第九章三話 楽しい世界

文字数 4,775文字

 正面にいるカツミと、凄まじく速い動きで背後から迫ってくるアナの両方を同時に警戒していたサホの横を通り過ぎると、そろそろ限界ね、とアナは独り言として呟きながら、張っていた気をふと緩めた。周囲のすべてのものの動きが呪縛を解かれたように滑らかに、通常に戻っていく。眼前にはひとしきり口論した後で、互いに相手を睨みつけているタカシとナミの姿。
「七十三番、今すぐ本部に戻るわ。あなたと百二十五番も一緒に」
「アナ」とナミは思わず驚きの声を上げた。いらつきに身を任せていたためにアナが近づいたことに気づいていなかった。「ちょっと待って。今はいけない」
「私を含めみんな霊力の残量が規定値を越えて下がっている。これ以上は危険よ。それにあなたの情動がまた激しくなっている。これ以上は見過ごせないわ」
「ダメ、今はダメなの……」
「それから今までも度々言っているけど通信を無視しないで。業務に(いちじる)しく支障があるわ。お蔭でここまで歩いてこなくてはならなかった。ストッキングが破けてしまったわ。スーツも汚れたし。これは、どうあっても看過できない。私に与えられた権限であなたのポイントを没収する。何ポイントにするかはあなたのこれからの行い次第としましょう。いいわね」
 アナは無表情だった。しかし言葉の端々に我慢の限界を超えたことが分かる内容がちりばめられている。アナには珍しいことだった。今までの彼女なら通達なしに罰則を与えていた。訊かれればその理由を明かすが、訊かれなければいちいち説明などしなかった。そんな手間は極力省くのが彼女の仕事の流儀だった。だからナミは違和感を覚えた。ただ、それよりもその内容が心に突き刺さっていてそれどころではなかった。
「ちょっと待ってよ。いろいろと事情があるのよ。これからは無視しない。だからポイントの没収は勘弁して。それにまだ私は大丈夫。私はまだこの世界にいなければならないの」
「それは聞けない。今すぐ出発する。早く百二十五番を回収してきて」
「だから、今は待って。終わったらすぐに戻るから」
「今すぐと私は言っている。それとも私に強行手段を執らせるつもり?」
 ナミは押し黙った。どんな手段を使われるかは分からない。しかし、間違いなくそれを使われたら有無を言わせず連れ帰られることになる。アナはその点、手加減もためらいもない。もう諦めるしかないのだろうか。沈黙するナミに向けてアナが言葉を継ぐ。
「それにこの自我はおかしいわ。はっきりとは分からないけど危険を感じる」
「危険?」
「ええ、私の情動が心中で湧いてきている。今は抑えているけどいつ抑えきれなくなるか分からない。この自我自体、何か私たちの精神に作用を及ぼしているのかもしれない」
「それはどういうこと?」
「分からない。分からないからいったんここから出た方がいい。あなたたちを統括する立場として言うけど、これは勧告ではなく命令よ。すぐにこの自我から出る」
 アナがここまで言うということはもう抵抗しても無駄ということだ。それに、それだけ自分たちが危険に(さら)されているのかもしれないということ。ただ、例えそうであっても、マコのことが心配でたまらない。気を許せば(もだ)えてしまいそうなほどの感情があふれてきそうだった。
 そうだ、ナミはふとタカシに視線を向けた。契約者であるタカシが契約内容を盾に私がこの自我を出ることを拒んだら、規範意識の強いアナは無理矢理、私をこの自我から出すことはできなくなるかも。
 アナは、ナミが再び黙った機に、タカシに視線を向けた。それまでもタカシの存在にはむろん気づいていた。しかし意識して視線を逸らしていた。その間に、気持ちの整理をつけていた。心の準備が済んだ。アナが落ち着いた声を発した。
「あなたが七十三番の契約者、凪瀬(なぎせ)タカシさんですね」
「ああ、そうだ」と答えたタカシの耳に、ごく小さな声で「お久しぶりです」と聞こえた気がした。え?と訊き返したが、アナはそれには答えずに続けた。
