第十三章三話 山を下りる

文字数 5,434文字

 タカシは猿山(えんざん)たちの待つお堂に足早に向かっていた。
 正直、身体はとうの昔に限界を越えている。身体中の筋肉が悲鳴を上げている。しかし、その苦痛が意識される度に彼はそれを意識の外に追いやった。この(ぎょう)の間、そうしなければ先に進むことすらできなかったからだが、今では(くせ)のように意識せずともできるようになっていた。そうすることにより、ふっと身体と心から力が抜け、苦痛がやわらぐ。自分の内からの声もまだ聞こえていたが同じように無視することで、少しも気にならなくなっていた。そんな感じだったので、彼は自分のことはあまり心配していなかった。それよりも心配なのは、時間。ここまで経過した時間ははっきりとは分からない。ただ、感覚的には三日は優に経っている気がする。加えて滑落して気を失っていた時間を合わせると更なる時間が経過しているだろう。その間、リサが無事だったのか、今、彼女を取り巻く状況がどうなっているのか早く確認したくてしょうがなかった。
 そんな焦りを抱えつつ、やっとの思いで多聞峰(たもんほう)を下り終えた。後はお堂に向かうだけ。お堂にいたる道の途中にマサルとクロウの姿が見える。こちらをにこやかに眺めている。どうやら自分の帰りをずっと待っていてくれたようだ。そんな二人の背後に太陽が輝き、煌々とその光で辺りを包んでいた。
「そなた、やるな。本当に満願してくるとは」彼を迎え入れながらクロウが言う。
民草(たみくさ)で満願されたのはそなたが初めてです。心より感服いたします」とうやうやしくマサルが言う。彼らはそのまま、行の終わりの瞑想をさせるために彼をお堂へと導いていった。
 それからタカシは猿山に促されるままに座禅を組んだ。ただ、時間的な焦燥感が邪魔をしてなかなか瞑想に入れない。それを察して猿山が言う。
「いらぬことを考えるな。心配せずともそなたが思っておるより、時間は経ってはおらぬ。ここは神の山。麓の世界とは時間の流れが違う。さあ、早くここを出たいなら、心配事を忘れ、瞑想せよ」
 その言葉に従い、心を落ち着かせ瞑想する。自分のとても深い底の更に底まで降りていく……
「目を開けよ」
 言われるがままに目を開く。その目を猿山の澄んだ目がじっと射抜くように見つめている。
「よくぞ満願された。さあ、行きなされ。そなたの願いを叶えてまいれ」
 呆気(あっけ)なく行は終わった。タカシはやっと終わったと長く一息吐いた。そしてすぐに着替えてから、猿山と不動明王像に低頭して礼を言った。
 それからタカシとマサルとクロウの三人がお堂を退出しようとした際、猿山がマサルに向かって声を掛けた。
「マサル、これまでそなたにはいろいろと迷惑を掛けたな。我がこのお堂に籠ったことで結果的にすべてをそなたに押し付けた形になってしまった。しかし、その苦労がそなたには(かて)になったようじゃ。少し見ぬうちにすっかり立派になったな。これからは安心してすべてを任せられる」
 今までそんなこと言われた(ためし)はない。だから少し戸惑いつつマサルは答えた。
「そんな、我などまだ猿山殿の足もとにも及びません」
 猿山は長く一息吐くと急に気を振り絞るように声を上げた。
「よいか。どうやらこの郷は滅びへと向かっておるようだ。そなたは第一眷属として、みなを率いてその進行に抗え」
 なぜ改まってそんなことを言うのか分からず、マサルは二の句が継げなかった。
「我の後を継いだ者よ。山王権現(さんのうごんげん)の名に恥じぬよう、みなを動かし、和を築け。そなたならできる。さあ、早う行け」
 疑問に思いつつも短く返事をするとマサルはタカシたちとともにお堂を後にした。
 猿山は堂から出てマサルたちが下山道に入ったことを確認すると、天空高くそびえる三つの峰を見上げた。この峰ももう崩れる。この大地の力が弱まっておる。大地から力を得ておる大神様の力もまた弱くなられておる。この郷の和が乱れたせいじゃろうか。何とか我もここまで持ちこたえてきたが、もう支えきれん。峰は崩れる。かろうじて岩を麓に落とさんようにできるじゃろうか。……はあ、何とも、無常じゃな。

