑とした中、突然けたたましく鳥が鳴く。近くで山鳩(やまばと)がホウホウと鳴く。その声を聞きながらタカシは、この山が霊山であることを実感したような気がした。
 周囲を埋め尽くす、人の手がほとんど入っていない森の中は、人の侵入を(がん)として拒んでいるかのようで、果てしなく続くように見える急斜面ばかりの道は気安く入ってくる者たちを拒絶しているかのよう。まさに、そびえ立つという形容がぴったりくるような山容は、登坂する者の思いや力量を試しているかのようにただ立ちはだかっている。
 それでも彼は坂を登っていった。マサルは待ち、クロウは足元を照らし、声を掛けてやった。しかし二人とも決して手を貸そうとはしない。それがもう、修行がはじまっていることをタカシに実感させた。徹頭徹尾、自分で登り切らなければ意味がないのだ、きっと。
 それから長い時間を掛けて登り続け、中腹辺りで長い石段に辿り着いた。よく見ると来た道の他にまっすぐ麓まで石段が続いている。
「この上に伏龍寺(ふくりゅうじ)があります。礼拝(らいはい)して参りましょう」
 マサルはそう言うとさっさと石段を登っていった。タカシは後に続きながら、麓から石段で来たらこんなに苦労はしなかったのに、と心中呟いた。それを察したのか、クロウが、
「この石段は寺院に参拝をする者たちの道。修験者(しゅげんじゃ)のための道ではない。楽な道を通って満願できるほどこのお山の行は容易くはないぞ」とたしなめた。タカシはもうそろそろ足が痙攣(けいれん)しかけていたが、仕方なくマサルに続いて石段を登っていった。
 石段を上がりきると、そこには開けた境内(けいだい)。正面に木造瓦葺きの本堂がある。質素な造りではあったが、八幡宮社殿と変わらない程度の大きさがあった。そしてその左右にはいくつかの坊や寺務所などの木造建築が立ち並び、この郷内のどのお社よりも境内全体の造りは立派に見えた。
 そんな建物群の前に山王日枝神社の僧兵然とした眷属たちが固まって立っていた。そしてその者たちと正対するようにマサルがいる。僧兵たちの顔つきは一律に不機嫌そうだった。
「よろしいですか。これは大神様や婆たちや猿山殿もすでに了解済みのことです。我も第一眷属として許可を出し、同行しています。異論反論は受け付けません」
 マサルは極力断固とした口調で言い放った。僧兵たちは更に不機嫌な顔つきだったが、神や婆たちや爺の名を出されて言い返すこともできなかった。そんな眷属たちの様子を(いぶか)しそうに眺めているタカシにクロウが囁くように言った。
「ここの眷属たちにとってお山を管理していることは誇りでもあり、特権でもある。入山料を徴収して利益を得ておるし、自分たちの気にくわない者は入山を許さぬでもよい。恐らく民草であるそなたを峰入りさせることが自分たちの利益にならぬばかりか、前例のないことなので反対しておるのだろう。マサル殿が説得したようではあるが」
 すぐにマサルが戻ってきて、さあこちらへ、と言いつつ本堂の前まで先導した。タカシは僧兵たちの冷たい視線を感じつつも従った。
 静かだな、と本堂の前に立ちタカシは思った。これまで回った神社社殿の前では、何か内部から気が発せられているような、じっと見られているような、そんな感覚を覚えたが、ここでは少し異質な感じがする。はっきりと言い表すことは難しいが、それは気というより念が、お堂の奥深くにどしりと鎮座している感じ。
 森閑とした中、三人はお堂前で礼拝した。特に何の応答もなく、そのまますぐにお堂の裏手へと三人は向かった。そしてまた地面むき出しの山道を登っていった。
 その頃にはクロウの行燈はすでに消されていたが、東の空に陽が顔を出し、足元が見やすくなっていた。と同時に薄っすらと霧が辺りを包みはじめていた。それでもしばらく進むうちに三人は周囲を樹々におおわれた高台に出た。標高七、八百メートルほどだろうか、ここまで急斜面ばかりでかなり難儀な道のりで苦しくはあったが、何とか頂上まで登りきることができた、とタカシは一人安堵していた。
 周囲には濃い霧が立ち込め、視界が悪い。ただ、ぼんやりと東の空がほの明るくなっているのが分かるだけ。
「こちらへ」とマサルが呼ぶ。タカシがその方へ視線を向けると霧で隠れていて今の今まで気づかなかったが小さなお堂が見えた。マサルとクロウがそちらに向かう後ろからついていく。少しの石段を上がった所に観音開きの扉。
