第六章九話 ヨリモと蝸牛の奮闘

文字数 3,983文字

 小鳩姿のヨリモが先導して臥龍川(がりゅうがわ)の上を飛んでいた。
 上空からはよく状況が見て取れる。尾の(くさび)近くに誰かがいる。何かが起きている。タマ殿はどこにいるのかしら?周囲を見渡してみるが、タマやナツミの姿は森の樹冠に隠れて見出すことができない。その代わり、足下に土気色したドロドロとした生き物の群れを見つけた。色合いからしても動きからしても(まが)い者に間違いない。しかし、いつになく一体々々が大きく、しかも一つに固まって巨大に盛り上がっている。そして一人の人影。あれは、蝸牛(かぎゅう)殿。なぜ?タマ殿と一緒にいたはずなのに。とっさにナミに向けて一声鳴くと、急降下して変化しながら地上へ降り立った。
 ヨリモが地上へ降り立つちょうどその時、蝸牛が矢を禍い者に放った。その矢はちょうどその壁の、上へと伸びていく重みと下から支える力とが均衡する中心点を、何体かの禍い者の身体を大きく損ないながら射抜いていった。そのために安定感が悪くなった禍い者の壁は少し揺れた後、どどど、と崩れ落ち、水中に沈んだ。しかし、またムクムクと土気色は水面に顔を出し、層になり、再び壁になりながら上に向かって積み上がっていった。
「これはどういうことです?」蝸牛に駆け寄りながらヨリモが訊いた。
「分からん。急に巨大な禍い者が湧いてきて、ずっとあんな風に壁になっている。どうやら結界を破ろうと試みているようだ。もう我も何度あの壁を崩したことか。しかし何度崩してもああして再生してくる。キリがない」蝸牛はゆっくりと言いながら地に突き立てていたヨリモの槍を抜いて、手渡した。「我の矢も残り少ない。手伝ってくれぬか」
「ありがとうございます。分かりました。それでタマ殿は?」
「ああ、三輪神社の眷属と先に湖に向かった。もうかなり先に行っているだろう」
 その蝸牛の声に一瞬ヨリモは厳しい表情を見せた。しかし、この状況を看過できるほど我が身勝手にはなれない性分ではあることは自分が一番よく分かっている。だから、目を(つむ)り、一息大きく息を吸った。
「ねえ、これは何?今、状況はどうなっているの?マコはどこ?」空中に浮かびながらナミが足下の二人に声を掛けた。
「この川を(さかのぼ)って行けばすぐに湖に辿り着けます。河口の少し先に小さな祠があります。その近くに人影があります。恐らくそれが禍津神(まがつかみ)。そこにマコ殿はおられるかと。私はここで結界を守らないといけません。どうかお先に」
「分かったわ」と言うが早いかナミは飛び去った。
 ナミが行き、ヨリモと蝸牛は改めて禍い者の壁を見上げた。その先端が更に上に伸びようとした時、宙に縄が出現して一番上部分の禍い者を弾き飛ばした。その現れた結界の姿を見て、先ほどよりも細くなっている、と蝸牛は思った。色も薄くなっているような。
「まずいな。結界が弱っている。これ以上、接触させてはいけない」
「ええ?それは、どうにかしないといけませんね」
 蝸牛は少し考えてから、またゆっくりと口を開いた。
「では、ヨリモ殿。水面から湧き出てくる禍い者を(やり)で退治してくだされ。手が間に合わず壁が再生されてきたら、我が矢を射て崩す」
「分かりました。では」そう言うとヨリモはすぐ横が崖になっている狭く、足場の良くない川岸を飛ぶように結界との境目に向かって駆けた。蝸牛は(えびら)から矢を抜くと弓につがえ引き絞った。もう残りの矢は十本ほど。一本も無駄にはできない。よく狙いを定めてから放った。
 再び壁が崩れ、大量の禍い者が水飛沫(みずしぶき)を激しく立てながら水中に没した。しかし、すぐにぼこぼこと新たに土気色が浮かんでくる。ヨリモは水面に足を踏み出した。沈む前にもう片方の足を前に出す。更にその足が沈む前に別の足を前に。
 実質、神々の発する気を固めて生成された眷属は肉体を持つ人間と比べ重量が軽かった。そんな眷属の中でも比較的身体の小さいヨリモは更に、軽快に水の上を走ることができた。そして浮かんできた禍い者の一体を手に持った槍で一突きした。ぐぶゅるという叫び声とも破裂音ともつかない音を立てながらその禍い者は四分五裂した。その時にはヨリモの身体は腰まで水中に没していた。軽いとはいえ、動きを止めれば沈んでしまう。慌てて水面を手で叩き、足を抜き出し再び水面を走って対岸に上がった。そして振り返る、とすでにまた新たな禍い者が水面にその顔を出していた。再度、水面を駆け、槍で一突き、沈みかけた身体をまた水面に上げてから対岸に。再び振り返ると更に禍い者は数を増して顔を出していた。呼吸を整えている間にもその数は増えるばかり。いったいどれだけの禍い者が潜伏しているのだろう。
 それから何度か水面を駆け、一体ずつ禍い者を消滅させていったが、気づくと土気色の壁が出来上がり川面に影を落としていた。やむを得ん、と蝸牛が矢を放ち、壁を崩壊させた。そんなことを何度か繰り返した結果、ヨリモの体力と蝸牛の矢が減っていく一方で、禍い者の勢いはさほど衰えを見せなかった。
