第六章七話 白蛇は死力を振り絞る

文字数 5,118文字

民草(たみくさ)の女を連れてきた。兄者を返せ」再び眼前に現れた禍津神(まがつかみ)に、カツミは鋭く声を上げた。
「まあ、そう()くな」禍津神は、表情の変化こそないものの、周囲を眺めつつ、わずかにこの場を楽しんでいるような声を上げた。「どうやら仲間を集めてきたようだな。しかしその人数で我に刃向かうつもりか、眷属風情(ふぜい)が」
「こいつらは仲間ではない。勝手にここに来ただけだ。我はそなたと争う気はない。兄者を返してくれれば大人しく引き下がる」
 弟の声にタツミは苦渋の表情をていしていた。敵対したところで勝ち目があるかどうかは分からない。かと言って(まが)の者の言いなりになるのは何とも情けない。そもそも自分に力がないばかりにこんな状況になっている。
 カツミの後方にいて、サホは新しく現れた敵の様子を注視していた。実際に戦ってみなくてもその強さが気配から伝わってくる。これは神鹿隊(しんろくたい)の全力を挙げて対抗しても敵わないかもしれない。もし、うまく攻め抜くことができたとしても多くの隊員が消滅の憂き目に遭うことになるかもしれない。しかし臆している場合ではない。見過ごせない。ここは覚悟を決めるしかない。サホの身体中に緊張感が怒濤のように押し寄せてきた。
 采配一つで大量の仲間が消滅してしまうかもしれない。しかし、やり様によっては自分たちの手で禍津神を亡き者にすることができるかもしれない。最適な采配で群れの力を最大限に発揮させられれば。これは指揮官として一瞬の気の弛みも許されない戦い。サホは思わず生唾を呑み込んだ。こんなに緊張しているのなんて何十年振りかしら。この電流が身の内を走っているような感覚、楽しませてもらう。
弥生(やよい)八艘(はっそう)を前面に展開。睦月(むつき)、第三隊、第四隊射撃用意」
 隊長の指令に、他の隊員ともども禍津神を呆然と見上げていた弥生と睦月は、はっと我に返り、すぐさま全軍に指示を出した。雄鹿は水面に散開し、周辺から(つる)を絞る音が連なって鳴った。一気に周囲の緊迫感が高まった。
「待て、こいつは強い。ヘタに刺激するな」カツミは慌てて声を上げた。
「くっ、まだ我らの邪魔立てをするか。よりによって禍津神の味方をするとは。仕方ない、そなたもろとも(ほふ)ってやる」
「やめろ。そなたたちと争うつもりはない。我はただ兄者を助けたいだけだ」
「問答無用だ。もうおぬしたちの嫌疑は固まった。三輪(みわ)の一族は神議(かむはか)りに背いた。我らの手により成敗いたす」
 その言葉が脅しでもなく、冗談でもなく、本気だということはサホの放つ殺気で明確だった。カツミは進退(きわ)まった思いだった。何らこの状況を打開する有効な手立てを見出せない。そんな弟の姿を見ながらタツミは(ほぞ)を噛むような思いを味わっていた。自分が不甲斐ないせいで弟が窮地に立たされている。しかも大神様の嫌疑さえ深めてしまったようだ。タツミは音が鳴るほど歯を喰いしばった。弟の足枷(あしかせ)になっている自分が許せなくて。
「カツミ、春日(かすが)の眷属と協力して禍津神を討て。我はもう覚悟を決めておる。その覚悟に泥を塗るな。我のことなど一切気にしてはならぬ」
「しかし兄者……」カツミは自分に向けられている兄の意志の籠った視線を受けて、言葉を継げられなくなった。眷属としての思考と兄への情が胸の内でぶつかり合っていた。
「おぬしたちではどうしたって我には敵わん。そんなことも眷属というものは分からぬのか?」
 その言葉にタツミはキッと禍津神を睨みつけた。
「敵わないかもしれぬ。しかし、そなたのような世の中に害成す者を見過ごすことはできぬ。それが眷属なのだ。神聖なる大神様の守護の一端にでもなれれば、滅せられたとしても我らは本望。我らは我らの正義を貫くのみ。決してそなたの思う通りにはならぬ」
「ははは、おぬしは楽しい奴だな。怖れを知らぬ者は見ていて面白いものだ。しかし、だからといっておぬしを助けてやることはできぬがな。抵抗するならしてみるがいい。一番苦しむやり方で消し去ってやる」