「私はアナ。この送り霊たちを統括する者です。この者たちは現在、著しく霊力が低減しており大変危険な状態です。これから連れ帰り霊力の補充をさせようと思います。ご了承ください」
 タカシはじっとアナの姿に視線を向けた。いくら見ても見覚えはない。どう見ても初対面だった。やはり、空耳だったのか。じっと見ているとアナが視線を逸らした。二人の間を沈黙がほんの数秒の間、包んだ。
「あの、凪瀬タカシさん。ご了承いただけますか?このままだと彼女たちの身に危険が及びます。事は一刻を争います。ご了承ください」
 再び口を開いたアナの言葉に、タカシは我に返った。ほんの少しだけ何かを思い出せそうな気がした。しかし、やはりそれも気のせいなのだろう。
 えっと、それから、なんだっけ?ああ、そうだ、ナミのことだ。ナミを連れ帰るって話だったな。まあ、この世界に来てからの彼女にはおかしな言動が目立つ。あまり一緒にいる機会もなかったし、一度、落ち着いてからまた復帰してもらった方がいいのかも。
 ナミはタカシの言葉を待っていた。今の今まで口論していた相手ではあったが、彼なら私の事情や心情を察して、この世界から出ていかせないだろう、と予想していた。彼なら私がこれだけ傷ついてもこの世界に残っているのがなぜなのか、それを察してこの世界に残してくれるだろう。それに彼の希望を叶えるためにも私が必要なのだ。すぐに拒否しなくても返答に迷うことくらいはするだろう。その間にタカシとアナをまた説得すればいい、と思っていた。しかし、タカシの次に発した言葉にその希望は打ち砕かれた。
「ああ、分かったよ。了承した」
「はあ?」ナミの胸の中で激しく感情が湧き出し一瞬にして全身に行き渡った。「あなた、何言ってんの?バカなこと言わないで。あたしがいなくなったら誰がマコを助けるの?そこの創造主様がどうにかしてくれるの?どうにかできるの、あなたたちに」
 怒りに身を震わせながら自分でも違和感を感じていた。何か、少しずつ私が私を制御できなくなっているような。自分が自分で勝手に感情を生み出しているような。
「ナミ、いい加減に冷静になってくれ。もう君と口論するつもりはない。少し時間をおいて冷静になろう。だからここはいったんこの世界を離れた方がいい。また回復したら戻ってきてくれ」
 タカシは短く嘆息するとそう言った。ナミの姿を見るその目は少し悲し気な、少し戸惑っているような、少し懇願するような、そんな様々な感情の色を宿していた。もちろんタカシだってナミと口論したい訳ではない。彼女を責めたりしたくない。彼女にはこれまでもいくら感謝してもしきれないくらい助けられてきた。寄る辺もない、取り付く島もない、絶望しか待ち受けていない、そんな状況の自分に手を差し伸べてくれた。彼女がいなければ自分はここにたどり着くことさえできていない。だからこそ今の状況を看過(かんか)できない。今の彼女の状態が通常とは思えないし、思いたくない。また元の彼女に戻ってもらいたい。
「契約者もそう言っていることだし、行くわよ。すぐに百二十五番を回収してきて」
 ナミは歯を喰いしばってタカシを睨みつけていた。決して目の前の人間が憎い訳ではないのだが、身体が勝手にそう反応していた。そして彼女は飛び上がった。湖面に向かって一直線に飛んだ。もやもやとした叫び出したいような鬱屈とした気持ちを抱えながら。
 ルイス・バーネットの姿はすぐに見つけることができるだろうと思った。そしてその予想は当然のように当たった。彼は小さな青い魚に姿を変えて湖面で身体をくねらせていた。ナミは宙に浮かんだまま小さな彼と一緒に水面をすくい上げると、そのまま忽然(こつぜん)と姿を消した。
 そんなナミの姿を一抹(いちまつ)寂寥感(せきりょうかん)を持って眺めていたタカシにアナが声を掛けた。
「凪瀬タカシさん。うちのチームメンバーをこれからもよろしくお願いします。七十三番は何かと気難しいところもありますけど、ああ見えて素直ないいコです。あなたなら分かっているとは思いますが。じゃ、またお会いしましょう」