 草木の繁茂する山道をしばらく行った頃、突然、小刻みに、次第に跳ねるように地が揺れ、背後からけたたましい轟音が鳴り響いた。三人ともに振り返る。その目に、そびえたっていた三峰が次々と崩壊していく信じられない様子が映った。とっさにマサルとタカシは山道を戻ろうとするが地が揺れて前に進めない。そんな二人を尻目にクロウが羽を広げて、お堂の方へと飛んで行った。
 しばらくして揺れが収まる頃、二人のもとへクロウが戻ってきた。
「猿山殿は」と言うマサルの問いに、ゆっくり首を振りながらクロウが答える。
「峰はすべて崩壊した。お堂もその下敷きになっていた。恐らく猿山殿は助かっておらんだろう」
 沈鬱な空気が辺りを流れた。猿山殿はこのことを知っていて、先ほどあんな話をしたのだろうか。マサルは苦渋の表情を浮かべながら思った。それなら、最期の言葉、その通りにせねばならん。そして顔を上げた。猿山の意志を胸に抱いて。
「さあ、参りましょう。事態は一刻を争います。ゆっくりしている暇はありません」
 言いながら先んじて下山しようとするところへクロウが声を掛けた。
「我も、我が村に帰って兵を募ってこよう。どれだけ集められるか分からぬが、この郷の和のためだ。でき得る限りのことはしてくる。では、二人ともまた」
 そう言って飛び立っていくクロウの姿を見送った後、タカシとマサルはまた山を下りはじめた。
 マサルは思いつめたような顔をしてただ山を下っていった。それに遅れないようについてく。しばらく行くとタカシの目の前に頭上からぽとりと何かが落ちてきた。
 よく見ると、それは(まが)い者だった。両手の握り(こぶし)を合わせたくらいの大きさ。大雨とともにこの地に落下してきたが、途中で木の枝に引っ掛かっていたのだろう。取り込む獲物が下を通っていることを察知して、慌てて落ちてきたのだろう。土気色の身体をわさわさと動かしている。今にも飛び掛かってきそうだ。
 先行していたマサルはふと気配を察知して振り返った。禍い者?小さいが、民草には対抗できぬだろう。あの男は逃げればよいのに、腰でも抜かしたのだろうか?そう思っているとタカシがすうっと禍い者の方へと片手を伸ばした。あの男いったい何をするつもりだろうか?
 タカシの目に禍い者の身体の中でほんのりと灰色に光っている丸い塊が映っていた。幾本もの触手のような線を身体中に伸ばして動かしている。それに触れられそうな気がして、手を伸ばす。もうすぐ禍い者の身体に届く、と禍い者がその手に飛び掛かってきた。その瞬間、彼の手から白く輝く別の手が伸びた。そして禍い者の身体の中心にあった灰色の光を掴んですっと戻ってきた。すると禍い者の身体が瞬時に溶け、地面にどしゃっと落ちてシミとなって消えた。
「そなた、いったい何をしたんです?」一部始終様子を見ていたマサルが問う。
「いや、できそうな気がしたからやってみたらできた」と平然とタカシが答える。その手にはオタマジャクシのような形の光が一つ握られている。手を開くとその光はふわっと浮いて、風に乗って樹々の中に飛んでいった。
「できたって何ができたんです?」と更にマサルが問う。
「いや、禍い者の身体の中に光が見えて、それに触れられそうな気がしたから、手を伸ばしたら取れた」と更に平然とタカシが答える。
「ええ?」と言うマサルには禍い者の光もタカシの手から伸びた光る手も見えていなかったのだろう、困惑した表情を見せている。
 実際、最後に峰を登り切って以来、タカシが意識して凝視すると、有情、無情関係なく命あるものすべての中に光が見えた。もちろんマサルの中にも白い輝きが見えるし、周囲の草木の中にも見える。この世がこんなに光輝くものだったなんて知らなかった、と思うくらい周囲は光だらけだった。
「その光を取り出すと禍い者は溶けてなくなったんだ」
 マサルは困惑した表情のままだったが、言葉を継いだ。
「それが、そなたが得た力なのでしょうね。いったいどんな力なのか私にはよく分かりませんが」
 苦労して手に入れた力にしてはかなり地味な気もしたが、とりあえずこれで禍い者に対抗することは証明できた。こんな力でリサの助けになれるのかどうかは分からないが、自分を信じて行くしかない。ゆっくりしている暇はない。さあ、行こう、と声を掛けてタカシはまた進んだ。
 やがて伏龍寺(ふくりゅうじ)に向かう横道に差し掛かった。その横道に入るとマサルが言った。
「我は寺に寄って、みなを引き連れて郷の中心、災厄のところに向かいます。現在、どんな状況になっているのか分かりませんが、我らも微力を尽くさねばなりません」
 その目には、煌々と意志の火が灯っていた。その目を見ながらタカシは答える。
「俺は、先にリサの所に向かう。何ができるのか分からないけど、絶対にこの世界を崩壊させたりしない。そのために全力を尽くす」
 マサルは、タカシの決意と覚悟を宿した目を見て微笑んだ。彼だけではなく眷属一般に、民草は非力であり、庇護されるべき者だと思われている。そんなただの民草であるはずのこの男を見ていると不思議と何かしてくれそうな気がする。至極、感覚的に。
 そして二人は長い石段に差し掛かって別々の道を進んだ。
 マサルは石段を上り伏龍寺へ。タカシは石段を下り、リサのいる、郷の中心へ。