 生まれてこの方、タツミはどんな状況でも感情を抑制し続けてきた。三輪神社の第一眷属として、不平不満は無数にあったが、何事にも冷静沈着に当たらないといけない、と自分を律し続けてきた。弟妹が生まれてからは尚更、感情的になっている姿など見せる訳にはいかなかった。しかし今、タツミはあえて感情を解放した。眼前の禍津神に対して、自らの境遇に対して、長年、鬱積(うっせき)し続けるばかりだった万感を力として、傷ついた身体を変化させた。
 瞬間的に現れた白蛇(しろへび)は、身の丈はゆうに人を超えていたが、人型の時より身体の線は細く、自然、身体を拘束していた水縄が一瞬弛んだ。その隙に白蛇となったタツミは(いまし)めを脱け出し、自分を持ち上げていた水の柱を伝って湖面へと降りると瞬時に水中に身を隠した。
 大仰(おおぎょう)なことを言いおった割にあっさりと逃げおったか、口ほどにもない奴だ。まあ、水はすべて我の使役するところ、すぐに見つけ出して、捕らえるまでもなく消し去ってやろう。慌てるでもなく禍津神がそう思っていると突如、視界の端、自らの足元に白い影が見えた。何?と思う間もなく、再度姿を現したタツミは、その勢いのまま、つる草が大木に絡みつくが如く螺旋状(らせんじょう)に、禍津神の身体を伝って滑るように巻きついていった。
 サホはその様子を注視しながら頃合いを悟った。そして自分の横で、鹿姿のミヅキに(またが)って隊員に指示を出している弥生(やよい)に視線を向けた。そしてマコを乗せている水の柱を軽く(あご)で指した。弥生はそれですべてを察したように軽く頷いた。
 足元から頭上まで全身きっちりと巻きついた。たちまち全身にありったけの力を込めて絞め上げる。微かに禍津神が呻いたような気がした。
 蛇姿のタツミが巻きつけば人間は言うまでもなく牛馬でも絞め殺すことができた。どんな眷属でもいったん巻きつかれると動きを封じられ、逃れることはできなくなる。タツミとしては禍津神を絞め殺すことができるのかどうかは分からなかったが、その動きを封じている間に、他の眷属たちに自分もろとも攻撃を加えてもらうつもりだった。だから、その思いを込めた視線を眼下のサホに向けた。我もろともこの者を……
 その視線に、サホは瞬時に了解した。その心意気、その覚悟、無駄にはせぬ。サホは前に向き直り、そして高らかに声を発した。
「第三、第四隊、目標、禍津神。撃て」
 刹那に弦が放たれる音が響き、宙を貫きながら矢が飛んだ。どの矢も確実に禍津神に向かっていた。その矢の鋭い波が到達する間際、禍津神を乗せた水面がすうっと伸びた。弓はすべて盛り上がった水に突き刺さりそのまま呑み込まれた。
「続けて放て!」サホの声を聞くまでもなく春日の眷属たちは次の矢を弓につがえていた。そして再び狙いを定めて放った。
 再び禍津神は見上げるほどに空高く、次第に細く柱状になった水に乗ったまま昇ったが、矢が通り過ぎると細くなった柱が崩れ、その下の盛り上がりまですぐに下降した。そこにサホが斬り掛かった。
 届く、サホは思った。相手は大蛇に巻きつかれて手足はおろか全身動かせない。再度逃げられる前に斬る!サホは振り上げた剣を禍津神に向けて振り下ろした。
 剣は大蛇もろとも禍津神の身体を一刀両断にした、はずだった。そういう軌道で振り下ろしていた。しかしその刃にはなんの手応えも感じられなかった。サホの目の前で禍津神はスッと、一瞬にして後退していた。その足元に水はない。
 落下しながら、くそ、こいつ飛べるのか、とサホは独り()ちた。しかし逃がさん。落ちていく先には雄鹿が待機していた。水音と水飛沫(みずしぶき)を上げながら着地した次の瞬間にはもう跳び上がっていた。禍津神は離れた上空にいる。しかし、届く、と思った。実際、その目前までサホは迫った。しかし剣を振り上げたその刹那、サホの視線が禍津神のそれと重なった。大蛇の白い身体の合間に見える赤い目がサホの目に映った。とても深遠な光を(たた)えた生々しい赤。
 サホの身体は後方にいた全員の頭上を越えて、遥か遠くに飛ばされた。神鹿隊の全員が息を呑んだ。信じられない光景に動きを止めた。ただ弥生とミヅキを除いては。
 弥生はその時、ミヅキの背に乗ったままマコを乗せた水柱に近づいていた。そして禍津神の意識がこちらにないことを見定めるとミヅキの背を蹴ってマコの水柱に向かって剣を抜いて斬り掛かった。その瞬間、弥生とミヅキは水流に襲われた。急に湖面から渦が立ち二人を巻き込んだ。そのまま弥生とミヅキは一番近い岸まで飛ばされた。