 アナは無表情だった。ただ、じっとタカシの目を見ているその瞳の奥に、微かな笑みが見えた気がした。そしてアナは消えた。

 ――――――――――

 蝸牛(かぎゅう)たち天満宮の眷属たちの先導で一行は進んでいる。
 事前に事情を伝えるべく二名の眷属を天満宮に先行させていた。東野村(とうのむら)に出現した(まが)い者たちはあらかた殲滅していたが、まだ少しずつではあるが現れていたので、念のため三名の眷属を残してきた。残りの白牛(はくぎゅう)を含めた眷属たちでマガの周りを囲っている。自らの村に同道していく分、いつもより気を張って警戒している。なにせ相手は禍津神(まがつかみ)なのだ。もし、暴れ出したら自分たちで制御できるかどうかは分からない。だからその兆候が少しでも生じればすぐに対応しなければならない。そのために周囲の眷属は緊張感を張り詰めたまま意識をジッとマガに向けて歩調を合わせて進んでいた。
 その眷属の囲いの中、マガは大事そうに腹部をさすりながら歩いている。表情はない。でもとても優しそうな思いやるような雰囲気を身体中から振りまいている。そんなマガのかたわらに寄り添うようにタマとヨリモは従った。
「ヨリモ殿、どうかしたのか?」
 タマは、天神村に向けて出発してからヨリモがずっと暗い顔つきをしていることが気になっていた。何か心配事だろうか。
「いえ、別に。何でもないです」穏やかにタマに向かって微笑みかける。しかし、心の中に何かが引っ掛かっているような、少し影のある笑みにタマには見えた。
 今、一行は、東野村には御行幸道(みゆきみち)が整備されていないために、林の中の人道を進んでいる。平坦な歩きやすい道。民草(たみくさ)の姿もなく、禍い者も現れる様子はない。だからタマはヨリモの気を紛らせられればと、ふと話を変えた。
「そういえば我らが初めて会った時のこと、覚えているか?」
 唐突な話にまたヨリモは微笑んだ。
「何ですか、突然。もちろん、覚えていますよ。初めて会ったのは私たちが生まれた時ですね」
「そうそう、ほぼ同時に生まれたから、生まれて初めて見たのがそなたで」
「そうそう、目を開いたらあなたがいて、生まれたばかりだから光に包まれていて」
「とても(きら)びやかな世界だと思った」
「とても美しい世界に見えましたわ」
 二人は微笑み合った。並び立つその間の空気がすっと柔らかくなった。
「それからこの世界の人はとても小さいんだな、と思ったな。でも周りを見てみると大きい眷属たちがいて、大神様はもっと大きくて。何でこのコはこんなに小さいんだろうって思ったよ」
「何を言っているんですか。あなただって(はかま)から足が出なくて立ち上がろうとして何度もこけていたじゃないですか。このひと面白いひとだなって思いましたよ」
「そうそう、そなた、我が苦労している時に声を上げて笑ってたよな」
「だって、恐る恐る立ち上がろうとしている時のあなたの顔ったら、そりゃもう面白かったんですから。それで何度もこけるからおかしくって」
「ひどいヤツだなって思ったよ。ただ、そなたの笑い声を聞いてたら自然とこっちまで楽しくなってきたんだよな」
「そうです。私が笑っていたら、あなたまで笑い出して、しばらく二人で笑い転げていましたよね」
「そうだったな。民草は生まれてすぐに泣くけど我らは生まれてすぐに笑い転げてたんだな。何て楽しい世界だと思ったよ」
「そうですね。本当に……」
「……」
「……」
「何か心配事があるなら遠慮なく言ってくれ。聞くだけなら我にもできる」
「分かりました。ありがとうございます。気が向いたら、そのうち」
「ああ」
 そんな二人の眼前が急に明るくなった。木立が途切れ、陽光が降り注いでくる。そこは村境。再び天神村に入っていく。
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