第八章七話 やるせない思い

文字数 4,958文字

「そうね。あなたには妹が一人いたわ」
 ナミはすでに、まだ人間として生きていた時に自分に妹いたことを確信していた。そうでなければ妹という言葉や妹として意識しているマコの存在が気になってどうしようもないことの説明がつかない。私には妹がいて、恐らくその記憶を何らかの理由で、送り霊になる時に消されてしまった、そう思っていた。ただ、アナに直接訊いても機密事項だからとか何とか言って素直に教えてくれるとは思えなかった。しつこくつきまとって、うんざりするほど訊き続けてもその概要すら教えてもらえるかどうか、と思っていた。だから案外あっさりとアナが認めたのには、逆に驚いてしまった。
「え、そうなの?本当なの?意外だわ、すぐに教えてくれたわね」
「別に、事実だからね」
「その事実をあなたたちはあたしの記憶から消した。なぜ?」
「へたに生前関わった人たちのことを覚えていると、現世に未練が残って(うつ)状態になる可能性がある。かつてそれで業務に(いちじる)しく支障をきたす事例があったから、そういったことを防ぐためよ」
「私は両親のことは覚えている。なぜ妹だけなの?それとも私にはまだ家族がいたの?」
 アナは手のひらの上に浮かんだ資料を眺めながらごく事務的な声を発する。
「送り霊にとって生前の記憶はモチベーションにもなり得るし、鬱の原因にもなり得るの。どちらの割り合いが大きいかを対象ごとに数値化して鬱になる割り合いが大きければ、その記憶を意識の上に現れないように処置をするの。あなたの妹さんの記憶は残しているとあなたが鬱になる可能性が高かった。だから処置が行われて記憶の深層へと移送されたの。それから、あなたが同居していた家族は両親と妹だけよ」
「そう……いったいどんな記憶なの?自分のことだから知る権利はあるわよね」
「私に、その内容をあなたに開示する義務はないわ。それは私の業務外のこと。どうしても知りたいならマスターに稟議(りんぎ)してちょうだい。上からの指示ならすべてを教えてあげるわ」
 くそ、アナは私がマスターに対してそんなことが言えないこと分かってて言っているわね。と思いつつもこれ以上、食い下がってもアナが口を割らないことだけは明白だった。だから妹が存在した事実を知っただけでもここは良しとするしかないと思いながら、思わず嘆息した。
「それからその記憶は処置しただけで消した訳じゃないから。時が経てば何かの拍子に意識の表層に浮かび上がってくることがあるの。だからその都度、処置することを推奨している。その記憶は意識にのぼれば業務に支障をきたす可能性がある。だから今回もいったん本部に戻って適切な処置を受けた方がいいわね」
「いやよ、せっかく思い出したのに。私なら大丈夫。もう、心配掛けるようなことはないから」
 ナミとしてはどんなに自分を(さいな)む記憶であったとしても家族の記憶は保持していたかった。それにこれだけ“妹”に自分が(こだわ)るからにはけっして否定的な記憶ばかりではないはず。いったん思い出したからにはそれを大切にしたい。もう欠けたくない。
「そう。まあ、いいわ。どちらにしても、もし業務に支障が出るようなら強制的にでも処置をすることになるから。覚えておいて」
 ああ、そう、とナミは生返事をした。とりあえず気になることは訊いた。後はただマコのことが気掛かりだった。唯一の手掛かりだった禍津神(まがつかみ)は消滅してしまったし、マコ自身、水中に沈んでしまっている。
 この世界もマコも山崎リサの想像の産物だ。例えこの世界で死んだとしても現実世界のマコには何ら影響はない。きっとあのコへの強い思いは、私の本当の妹に対する思いの投影にすぎない。そう頭では理解できる。でも、やるせない気持ちが湧き起ってきて仕方がない。自分で自分の気持ちが抑制できない。助けたい、マコを……

「マガ殿、大丈夫ですか」タマとヨリモがマガの周囲に寄り集まっていた(まが)い者を駆除しながら声を掛けた。
「マガは大丈夫。でも神とうさぎが大丈夫じゃない。助けて、眷属たち」
 そう言われて周囲を見渡すとマガの後方に苦し気な表情の恵那彦命(えなひこのみこと)が座り込んだ状態でじっと周囲を警戒していた。二人はさっと頭を低く下げた。
 更に周囲を見渡す。しかし玉兎(ぎょくと)の姿は見えない。先ほど確かに“神とうさぎを助けて”とマガは言っていた。しかし、玉兎の姿は見えない。もしかしてもう禍い者に取り込まれてしまったのだろうか。
「マガ殿、玉兎殿はいずこに?」疑問に思ったタマが訊いた。
「うさぎはここ。マガと一緒にいる」
 マガの返答にタマもヨリモも首を(かし)げざるを得なかった。その様子にマガも首を傾げた。何かへんなことを言った?