 ――――――――――

 少し前、ミヅキは、リサの身体を乗せた水龍の背後でその姿を見上げていた。リサまでは彼女の跳力なら三度も跳べば届きそうな距離だったが、その間に小さな、と言ってもミヅキの背よりも大きな水龍が無数に頭をもたげて進行を阻止している。その水龍たちはやはり強い。先ほどマコが引き連れてきた時よりも更に強くなっている。群れを突破するどころか一匹に対するだけでも精一杯だった。これまで何度か挑んでみたが、その度に少しも進めず、後退していた。
 そんな突撃に二の足を踏んでいるミヅキの背後で、ナツミが足もとに落ちている鋼線を手に取っていた。二十メートルくらいの長さがあり、近くに倒れている電柱から彼女の足もとまで伸びていた。
 そのむき出しの鋼線は持ってみると(くさり)よりも細いが硬く、曲がりづらそうだったし、何より重かった。とはいえナツミは手ぶらでは何もできないと思い、その鋼線をそこら辺に落ちていた大きな石を使って接続部分で電柱から切り離した。まあ、使えないことはない。これでうちも戦える。あの民草の娘を助けつつ、兄者たちの(かたき)、災厄の分御霊(わけみたま)を討つ。
 一方、如月(きさらぎ)はミヅキに駆け寄りながら、前方の状況を確認していた。災厄の分御霊と対峙しているのは、風の神?あれはもしや気吹戸主大神(いぶきどぬしのおおかみ)か?なぜそんな祓いの神がこんな所に?如月は恵那彦命(えなひこのみこと)が気吹戸主神の分御霊だったことを知らない。だから眼前に姿を変えた恵那彦命がいることに気がつかなかった。
 とにかくあの神のお蔭で災厄の分御霊は足止めを喰らっているようだ。気吹戸主大神ならあの娘の魂を傷つけずに災厄の分御霊だけを根の国へと吹き飛ばすことができるはず、しかし恐らく今はまだ災厄の分御霊の力が強いために息吹(いぶき)を放てないのだろう。如月は、昔聴いた話を思い出しつつ今後の展開を読んでいた。彼女は一線を退いたとはいえ隊を率いて数々の戦闘を繰り広げてきた身、即座に進退について判断した。
 頭上にはナミが飛び回りながら状況を把握しようとしている。それを見上げながら剣を持つ片手を上げる。ナミが気づいて視線を向けると指を立てて、わっちらが地上から攻めたら合わせて頭上から攻撃してくれ、と身振り手振りで伝える。ナミは軽く頷いた。
「そなたたち、後方からあの龍たちを攻めよ。倒す必要はない。災厄の気がこちらに向けばそれでいい。無理はするな」
 如月がミヅキとナツミに向かって言い放つと同時に一陣の風が吹いた。如月の白いマントと豊かな黒髪が風になびく。そこには第一眷属の矜持としての威厳が濃厚にはためいていた。そして思わずミヅキが、了解、と声に出す時にはすでに如月は跳ねていた。両手に剣を持ち、水龍たちの群れに突っ込むとたちまちのうちに数体の水龍が姿を消した。そしてそのまま突っ切り、右に左に向きを変えつつ跳び続け、やがてリサを乗せた大きな水龍の脇に達すると更に跳び上がりそのまま巨大な水の固まりに突っ込んでいった。
 
 そして今、ミヅキは水龍の群れの外でまたリサの姿を見上げていた。そのかたわらに如月も戻ってくる。ナツミも後退し、ナミも空中で一息吐いていた。全員何とも攻めあぐねていた。何度も攻めた。しかし、いくら攻めても災厄の分御霊の本体はこちらに目を向けようともしない。周囲の水龍や激しく繰り出される水の槍や刃によって近づくことも難しい。かろうじて恵那彦命の力で災厄の分御霊の進行を防いでいる状況だった。
 そんな恵那彦命も焦っていた。災厄の分御霊は激しく攻めてくる。それを防ぐだけで精一杯。それに力が次第に減っている。力の供給源だった大地との繋がりを自ら断ったのだから当然ではあった。気吹戸主だった頃は周囲に仲間の風があったし、時折、大きな風がどこからか送られ、力を補充することができた。しかし、今は自分で風を起こさねばならない。力は目減りしていく一方だった。
 どうにかしないと、このままでは、我は何もできないまま、消えてしまう……
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