「猿山殿、入りますぞ」と言いながらマサルが、ギギギギと(きし)む音を響かせながら薄い扉を開いていく。
 中には二つの燭台(しょくだい)に載ったロウソクに火が灯され、内部を薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。
 タカシはマサルたちの背後から内部を覗き見て、一瞬目を見開いた。お堂内部の中心に頭巾を被り、僧衣に袈裟を着て座禅を組んでいる小さな人の姿。その肌は痩せこけ、深い(しわ)が縦横無尽に刻まれており、潤いは欠片もなく、おまけに微塵も動かない。以前、何かの本で即身仏となった人の画像を見たことがあったが、まさに眼前にその姿を見た思いだった。
「猿山殿、峰入りさせる民草を連れてまいりましたぞ。どうかお手引きお願いします」ミイラ化した座禅僧にクロウが声を掛けた。しかし身動(みじろ)ぎもしない。クロウの横でマサルは仕方がないという顔つきをして言った。
「クソ爺。民草を連れてまいりました。起きて下され」
 その途端、それまでただの(くぼ)みにしか見えなかったミイラ僧の目が開き、ぎらりと生々しく光って彼らに向けられた。瞬時にタカシは身のすくむ思いを抱いた。こんなに小さな今にも絶命しそうな老人然とした相手から言い知れぬ凄味を感じていた。きっと死を選ぶよりも苦しい修行に身を投じる決意と覚悟を抱き、その意を完遂させたのだろう者の凄味を。
「民草、見えるか」マサルとクロウの肩越しにタカシの目を凝視しながら、その僧がひび割れた唇を細く開きながら声を出した。
「何が、でしょうか」タカシは慎重に言葉を選びながら答えた。
「外に出て見渡せ。見えたらまたここへ」
 言葉はそこで終わった。仕方なくタカシはお堂を出て石段を降り、周囲を見渡した。霧と近場に立つ樹木のぼんやりとした姿があるばかり。
 上隠山(かみかくしやま)は昔、神隠山とも書いた。その名は、この山の山頂部分に当たる三つの峰が人間の目には見えず、たまたま何かの拍子にそれを見る者がいても、見返した時にはすでになく、そのため本当の山頂は山の神によって隠されている、という言い伝えと、かつてその見えない山頂を目指して入山した者がいたが神隠しに遭って帰らぬ人になったという伝承に由来する。
 その三つの峰を眷属たちは、多聞峰(たもんほう)思惟峰(しゆいほう)修行峰(しゅぎょうほう)、と呼んでいたが、眷属たちでもこの連峰が見える者と見えない者とがあった。見える者は厳しい修行への決意と覚悟を宿した有資格者と見なされ、いくら膂力(りょりょく)に優れていても峰を見ることができない者は不適合者として入峰すること自体が許されなかった。
 マサルの目にはもちろんその連峰の姿が映っている。しかしその()()を教えることは無意味でしかない。峰を自分で認識できない者は峰には入れない。だからお堂の前でタカシが見出すことを祈るような気持ちでただ待った。
 タカシとしては、いったい何を見るのか、それさえ分からずただ辺りを見渡すばかり。霧と樹々しか見えない。もしかしてこの場景のこと?と思ったが、何か違う気がする。恐らく、もっと、これだ、というものに違いない。この世界は神々や眷属たちが跋扈(ばっこ)する世界なのだ。もっと、こう、何か神の力を感じられるようなもののはず……更に周囲を見渡す。霧と樹々ばかり。ちらりとマサルとクロウに視線を向ける。二人ともこちらに視線を向けている。しかし、けっして声を出そうとしないし、近寄ってくる気配もない。話し掛けられる雰囲気でもない。これは完全に一人で見出さないといけないことなのだろう。再び辺りを見渡す。変わりない。再度、見渡す。特に何も見出せない。気が焦る。落ち着け、冷静になれ、と自分にいい聞かす。ここで何かを見出さないといけない。見出さないと力を得られない。リサを助けることができない。それはダメだ。俺はリサを助けられるようにならなければならない。いや、そうなるんだ。決めたんだ。どんなに困難でも、そうなるんだ……
 タカシは意識して、うつむき加減になる顔を上げ、胸を張った。自分を信じる。きっと俺はできる。なりたい自分になれる。自分の力でそうなる。
 決意を込めた視線が霧を貫いた。そこにぼんやりと影が浮かび上がってきた。そしてたちまちその部分の霧が晴れていった。朝日に輝く急峻な三つの峰の姿が、そこにはあった。
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