「玉兎殿は?」再度、ヨリモが訊いた。
「だから、ここ」マガは自分の腹部を軽く手で叩きながら、事もなげに答えた。タマもヨリモも、へ?と声を失った。もしかして呑み込んだ?取り込んだ?大丈夫もへったくれもない。
「そなた、玉兎殿を……」タマが何とか言葉を継ごうとしたが、言い切れなかった。やはり、この者は禍の者なのだ。親しい間柄の者だろうと遠慮なく取り込むのだ。
 その頃には、周囲の禍い者の大半は天満宮の眷属によって駆逐されていた。そして蝸牛(かぎゅう)が三人の方へと駆け寄ってきた。三人が何の話をしているのか分からずにかたわらに立つとそのまま聞いていた。すると耳朶(じだ)に風がふっと流れてきた。
「違うのだ。マガはうさぎを取り込んではいない。その体内に宿しているだけだ」
「宿している」タマとしてはそれがどういう意味なのか、訊きたい気がしたが神に対して質問する訳にもいかず、独り言として(つぶや)いていた。
「うん、神が無理矢理、マガの口の中にうさぎを押し込んだの。それで取り込んじゃダメ、宿せっていうから、何となく宿している」
 何となくって……いったい宿しているとはどういう状態なのだろう?なぜ玉兎殿はそんな羽目に(おちい)っているのだろうか?それは恵那彦命の大御意(おおみごころ)なのだろうか?次々に疑問が湧き出してくる。しかしそれを口に出してしまうと恵那彦命への質問になりかねない。ぐっと抑えて腹中にとどめておかねばならない。そんなもどかしさが眷属たちの間には流れていた。それを察してか恵那彦命の口から、再び声を乗せてそよ風が吹いてきた。
「そなたたちとともにいた人間の娘が災厄の依り代となり、その分御魂(わけみたま)を身内に(おろ)した状態で先刻現れた」
 それは(さら)われた娘だろうか?タマもヨリモも蝸牛も思った。その頃には一定の目処(めど)が立ったので、他の者に場の鎮圧を任せて、土地神への挨拶もせねば、と人型に戻った白牛(はくぎゅう)が蝸牛の背後から近寄っていた。
「その娘は災厄の力を得て水を操り、攻撃を加えてきた。うさぎはその攻撃を受け、その身を分断させられた。我はうさぎの身が消滅しないように球とし、その器としてマガの身の内に宿すことにした」
 眷属たちは、民草(たみくさ)の娘が災厄の依り代となり出現したことにまず驚いていた。そのために攫われたのだろうことを察したが、禍津神(まがつかみ)や大型禍い者が出現した現状、更なる不安要素に心中暗鬱となる思いだった。
「神、どうやったらうさぎは助かるの?」マガの素直に問う声が聞こえた。
「それは、分からない」
「神でも分からないことがあるの?」
「神といっても私は地方の一寒村に鎮まるただの土地神にすぎない。高名な神社の神々たちのように国中に分社も持ち合わせていない。知らないことの方が多いのだ」
 そこまで他の眷属たちはただ静謐(せいひつ)として話を聞いていたが、白牛は天満宮の第一眷属である矜持とあまりにくだけた会話の内容に、思わず口を挟んでいた。
「大神の大前に、天満宮第一眷属、白牛、(かしこ)み畏みも(もう)さく。我ら天神村より禍い者を追い来り、先刻この処に至りて事の(よし)は知らざれど、言の端々(はしばし)を聞き及ぶに思うところありて慎みて奏上す。大神の眷属は今まで玉兎殿一体のみとお察しいたします。この際、玉兎殿のことは諦めなされて、新たに何体かご眷属をお生みになられるのがよろしいかと愚考いたします」
 これまでもこの眷属とは神議(かむはか)りの場において何度か顔を会わせたことがある。しかし、これまで直接話したことはほとんどない。恐らく玉兎も同じだろう。どこか疎外感を感じざるを得ない場の雰囲気の中、格式ばった他の眷属たちの動きはどこか不遜な印象を抱かせ、自然な流れでお互い交流をしないまま時を経てきたのだった。
「そうだよね。それが正しい行いだろうね」恵那彦命の落ち着いた声が響く。