 再びポコポコと水面から顔を出す禍い者を見つめながらヨリモは覚悟を決めた。結界の外にいればいくら大量の禍い者が湧いてきても自分が襲われることはない。しかしそれも結界が残っていればこそ。正直、この美和村の大神は信用できない。いつ結界を張っている大御力(おおみぢから)を解いてしまうか分からない。しかし、ここでとどめないとこの村、いやこの郷全体が大変なことになる。自分の守るべき八幡村や民、眷属の仲間たちにもどんな災いが降り掛かるか分からない。第一、災厄を封じることができなくなってしまう。
「蝸牛殿、これから私は禍い者たちの中に討って出ます。援護をお願いします」言うが早いか、返答を待たずにヨリモは川岸を駆けはじめた。そして結界を通りすぎ、禍い者たちが蠢く中に突撃した。
「待て、いくら何でも無茶だ。戻るんだ」そう叫ぶ蝸牛の声を背に、ヨリモは水面に浮かび上がっている禍い者を踏み台にして縦横無尽に川面(かわも)を駆け回った。駆け回りつつ周囲の土気色を突きまくった。
 禍い者の中にはヨリモを取り込もうと、彼女に向けて身体を伸ばす者、大口を空けて飛翔している彼女の着地を待ち構える者もいたが、向かってくるそれを()ぎ払い、開いた口に槍を突き立て、それを支点に更に飛んで回避した。
 ヨリモのそんな姿に蝸牛は舌を巻いた。誓約(うけい)によって生じた眷属の能力が高いことは聞いていたが、これほどとは思っていなかった。と同時に指をこまねいて眺めている自分に歯がゆさを感じた。もう矢は残り三本。もしもの時のために今、使うことはできない。何か代わりになるものは、と彼が周囲を見渡すと、対岸に崩れた石垣の跡があった。どうやら畑の段になっていたものらしく、形は不揃いだったが、大きさはおおよそ彼の頭ほどの石で統一されているようだ。半分ほど上部が崩れてそこら辺に散乱していた。彼は弓を肩に担ぐと川面を見た。自分が泳げるかどうかは経験がないので分からない。でも、やらなければいけない状況だった。一度、深呼吸をすると、兄者、申し訳ない。言いつけを破ります、と心中で呟いて、そして駆けた。彼の脳裏では川の半ばくらいまで水面を駆けていければ後はどうにかなるだろう、という思いがあった。しかし、すぐに水底に足が着いた。三歩目ですでに腰が水に浸かった。えーい、どうにでもなれ、そのまま水中を歩き続けた。すぐに足元に水底の感触がなくなった。
 精一杯(あご)を上に向け、何とか呼吸ができる状態を維持した。身体中に水圧が掛かり、押し寄せてくる水に音を奪われ、冷静な思考を奪われた。こんなに水の中が怖いものだとは、やはり兄者の言うことは正しかった。まだ水の中に顔が沈んだ訳でもないが、呼吸が急に苦しくなった。一気に想念が混乱の極みに引き込まれそうになる。もう元の岸に戻ることしか考えられない。一刻も早く。
“落ち着け。そんなにあたふたするな”
 ふと、よく兄者たちに修練の場で言われたことを思い出した。あまりに繰り返し言われ続けたので、自分が慌てている場合にふと思い出す。すぐ慌てたがる自分への(いまし)めの言葉としてすぐに浮かび上がってくる。
“よいか、どんな時も慌てるな。慌てると動きに無駄が生じる。無駄はすなわち隙となる。そなたの身体はそなたの意思によって完全に動かさねばならない。そのためには状況に惑わされずに常に冷静であれ”
 とっさに蝸牛は一息大きく吸った。大丈夫、息はできる。このまま前に進むことができれば。
 必死に手で水を掻き、足をバタつかせた。何とか顔を水面に出したまま、ゆっくりではあったが前に進んでいた。慣れてくるにつれ、小刻みに手を掻くよりもゆっくりでも大きく掻く方が前に進めることに気がついた。せっかく大きな体に育ててもらったのだから、と蝸牛は川幅の半ばからは身体全体を使い、速度を上げながら泳ぎ続けた。やがて対岸に辿り着いた。
 岸に上がると身体中にずっしりとした鈍い重さを感じた。普段あまり使わない身体の部位を酷使した感覚があった。泳ぐということがこれほど体力を消耗することだとは、と独り()ちながら来た川面を眺めた。こんな距離をよく泳げたものだ、と少し自分で感心した。しかしそれも束の間、すぐに崩れた石垣の石を両手で持ち、土気色の壁に走り寄り投げつけた。
 ヨリモは倒しても倒しても数を増やしてくる禍い者に正直、辟易(へきえき)としていた。終わりの見えない戦闘に焦燥感を覚えはじめていた。自分の体力の限界も見えはじめてきた。そんな時、いきなり大きな石が飛んできた。幾つも次々に飛んできて禍い者を粉砕しては水面に没していった。
 それからは、少しずつではあったが禍い者の現れてくる数よりも自分たちが討伐する禍い者の数の方が勝ってきた。次第々々に禍い者の数が減っていく。自分たちが成果を上げている手応えを感じて、更に二人は奮闘した。
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