 睦月はその様子を眺めながら狼狽した。隊長と副隊長の一人が一瞬にして倒された。残された指揮官は自分だけ。とっさに声を張り上げた。
「撤退、隊長と弥生、ミヅキ隊員を回収した後、東の岸で態勢を整える。急ぎ撤収せよ」
 神鹿隊は指令に基づき一斉に動きはじめた。
 かくなる上は我が、タツミは弱った自分の身体を必死に鼓舞しながら、自らに残されたすべてを掛けて絞め上げた。神鹿隊の攻撃のどれもが禍津神に何らダメージを与えられなかった。我がせねばならない。この郷のため、我が村のため、我が大神様のため、カツミやナツミのため。
 禍津神の手の爪が身体に深く喰い込んでいる。縛めを解こうと腕や足が強い力で反発してくる。身体が裂けそうだ。この反発がある限り絞め上げることは難しい、これはどちらかの力が尽きるまでの根競べになるか。けっして負けるわけにはいかない。タツミが更に力を込めようとしたその時、ふと自らの意思とは無関係に全身から力が抜けた。弱っていた身体が意志に背いて勝手に限界を迎えてしまっていた。慌てて再度絞めようとしたタツミの身体が瞬時にみしみしと悲鳴を上げた。禍津神の腕が横に広げられた。そして弛んだタツミの胴体を両手で掴み、深く爪を喰い込ませながら、強引に引っ張り、禍津神は縛めを解いた。
 禍津神は白蛇姿のタツミの首を掴んでぶら下げていた。タツミはとっさに身体をくねらせながらその腕に身体を巻きつかせようとする。しかし、眼前に赤い目があった。見てしまった。慌てて目を逸らそうとするが、その瞬間、頭に衝撃を感じた。意識が朦朧(もうろう)とした。思わず自分が消滅してしまう予感を受け入れそうになった。そんなタツミの視界に鎌を振り上げ禍津神に斬り掛かるカツミの姿が入った。はっと目を見開く。カツミの足元には湖面から無数の槍状の水が伸びている。もう、次の瞬間にはカツミを串刺しにしてしまう、そんな状況だった。
 タツミは一瞬にして人型に変化した、間に合え、と祈りながら。そして掴まれた自分の首を支点に大きく身体を振りながら片足をカツミに向けて最大限伸ばし、寸でのところで蹴り飛ばした。水の槍が伸ばした足に何本か突き立った。
 首の痛み、足の痛み、全身から痛みの報せが脳へと届く。もうまったくいちいち把握も処理もできないほどに。どうやら力も尽きた。もう抵抗できない。できることはやった。もう、どうなっても仕方がない……
 カツミは湖面に落ちると体勢を整え、再度攻撃を試みようと身構えた。
「いいかげん、無駄なことはやめたらどうだ。おぬしたちが我に敵わぬことはもう分かっただろう。これ以上、挑み掛かってくるのなら、お前もだがこの眷属も一瞬のうちに粉々にしてやるぞ、それでもいいのか」
 タツミはピクリとも動かず、ぐったりと四肢(しし)を垂らしている。
「分かった。おぬしの言うことに従う」言い終わってカツミは歯を喰いしばり、目を固く(つむ)った。
「ようやくか。ではおぬしたちに訊く。尾の(くさび)とやらはどこにある。我を案内しろ」
 カツミは一瞬、息を呑んだ。楔の存在を知っているということは災厄の神を知っているということ。こやつは災厄の神を解き放つつもりか。
 楔は結界とともに彼らが死守すべき最もたるものだった。特に自らの仕える神が鎮座する村に尾の楔が打たれている彼ら三輪の眷属にとってみれば、尚更の存在だった。だから教えるに教えられない。逡巡するしかない。その様子を見て、禍津神はおもむろに片方の人差し指を前に差し出すと湖面から上に向けて軽く振った。
 数本の鋭利な槍状の水が湖面から勢いよく飛び出て、タツミの身体を突き刺した。タツミが苦悶の声を上げた。禍津神が再び指を振った。更に数本の槍が伸びてタツミの身体を貫いた。更なる呻き声。
「この男、あと何本もつかな。このまま消滅するまで続けてみようか」禍津神は特に感情の籠っていない声で呟くように言う。カツミは眼前で串刺しにされている兄の姿を見、その呻き声を聞いて観念した。そして背後を振り返りながら一点を指差した。
「あれが尾の楔だ……」ぐっと目を瞑った。自分が情けなくて声が震えた。
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