(つつし)み敬いて申し上げまするに我が大神ならばそのようにされるかとご推察申し上げます」
「そうだよね。天神様ならそうされるだろうね」
 そう、他の神々ならためらわず弱った眷属を身内に戻し、また新たに眷属を生み出すだろう。新たに生み出されることで身に宿す力は強くなり、より神や人々のために力を発揮することができる。だから玉兎が消滅することを甘んじて受け入れ、新たに眷属を生み出すことが是であることは自明の理なのだ。しかし一抹のしこりがどうしても胸中に残る。その時、再びマガの問う声が聞こえた。
「神はうさぎを助けないの?」
 恵那彦命はまだ思案中だった。だから、あううん、と答えを濁すばかりだった。すると横合いから蝸牛が自身の長兄の言葉を分かりやすくマガに伝えようと口を開いた。
「マガ殿、玉兎殿を助けるのはかなり困難なことのようです。それより、恵那彦命様にまた新しく眷属を生み出していただき、新しい家族として迎えるのはいかかでしょう」
 眷属は死なない。古くなったり傷ついたりして消滅の時宜が近づくと神の身内に戻り、また新しい眷属の一部となって生まれ変わる。それが当然のことだった。もちろん神に戻れば記憶も意識も消えてしまう。しかしその存在自体が消える訳ではなく、また新しい眷属になれる。ためらうことなど思いもしないこと。自らの仕える神がそう判断すればそれが最善であり、それに従うことが最良だった。そうするしかないか、と恵那彦命が決断しかけた時、断固とした声が明確に聞こえた。
「ダメ、マガ、それは許さない。マガの家族は神とうさぎだけ。他に家族はいない。神は家族を大切しないとダメって言った。それは嘘か」
 恵那彦命としてもいくら住民の少ない村とはいえ、いくらマガがいるとしても、眷属が一人だけではあまりに心許(こころもと)ないとは思っていた。その都度(つど)、新たに眷属を生み出すことを考えた。しかしマガと玉兎と三人で過ごす何気ない日常が好きだった。恐らくそれはマガにとっても玉兎にとっても同じこと。日々何かと不足は多かったし、手が足りないことも多かったが、絶妙なバランスで三人一緒に暮らしてきた。だから特に他に眷属を生み出さずに今まできた。今更、新しい眷属など、そう思わないでもない。しかし、眷属なしでは何事にも対応しきれなくなってしまう。自分は極力お社を離れられないのだから。
 恵那彦命が黙っているとマガが言葉を継いだ。表情は元からない。声の抑揚も乏しい。それでも感情が籠っていると分かる声音で。
「マガがうさぎを助ける。神がダメって言ってもマガは行く」
「行くってどこに行くんだい」
「西に行く」
「西?」
「西に行けば、天竺(てんじく)がある。天竺にはありがたいお経がある。そこに行けば願い事が叶う。だからそこでうさぎを助けてもらう」
 ああ、また和子さんの家で何かのテレビを観てきたな、と恵那彦命は思った。
「マガ、君はこの村から出られない。出てはいけない決まりになっている。もし、この村から外に出たら他の神々の力で傷つけられてしまうかもしれない。君はおいそれと消えてしまうことはないだろうが、君とともにいるうさぎはどうなるか分からない。だから、分かっておくれ。それに天竺なんて行けないよ。それは遠い遠い所の遠い遠い昔の話だから」
「じゃ、神がどうにかして。神なんだからそれくらいして」
「私には無理なんだ。我にはどうしたらうさぎが助かるのか分からない」
 これといった打開策を打ち出せ得ない二人の会話を聞いている内にもどかしさが募ってきた。だから思わず蝸牛は口を開いた。
「恐れながら申し上げます。我が神、天満天神様は智慧の神でございます。我が神に尋ねてみてはいかがでしょう。何かよい策があるかもしれません。マガ殿、我とともに我の村に参りましょう」
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